7 / 13
始の太刀 天命の魔剣
第6話 姉妹のような二人
しおりを挟む
「あー、疲れた……」
ローザリッタに遅れること四半刻。
ようやく裏手の森からヴィオラは屋敷に戻ってきた。
その手には二本の木刀。一本は自前のものだが、もう一本はローザリッタが森の中で放り出していったものだ。
「朝っぱらから跳ばせるなっての……」
不平を口にするヴィオラの顔には相当な疲れが滲んでいた。顔だけでなく、侍女服のいたるところに泥のはねた跡や木の葉がついており、実に薄汚れている。森の茂みを掻き分けて、とぼとぼ地道に歩いて帰ってきた証拠だ。
先行するローザリッタに追いつくために、初っ端から全力で〈空渡り〉をしたせいで、ヴィオラには帰りに跳躍する体力が残っていなかった。
疲労困憊な状態で〈空渡り〉をしても、足場の枝を踏み外したり、高度が足りなくて墜落したりと、かえって危険な目に遭いかねない。並外れた跳躍術を会得したことに自惚れず、その状況に適した移動手段を選択することも、安全に空を駆け続けるこつだ。
というより、あれだけ跳びまわった後に走り出せるローザリッタのほうがはっきり言って異常なのだ。才能の桁が違うと改めてヴィオラは痛感する。
「――ご苦労様でした」
屋敷の裏門まで辿り着くと、門前に待機する巡邏の二人組がヴィオラに労いの言葉をかけてきた。苦笑を浮かべながら、手を挙げて応じる。
「……おう。あんたたちも朝っぱらから災難だったな」
「いえ、自分たちは……」
巡邏二人は思わず顔を見合わせると、ぎこちない笑みを返した。
その不審な態度に、ヴィオラは思い当たる節があった。飛び出した時のローザリッタの格好だ。半裸同然の寝巻き姿を思えば、下着の一つでも見えてしまったか。故意ならば不敬罪で厳罰だろうが、当の本人があの格好では不可抗力と主張されても否定できないだろう。
(……お嬢のそういうところは、いずれ直さなきゃなぁ)
ヴィオラは内心で嘆息した。
庶民と貴族とでは、羞恥の感覚に大きな隔たりがある。
日常生活のあらゆる場面で他者の視線が存在する貴族に、私的自由などあってないようなものだ。
伯爵家の令嬢ともなれば常に近侍が側に控え、着替えや入浴、時には排泄などの世話を受ける。それに対して、いちいち恥ずかしがっていてはとても暮らしていくことはできないだろう。
ただし、それも同性に限った話である。
むしろ、男性に対しての羞恥心の基準は庶民よりもはるかに低く、また鋭い。
何故なら、貴族令嬢は純潔であることを求められるからだ。
貴族の家に生まれた女は政略結婚を宿命づけられており、嫁いだ先の血を繋いでいくのが役目。
しかし、生まれてくる子供に、自分の血が半分流れていることが確約されている女性側と違って、男性側は本当にそれが自分の子供かどうか確かめる術はない。もし、妻が胎に夫以外の子を宿したまま結婚を果たし、出産後にそれが明るみになってしまえば、爵位や財産の継承権を廻って家同士の対立に発展する可能性がある。
それを避ける最も安全な方法は、自分以外の男を知らない娘――つまりは処女を娶ることだった。
貴族の男が純潔の令嬢を妻に求めるのは単に支配欲を満たすためではない。血統が爵位継承の条件である貴族制度において、家の存続と家同士の結びつきを第一に考えているが故の当然の要求なのである。
そういった経緯があるため、貴族の令嬢たちは婚礼を迎えるその日まで決して間違いを起こさないように、幼少期から徹底した貞操教育を施される。
異性からは遠ざけられ、私的な恋愛は禁止。そうして育てられた結果、自分の体は夫となるべき男にのみ捧げることを至上とし、それ以外の男に辱めを受けるくらいなら舌をかみ切ることさえ厭わない――そんな異性に対してのみ極度に潔癖を発揮する精神性を獲得するのである。
それを踏まえると、巡邏に下着を見られてしまった一般的な伯爵令嬢の反応としては「もうお嫁に行けない」とさめざめ泣き崩れるあたりが妥当だろうが――ヴィオラが嘆く通り、ローザリッタの反応はそれにまったく当てはまっていなかった。
それもひとえに、これまでに打ち込んできた剣術修行のせいである。
人間の心と体は切って切り離せないものだ。
誰しも一度くらい、心の動揺によって体が動かなくなったことがあるだろう。命を賭けた真剣勝負の場では、ことさら心の状態が勝敗に大きく影響する。わずかな心の揺らぎが勝負の明暗を分けるのだ。
感情の中でも、驚、懼、疑、惑――つまり、驚き、恐れ、疑い、惑う――の四つは、戦場において最も起こしてはならないものだと考えられており、これを剣術世界では四戒と定め、忌むべきものとしている。
ローザリッタも剣術を始めたての頃は、それなりに異性の視線を気にしていた。
しかし、試合の最中などに気もそぞろになっているようでは、相手にわざわざ打ち込む隙をこちらから与えてしまうようなもの。上達するのに羞恥心など足枷に過ぎない。そう判断したローザリッタは剣士として熟達していく過程で、本来、令嬢が持つべき異性に対する極端な羞恥心が自然と薄まっていったのだ。
とはいえ、ローザリッタも常識知らずではない。感覚が鈍磨しているといっても、それが恥ずかしいものだという知識は残っている。ただ、実感が伴っていないため、今回のようなことをやらかしてしまうのである。
「……お館様には黙っといてやる。ところで、お嬢は戻っているか?」
「はい。先程、走って――いえ、跳んで戻られました」
巡邏は苦笑いを浮かべた。その口ぶりからするに、飛び出した時と同様の光景が繰り返されたに違いない。
「化け物だな」
「それに追いつけるヴィオラ殿も大概かと」
巡邏の追従に、ヴィオラは鼻を鳴らす。
「確かに短時間ならいい勝負ができるかもしれないけどな。持久力って意味じゃ、全然相手にならないさ」
言いながら、ヴィオラは裏門を潜ろうとする。
すると、噂をすれば影――ローザリッタがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「うげっ」
ヴィオラはその姿にぎょっとする。
森の中で合流した時よりも、一層、あられもない格好になっていたからだ。
寝巻きの着崩れは極限にまで達していた。
白い肩はすっかりむき出し。開けた胸元から見える乳房はほぼ半球。かろうじて布地が先端部分に引っかかっているものの、ゆっさゆっさと上下に激しく揺れているので安心はできない。左右の裾を繋ぎ止める腰帯は今にも解けそうなほど緩んでおり、崩壊まで秒読みだ。今から駆け寄っても間に合わないかもしれない。
――なので。
「許せ、お前ら――‼」
ヴィオラは巡邏二人に渾身の蹴りを見舞う。
「「うぼぁ――‼」」
あっさり吹き飛ばされた二人は、白目を剥いて地面に倒れた。これは純粋な災難である。
「おかえりなさい! さすがヴィオラ、計ったように戻ってきました――うにょ⁉」
ヴィオラは両手に持っていた木刀を放り投げ、駆け寄ってきたローザリッタの頬を両手で引っ張った。
「いい加減にしろよ、この破廉恥……!」
餅のように両頬の皮を伸ばしながら、敬うべき主人に対する態度としては失格だが、朝から駆けずり回されたせいで、さすがにむかっ腹が立っている。一言文句を言わないと気が済まなかった。
「寝起きのたった一刻の間に何回粗相をすれば気が済むんだ、ああん⁉」
「ひたい、ひたいでふって!」
「あたしはそんなはしたない妹に育てた覚えはねぇぞ! 姉代わりとしてとても悲しい!」
「ふぁふぇふぁ、ふぃふぉふふぉふぇふふぁ!」
「口答えすんな! だいたい、この間だってな――」
ヴィオラはしばらくの間、一言どころか一頻り文句をぶつけ続けた。
「……ちゃんと反省したか?」
言いたいことを言ってすっきりしたのか、ヴィオラがローザの伸びきった頬からぱっと手を放した。
「はい。しました……」
真っ赤になった頬を押さえながら、ローザリッタが消沈したように呟く。逃れようと思えばできただろうが、甘んじて折檻を受けていたのは、彼女なりに振り返る部分があると思ったからだろうか。
「ほら、忘れ物」
ヴィオラは地面に放り出した木刀を拾うと、ローザリッタに差し出した。
「あ。わたしの木刀。拾ってきてくれたんですね、ありがとうございます」
「どういたしまして……まあ、自棄になる気持ちもわかるけどな。いよいよ元服できるって楽しみにしてたのに、それがなくなったんだからな。それで、どうだった? お館様と話はついたか?」
「……そうでした!」
言いかけたことを思い出したのか、ローザリッタがはっとした声を上げる。
「ヴィオラ、すぐに湯殿の準備をお願いします!」
「なんだよ、藪から棒に」
「これから中庭の石灯篭を斬るんです!」
「……は?」
ますます困惑するヴィオラに、ローザリッタはマルクスとのやり取りを詳しく説明した。
「……石灯篭を斬ることができたら武者修行を許す、か。お館様がそんなことをね」
ヴィオラは腕を組んで唸る。まるで、マルクスの真意を確かめるように。
「灯篭を斬るなんて初めての挑戦ですが、挑むからには最大限の準備をして臨みたいのです」
「それで湯浴みね」
ヴィオラは主人の意図を汲み取った。
「――〈殻断ち〉を遣う気だな?」
「はい」
ローザリッタははっきりと頷く。
〈殻断ち〉もまた、〈空渡り〉と同様にエリム古流に伝わる奥義の一つだ。
本来は、硬い甲殻や外骨格を持つ〈神〉を攻略するために開発された技であり、文字通り、硬い甲殻を断ち斬る高威力の斬撃である。
ただ力任せに剣を一点にぶつけるのとはわけが違う。
全身の筋肉から生じる運動量を余すことなく剣先に乗せ、正しい刀線刃筋を維持しながら引き斬る――聞くだけなら単純そうに見えるが、緻密な太刀筋と身体制御を求められる絶技だ。
「〈殻断ち〉を極めるには、わずかな狂いも許されません。まして、岩石の類を相手に試斬など一度もやったことはありませんから……」
「験も担ぎたくなる、か」
それは剣術家の間に古くから伝わる慣習だった。
『身の穢れは心の穢れ、心身の不浄は太刀筋の不定に通じる』――と、剣術遣いの間では固く信じられている。
といのも、刀という武器は実に繊細な構造をしており、正しく刀線と刃筋が立たなければ、最大限の切断力を発揮しないようにできているからだ。そのため、わずかな手元の狂いで平打ちの力が加わり、刀身が折れ跳ぶことも十分にあり得る。実戦でそのような失態を晒さないために、刀遣いは藁にも縋る想いで身綺麗を心掛けているのである。
「そうです。挑む以上は全力全霊で。やれることはやっておきたいのです」
「なるほどな」
慣習が信じられているのも事実だが、どちらかと言えば、人事を尽くしたという精神的安定が肝だ。
いざ直前で、ああしておけばよかった、と後悔が生まれれば、それだけで迷いが生じてしまう。刀遣いにとってそれは致命的なことだ。何事にも手を抜かないローザリッタの気性は、ヴィオラは嫌いじゃない。
「わかった。さっそく湯殿の手配をしよう。……その前に」
未だ地面に倒れ伏している巡邏二人を、ヴィオラはばつが悪そうに見つめる。
「……ちょっと、こいつらを介抱してからでいいか?」
ローザリッタに遅れること四半刻。
ようやく裏手の森からヴィオラは屋敷に戻ってきた。
その手には二本の木刀。一本は自前のものだが、もう一本はローザリッタが森の中で放り出していったものだ。
「朝っぱらから跳ばせるなっての……」
不平を口にするヴィオラの顔には相当な疲れが滲んでいた。顔だけでなく、侍女服のいたるところに泥のはねた跡や木の葉がついており、実に薄汚れている。森の茂みを掻き分けて、とぼとぼ地道に歩いて帰ってきた証拠だ。
先行するローザリッタに追いつくために、初っ端から全力で〈空渡り〉をしたせいで、ヴィオラには帰りに跳躍する体力が残っていなかった。
疲労困憊な状態で〈空渡り〉をしても、足場の枝を踏み外したり、高度が足りなくて墜落したりと、かえって危険な目に遭いかねない。並外れた跳躍術を会得したことに自惚れず、その状況に適した移動手段を選択することも、安全に空を駆け続けるこつだ。
というより、あれだけ跳びまわった後に走り出せるローザリッタのほうがはっきり言って異常なのだ。才能の桁が違うと改めてヴィオラは痛感する。
「――ご苦労様でした」
屋敷の裏門まで辿り着くと、門前に待機する巡邏の二人組がヴィオラに労いの言葉をかけてきた。苦笑を浮かべながら、手を挙げて応じる。
「……おう。あんたたちも朝っぱらから災難だったな」
「いえ、自分たちは……」
巡邏二人は思わず顔を見合わせると、ぎこちない笑みを返した。
その不審な態度に、ヴィオラは思い当たる節があった。飛び出した時のローザリッタの格好だ。半裸同然の寝巻き姿を思えば、下着の一つでも見えてしまったか。故意ならば不敬罪で厳罰だろうが、当の本人があの格好では不可抗力と主張されても否定できないだろう。
(……お嬢のそういうところは、いずれ直さなきゃなぁ)
ヴィオラは内心で嘆息した。
庶民と貴族とでは、羞恥の感覚に大きな隔たりがある。
日常生活のあらゆる場面で他者の視線が存在する貴族に、私的自由などあってないようなものだ。
伯爵家の令嬢ともなれば常に近侍が側に控え、着替えや入浴、時には排泄などの世話を受ける。それに対して、いちいち恥ずかしがっていてはとても暮らしていくことはできないだろう。
ただし、それも同性に限った話である。
むしろ、男性に対しての羞恥心の基準は庶民よりもはるかに低く、また鋭い。
何故なら、貴族令嬢は純潔であることを求められるからだ。
貴族の家に生まれた女は政略結婚を宿命づけられており、嫁いだ先の血を繋いでいくのが役目。
しかし、生まれてくる子供に、自分の血が半分流れていることが確約されている女性側と違って、男性側は本当にそれが自分の子供かどうか確かめる術はない。もし、妻が胎に夫以外の子を宿したまま結婚を果たし、出産後にそれが明るみになってしまえば、爵位や財産の継承権を廻って家同士の対立に発展する可能性がある。
それを避ける最も安全な方法は、自分以外の男を知らない娘――つまりは処女を娶ることだった。
貴族の男が純潔の令嬢を妻に求めるのは単に支配欲を満たすためではない。血統が爵位継承の条件である貴族制度において、家の存続と家同士の結びつきを第一に考えているが故の当然の要求なのである。
そういった経緯があるため、貴族の令嬢たちは婚礼を迎えるその日まで決して間違いを起こさないように、幼少期から徹底した貞操教育を施される。
異性からは遠ざけられ、私的な恋愛は禁止。そうして育てられた結果、自分の体は夫となるべき男にのみ捧げることを至上とし、それ以外の男に辱めを受けるくらいなら舌をかみ切ることさえ厭わない――そんな異性に対してのみ極度に潔癖を発揮する精神性を獲得するのである。
それを踏まえると、巡邏に下着を見られてしまった一般的な伯爵令嬢の反応としては「もうお嫁に行けない」とさめざめ泣き崩れるあたりが妥当だろうが――ヴィオラが嘆く通り、ローザリッタの反応はそれにまったく当てはまっていなかった。
それもひとえに、これまでに打ち込んできた剣術修行のせいである。
人間の心と体は切って切り離せないものだ。
誰しも一度くらい、心の動揺によって体が動かなくなったことがあるだろう。命を賭けた真剣勝負の場では、ことさら心の状態が勝敗に大きく影響する。わずかな心の揺らぎが勝負の明暗を分けるのだ。
感情の中でも、驚、懼、疑、惑――つまり、驚き、恐れ、疑い、惑う――の四つは、戦場において最も起こしてはならないものだと考えられており、これを剣術世界では四戒と定め、忌むべきものとしている。
ローザリッタも剣術を始めたての頃は、それなりに異性の視線を気にしていた。
しかし、試合の最中などに気もそぞろになっているようでは、相手にわざわざ打ち込む隙をこちらから与えてしまうようなもの。上達するのに羞恥心など足枷に過ぎない。そう判断したローザリッタは剣士として熟達していく過程で、本来、令嬢が持つべき異性に対する極端な羞恥心が自然と薄まっていったのだ。
とはいえ、ローザリッタも常識知らずではない。感覚が鈍磨しているといっても、それが恥ずかしいものだという知識は残っている。ただ、実感が伴っていないため、今回のようなことをやらかしてしまうのである。
「……お館様には黙っといてやる。ところで、お嬢は戻っているか?」
「はい。先程、走って――いえ、跳んで戻られました」
巡邏は苦笑いを浮かべた。その口ぶりからするに、飛び出した時と同様の光景が繰り返されたに違いない。
「化け物だな」
「それに追いつけるヴィオラ殿も大概かと」
巡邏の追従に、ヴィオラは鼻を鳴らす。
「確かに短時間ならいい勝負ができるかもしれないけどな。持久力って意味じゃ、全然相手にならないさ」
言いながら、ヴィオラは裏門を潜ろうとする。
すると、噂をすれば影――ローザリッタがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
「うげっ」
ヴィオラはその姿にぎょっとする。
森の中で合流した時よりも、一層、あられもない格好になっていたからだ。
寝巻きの着崩れは極限にまで達していた。
白い肩はすっかりむき出し。開けた胸元から見える乳房はほぼ半球。かろうじて布地が先端部分に引っかかっているものの、ゆっさゆっさと上下に激しく揺れているので安心はできない。左右の裾を繋ぎ止める腰帯は今にも解けそうなほど緩んでおり、崩壊まで秒読みだ。今から駆け寄っても間に合わないかもしれない。
――なので。
「許せ、お前ら――‼」
ヴィオラは巡邏二人に渾身の蹴りを見舞う。
「「うぼぁ――‼」」
あっさり吹き飛ばされた二人は、白目を剥いて地面に倒れた。これは純粋な災難である。
「おかえりなさい! さすがヴィオラ、計ったように戻ってきました――うにょ⁉」
ヴィオラは両手に持っていた木刀を放り投げ、駆け寄ってきたローザリッタの頬を両手で引っ張った。
「いい加減にしろよ、この破廉恥……!」
餅のように両頬の皮を伸ばしながら、敬うべき主人に対する態度としては失格だが、朝から駆けずり回されたせいで、さすがにむかっ腹が立っている。一言文句を言わないと気が済まなかった。
「寝起きのたった一刻の間に何回粗相をすれば気が済むんだ、ああん⁉」
「ひたい、ひたいでふって!」
「あたしはそんなはしたない妹に育てた覚えはねぇぞ! 姉代わりとしてとても悲しい!」
「ふぁふぇふぁ、ふぃふぉふふぉふぇふふぁ!」
「口答えすんな! だいたい、この間だってな――」
ヴィオラはしばらくの間、一言どころか一頻り文句をぶつけ続けた。
「……ちゃんと反省したか?」
言いたいことを言ってすっきりしたのか、ヴィオラがローザの伸びきった頬からぱっと手を放した。
「はい。しました……」
真っ赤になった頬を押さえながら、ローザリッタが消沈したように呟く。逃れようと思えばできただろうが、甘んじて折檻を受けていたのは、彼女なりに振り返る部分があると思ったからだろうか。
「ほら、忘れ物」
ヴィオラは地面に放り出した木刀を拾うと、ローザリッタに差し出した。
「あ。わたしの木刀。拾ってきてくれたんですね、ありがとうございます」
「どういたしまして……まあ、自棄になる気持ちもわかるけどな。いよいよ元服できるって楽しみにしてたのに、それがなくなったんだからな。それで、どうだった? お館様と話はついたか?」
「……そうでした!」
言いかけたことを思い出したのか、ローザリッタがはっとした声を上げる。
「ヴィオラ、すぐに湯殿の準備をお願いします!」
「なんだよ、藪から棒に」
「これから中庭の石灯篭を斬るんです!」
「……は?」
ますます困惑するヴィオラに、ローザリッタはマルクスとのやり取りを詳しく説明した。
「……石灯篭を斬ることができたら武者修行を許す、か。お館様がそんなことをね」
ヴィオラは腕を組んで唸る。まるで、マルクスの真意を確かめるように。
「灯篭を斬るなんて初めての挑戦ですが、挑むからには最大限の準備をして臨みたいのです」
「それで湯浴みね」
ヴィオラは主人の意図を汲み取った。
「――〈殻断ち〉を遣う気だな?」
「はい」
ローザリッタははっきりと頷く。
〈殻断ち〉もまた、〈空渡り〉と同様にエリム古流に伝わる奥義の一つだ。
本来は、硬い甲殻や外骨格を持つ〈神〉を攻略するために開発された技であり、文字通り、硬い甲殻を断ち斬る高威力の斬撃である。
ただ力任せに剣を一点にぶつけるのとはわけが違う。
全身の筋肉から生じる運動量を余すことなく剣先に乗せ、正しい刀線刃筋を維持しながら引き斬る――聞くだけなら単純そうに見えるが、緻密な太刀筋と身体制御を求められる絶技だ。
「〈殻断ち〉を極めるには、わずかな狂いも許されません。まして、岩石の類を相手に試斬など一度もやったことはありませんから……」
「験も担ぎたくなる、か」
それは剣術家の間に古くから伝わる慣習だった。
『身の穢れは心の穢れ、心身の不浄は太刀筋の不定に通じる』――と、剣術遣いの間では固く信じられている。
といのも、刀という武器は実に繊細な構造をしており、正しく刀線と刃筋が立たなければ、最大限の切断力を発揮しないようにできているからだ。そのため、わずかな手元の狂いで平打ちの力が加わり、刀身が折れ跳ぶことも十分にあり得る。実戦でそのような失態を晒さないために、刀遣いは藁にも縋る想いで身綺麗を心掛けているのである。
「そうです。挑む以上は全力全霊で。やれることはやっておきたいのです」
「なるほどな」
慣習が信じられているのも事実だが、どちらかと言えば、人事を尽くしたという精神的安定が肝だ。
いざ直前で、ああしておけばよかった、と後悔が生まれれば、それだけで迷いが生じてしまう。刀遣いにとってそれは致命的なことだ。何事にも手を抜かないローザリッタの気性は、ヴィオラは嫌いじゃない。
「わかった。さっそく湯殿の手配をしよう。……その前に」
未だ地面に倒れ伏している巡邏二人を、ヴィオラはばつが悪そうに見つめる。
「……ちょっと、こいつらを介抱してからでいいか?」
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?
シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。
クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。
貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ?
魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。
ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。
私の生活を邪魔をするなら潰すわよ?
1月5日 誤字脱字修正 54話
★━戦闘シーンや猟奇的発言あり
流血シーンあり。
魔法・魔物あり。
ざぁま薄め。
恋愛要素あり。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる