強欲なる花嫁は総てを諦めない

浦霧らち

文字の大きさ
35 / 62

35.交渉と地歩

しおりを挟む
 昼餐を終え、場を移したのは公爵家の応接間だった。
 机の上には分厚い帳簿と契約書の束、計算用の算石が並べられている。窓から射し込む午後の光が紙面に落ち、部屋の空気は午前の賑やかさとは対照的に張りつめていた。
 低い卓の向こう、ルオラン・メレールは上衣の胸元を指で整え、軽く笑って椅子に腰を落とす。
 エルンストは正面に座り、背後の暖炉がじんわりと熱を放つ。壁際にはローガンが控えていた。腕を組まずとも、その鋭い眼差しが場を支配しているのが心強かった。

「さて」

 ルオランがティーカップの縁に息を吹きかけ、目を細めた。

「公爵閣下ではなく、夫人が交渉を? ……久々に腕が鳴るじゃないか」

 軽口に見えて、裏には挑発がある。──ローガンなら一蹴できただろうに。
 エルンストは口角だけで笑った。

「俺の夫を軽んじるなら、覚悟してもらおう」

 ルオランが肩を竦め、掌を上に向けた。

「冗談さ。こちらの腹は決まっている。歩調が合うなら、金も人手もすぐ動かすつもりだ」
「なら話は早い」

 エルンストは、卓上の紙束を三つに分けた。

「条件は三束に整理した。供給、支払い、安全と守秘。順にいこう」

 ルオランの眼差しが商人のそれに変わる。

「まず供給。精錬鉄は寸法二種。角材と薄板。優先は角材。代替資材は麻帆布二等と革中厚。先行便は角材二十束・麻帆布十反。三日。本便は十日前後で角材百束・薄板五十・麻帆布三十・革二十。遅延は一日につき値引き一分。早着は一分上乗せで支払う」
「運賃込みか別か」
「込み。街道の護衛はこちらで用意する準備がある。城内は武器持ち込み不可、入門札運用は回状通り。倉庫三番を開ける」
「品質の口上は?」
「鍛冶組合立会いで受入検査。火花試験で等級二以上。不合格は即時差し戻し。差し替え費用は貴社負担」

 ルオランは紅茶をひと口含み、薄く笑った。

「手厳しいな」
「かのメレール交易行が、公爵家に粗悪品を掴ます気か?」
「まさか」

 彼は目を逸らさずに言い放った。

「夫人の言う通り、我々はここ十年で手抜きをしたことはない」
「そうだ。ちゃんとした品を持ってくれば良いだけの話だ」
「了解。次、支払い」
「前金小口で刻む。先行便の半金をいま、委任状で切る。受渡のたびに残金。通貨は銀貨。大口になったら王都手形へ移行。量が増えるほど割引幅を広げる——百束超で二分引き、二百で三分」
「ま、妥当かな。ではこちらからも。独占は?」
「今冬に限り半独占。金属材の優先権はメレールに与える。ただし緊急時の少量調達は妨げない」
「今冬ということは雪の間か。来春には交渉をやり直す?」
「その予定だ。雪解け後は公爵家として本格的な改革を行うつもりだ」
「面白い」

 ルオランが指で卓を叩く。

「では、安全と守秘だ」
「契約の内容と数量は守秘。対価は相場が沈むまで非公開。仲裁は王都商会仲裁院。不可抗力は天候・街道封鎖・魔獣災。虚偽があれば即時解約、違約金は残額の一割」

 紙を捲るごとに、ルオランの目の色が小さく変わる。軽口の層が一枚ずつ剥がれて、実務の目になる。温度の変化を肌で感じた。

「いいね。……さて、値の話だが」

 来たな、とエルンストは二枚の紙を卓上に並べた。
 一枚は市価に近い高値、早着ボーナスが厚い。もう一枚はやや低値、遅延ペナルティが重い。

「選べ。速さに自信があるなら左。量で稼ぐなら右。──そちらの足と天気を、どれだけ信用しているかだ」

 ルオランの眉が僅かに動く。指先が数字をなぞり、すぐに離れる。

「なるほど。選ばされているようで、結局どちらも君の勝ち筋か。……左を取る。足と天気は、こちらの女神の得意分野でね」

 壁際のローガンの気配が微かに和らぐ。彼は口を挟まない。ただ、その沈黙が確かな後押しになった。

「では、印をもらおう」

 エルンストは委任状と契約正本を重ね、狼の紋の印璽を手に取る。冷たい石が掌の熱を吸う。
 その前に、ルオランが人差し指を立てた。

「本当に閣下ではなく夫人が先に座って良かった。勝てるはずがない」

 賞賛の色が混じっていたが、負け惜しみと皮肉が隠せていない。
 エルンストは笑みを浮かべ、印璽を紙縁に押し下げる。

「夫を軽んじるなら覚悟しろと言ったはずだ。──ここからが本番だ」

 印の朱が鮮やかに広がる。さらに条項追加の欄にさらりと書き加えた。

「早着二度連続で、次便の数量を一割増しで先買い。遅延二度連続で、次便は据え置き、値引き幅一分加算」

 ルオランが喉の奥で笑い、羽根ペンを取る。

「競争は嫌いじゃないよ。──承諾」

 サインと小印が並ぶ。紙が二つに割れ、それぞれの手に渡った。
 書類を改めながら、ルオランは視線をこちらへ寄越す。

「ところで……閣下がずっと黙っているな」
「閣下はこの程度では口を出さない」
「そうか。だがあの眼差しに晒されて、まともに取引できる商人は少ないだろうさ」
「閣下はすべて俺に任せてくださった。それだけだ」

 ルオランの視線がエルンストからローガンへ移る。ローガンはそれを正面から受け止めていた。

「夫人が交渉に立ち、閣下は威厳を保つ。いい采配だったよ」
「我々の力を疑ったことを、後悔することになるだろう」
「ははは、公爵家に逆らう者など皆無だね」
「当然だ。それに……」

 エルンストの声が低くなる。

「俺が許さない」

 ルオランは満足げに頷いた。

「了解。では定期配送ルートを確定させよう。馬車も新調して手配する」

 彼は立ち上がり、契約書を鞄に収める。

「エル坊」
「なに」
「楽しそうで何よりだ。……お幸せに」

 肩を軽く叩かれた瞬間、ローガンが僅かに身を強張らせた。

「閣下、素晴らしい奥方ですね。羨ましい限りです」
「ああ」

 ローガンは短く応じ、否定はしなかった。そしてほんの少しだけ口角を上げる。
 その顔を見て、エルンストは嬉しくて堪らなくなった。
 ルオランが一礼して去り、応接間に静寂が訪れる。
 ルオランの気配が遠ざかるのを確かめると、エルンストはふっと息を吐いた。胸の奥に張り詰めていた糸が、ようやく緩む。

「……終わった」

 誰にともなく呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。掌にはまだ印璽を握った感触が残り、額には微かな汗が滲んでいる。

「見事だったな」

 低い声が傍らから降りてきた。見上げれば、ローガンがゆっくりと歩み寄ってくる。

「君の采配は的確だった。……俺が出るまでもなかった」

 いつもの無表情のままだが、その声音には僅かな柔らかさが混じっていた。

「お世辞ですか?」
「事実だ」

 エルンストは苦笑した。自分の指先が震えていることを、彼に気づかれてはいないかと内心で慌てる。

「正直……かなり緊張していました。もしひとつでも間違えれば、足元を掬われかねない相手ですから」
「だが君は間違えなかった」

 ローガンの眼差しは真っ直ぐだった。
 その視線に射抜かれると、誤魔化しも強がりもきかない。

「……ありがとうございます」

 小さく頭を下げて、仕事を終えた実感が込み上げてくる。

「緊張していたのに、楽しかったんです。久しぶりに、自分の力を出し切れた気がして」
「君が自身の仕事に満足できたなら、それでいい」

 短く言い切る声が、驚くほど頼もしかった。
 エルンストは胸の奥に芽生えた小さな誇らしさを噛みしめ、深く息を吸った。

「これからも、任せてもらえるでしょうか」
「もちろんだ。……君になら任せられる」

 淡々と告げるローガンの言葉が、何よりの褒美に思えた。
 緊張の余韻と達成感が綯い交ぜになり、エルンストの体温は上がっていくばかりだった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

記憶を無くしたら家族に愛されました

レン
BL
リオンは第三王子で横暴で傲慢で侍女や執事が少しでも気に入らなかったら物を投げたり怒鳴ったりする。家族の前でも態度はあまり変わらない… 家族からも煩わしく思われたていて嫌われていた… そんなある日階段から落ちて意識をなくした…数日後目を覚ましたらリオンの様子がいつもと違くて…

姉の代わりに舞踏会に行ったら呪われた第三王子の初恋を奪ってしまった

近井とお
BL
幼少期、ユーリは姉によく似ていることから彼女の代わりに社交の場に出席することが多々あった。ある舞踏会の夜、中庭に姿を眩ませたユーリに誰かがぶつかってくる。その正体は呪われていると噂の第三王子であったが、ぶつかられたことに腹を立てたユーリは強気に接し、ダンスを踊った後、彼を捜している気配を感じてからかいながら立ち去る。 それから数年後、第三王子は初恋の令嬢を探し始めたが、それはユーリに違いなく……。 初恋の相手を捜す第三王子×軽口令息

愛しい番に愛されたいオメガなボクの奮闘記

天田れおぽん
BL
 ボク、アイリス・ロックハートは愛しい番であるオズワルドと出会った。  だけどオズワルドには初恋の人がいる。  でもボクは負けない。  ボクは愛しいオズワルドの唯一になるため、番のオメガであることに甘えることなく頑張るんだっ! ※「可愛いあの子は番にされて、もうオレの手は届かない」のオズワルド君の番の物語です。 ※他サイトでも連載中

流れる星、どうかお願い

ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる) オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年 高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼 そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ ”要が幸せになりますように” オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ 王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに! 一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが お付き合いください!

私は……何も知らなかった……それだけなのに……

#Daki-Makura
ファンタジー
第2王子が獣人の婚約者へ婚約破棄を叩きつけた。 しかし、彼女の婚約者は、4歳年下の弟だった。 そう。第2王子は……何も知らなかった……知ろうとしなかっただけだった…… ※ゆるい設定です。ゆるく読んでください。 ※AI校正を使わせてもらっています。

妹に奪われた婚約者は、外れの王子でした。婚約破棄された僕は真実の愛を見つけます

こたま
BL
侯爵家に産まれたオメガのミシェルは、王子と婚約していた。しかしオメガとわかった妹が、お兄様ずるいわと言って婚約者を奪ってしまう。家族にないがしろにされたことで悲嘆するミシェルであったが、辺境に匿われていたアルファの落胤王子と出会い真実の愛を育む。ハッピーエンドオメガバースです。

人生はままならない

野埜乃のの
BL
「おまえとは番にならない」 結婚して迎えた初夜。彼はそう僕にそう告げた。 異世界オメガバース ツイノベです

婚約破棄を望みます

みけねこ
BL
幼い頃出会った彼の『婚約者』には姉上がなるはずだったのに。もう諸々と隠せません。

処理中です...