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20.帰還と焦燥
しおりを挟む夜明け前から、エルンストは妙に落ち着かなかった。
まだ陽も昇らぬ薄闇の中で目が覚め、それきり眠れずにいた。
帰還は夕刻だと聞いている。だというのに、今にも馬蹄の音が響いてくるのではないかと、胸がそわそわして仕方がない。
嘆願書は、昨日の朝一番で王宮へ届けさせた。ローガンに知られる前に出すことが肝要だった。全てはエルンストの独断であり、そう示すためでもある。
「本日の予定は、どうなさいますか」
ふとかけられた声に、思考が地表へと引き戻される。鏡越しに目が合い、ようやくエルンストは、リーネが傍らに控え身支度の手伝いをしてくれていたことに気づく。
「ごめん、ぼうっとしてた。何か言った?」
「いえ。ただ……あまり、眠れなかったのですか?」
図星だった。帰還の知らせを聞いた夜からずっと、ひとつのことに集中できなくなっている。
ローガンに会えるのを心待ちにしているようで、その自覚がどこかくすぐったくて、少しだけ怖かった。
エルンストは視線を逸らし、曖昧に微笑んだ。
「少し寝つきが悪かっただけだ。平気だよ」
「そうでしたか。今日は……公爵様のご帰還ですから。私も少し緊張しております」
リーネの言葉に、エルンストは小さく頷く。
この一ヶ月、帝国から嫁ぎ、ローガンのいない間に邸の内外を整え、領地の現状に向き合ってきた。そうして少しずつ、彼の残した仕事の誠実さや、人となりに触れていった。
冷血と噂される男は、結婚式ではエルンストの盾となり、戦地にあっても公爵として職務を果たし続けている。
もっと知りたいと思った。その気持ちが、会いたいという感情に変わっていることを、認めざるを得なかった。
「……今日は、しっかりしないとな」
自分に言い聞かせるように呟き、エルンストは身支度を整え直す。
夫婦になってひと月。未だ初夜すら迎えていないが、せめて迎える側として恥ずかしくない態度でありたいと思った。
「執務室で、書類を整理しておこう。閣下が戻られるなら、仕事がしやすいように整えておかないと……無断で使ってしまっていたし」
「かしこまりました。お茶をご用意いたしますね」
リーネが静かに部屋を出ていく。その背を見送ってから、エルンストは小さく笑みを漏らした。
「ありがとう。助かるよ」
再び静けさが満ちると、心がそっとざわめく。
────夕刻。彼が、帰ってくる。
たった一ヶ月しか経っていないのに、数年も会っていなかったような錯覚すら覚える。
戦場のローガンは、どんな顔をしていたのか。そして、自分は彼に何を伝えたいのか。
思いを抱えたまま、エルンストは執務室へと向かった。
リーネが淹れてくれた香り高い茶には手もつけられず、整理するはずの書類を前にしても思考は定まらなかった。
文字を追いながらも、意識の端でずっと彼の姿を探している。
窓の外で馬の嘶きが聞こえる度に、思わず身を乗り出してしまうのだった。
そして夕暮れが忍び寄る頃、ついに蹄の音が、邸へと近づいてきた。
「奥様。公爵閣下がお戻りになられました」
セオバルドの静かな声に、紙に触れていた指先が震えた。
エルンストは立ち上がり、髪を撫でつけながら応じた。
「すぐに行く」
玄関ホールに向かって駆け出すと、そこに──複数の侍従に囲まれ、鎧を脱がされる途中のローガンの姿があった。
ふるりと銀の耳が揺れ、美しい横顔が見えた瞬間、きゅうと心臓を鷲掴みにされた気分になる。
「お帰りなさいませ」
声が震えていないか、不安だった。
だが、彼はほんの一瞬だけこちらを見ただけで、すぐに視線を逸らした。
「……ああ」
ただ、それだけ。
一ヶ月ぶりの再会。もっと何かが分かると思っていた。けれど今、彼の眼差しに映る自分は、まだ〝誰か〟にすらなれていないのだと知らされた。
ふと、ローガンの装いに気づく。
戦装束の随所に赤黒い染みがある。血だろうか。足元の甲冑には乾いた泥がこびりつき、戦場の匂いがほんの微かに漂った。
「……お怪我は」
思わず問いながら、エルンストは視線で彼の体を確かめる。
ローガンは微かに眉を上げ、短く答えた。
「怪我はない。……だが」
その言葉の続きを確かめたくて、手を伸ばしかけた──その瞬間。
ローガンはほんの僅か、しかしはっきりと身を引いた。
まるで、触れられることを拒むかのような仕草に、エルンストはぎくりと固まった。
「……戦塵が酷い。湯浴みをする。セオバルド、用意してくれ」
「かしこまりました。浴室に準備が整っております」
静かな応答のあと、ローガンは言葉少なに去っていった。
彼の背が廊下の向こうに消えていくのを、エルンストは茫然と見送る。
────拒まれた。
そう思ってしまう自分が情けなかった。
だが、気を取り直さなければ。
エルンストもまた、彼の帰還のために用意を整えたのだ。
「セオバルド。閣下の衣服は洗濯へ。夕食は、準備していた通り温かいものを。……あと、ワインを一瓶、よろしく頼む」
「かしこまりました」
慣れた様子の家令に、小さく息を吐く。
自分もまた、夫人としての役割を果たさなければならない。
だが、次の言葉に思わず背筋が伸びた。
「奥様」
顔を上げると、セオバルドが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「閣下は、戦場からお戻りになったばかりです。湯浴みを終えるまでは、どうか静かにお休みいただけますよう」
浮足立っていた心を見透かされたようで、エルンストは思わず頷いた。
「あ……うん。そうだね、ありがとう」
頷きながらも、胸の内にはまだ燻るような想いがあった。
何かしてあげたい。話をしたい。近づきたい。そう思っていた。
────でも、セオバルドの言う通りだ。
今は休ませることが第一。それが、妻としてなすべきことだ。
「……少し、落ち着いて待つよ」
笑みを作って答える。けれど、胸の奥ではどうしようもない焦りが渦巻いていた。
自分は、彼のために何もできないのか。あの、銀の瞳が焼き付いて離れない。
それでも、エルンストはぐっと堪える。
あの人に恥じない妻になりたかった。
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