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Log1-1 熊野看 剛はヒーローになりたい
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少年、熊野看 剛(くまのみ ごう)の原風景は、いつだって日曜朝のテレビ画面の中にあった。
燃え盛る炎を背に、傷だらけになりながらも立ち上がる赤い戦士。彼が必殺の剣を振り下ろした瞬間、悪の怪人は爆散し、世界に平和が戻る。
ブラウン管――いや、薄型液晶テレビだったかもしれないが、とにかくその画面から放たれる光は、幼い剛の瞳を、心を、脳髄を、激しく焼き焦がした。
『男だ女だ関係ねぇ! 俺はこの街を護る、ヒーローだ!』
テレビの前の剛は、プラスチック製の剣を握り締め、画面の中のヒーローと一緒に叫んでいた。
(いつか絶対に、俺もあんな風に戦うんだ。誰かを守るために拳を握る、カッコいい男になるんだ!)
当時、小学三年生。彼の夢は、正義のヒーローになることだった。
その夢が、半分叶って、半分決定的に間違った形で実現したのは、それからすぐのことだった。
「……というわけで剛。今日からアンタが、この街を護る退魔師の跡継ぎよ」
実家の居間。煎餅をかじりながら、母の熊野看 司(つかさ)がテーブルの上に無造作に置いたのは、重厚な古びた鉄扇だった。そして、隣に座る幼馴染――府螺也 蓮(ふらなり れん)の前には、同じように年季の入った錫杖が置かれている。
「は? 退魔師? なにそれ。てか、なんで蓮までここにいるんだよ」
「昔から熊野看家と府螺也家は、代々この街を『外なる霊』っていうバケモンから護ってきたの。で、私と蓮クンのママはそろそろ現役引退ってわけ。次世代のヒーローは君たちよ、頑張ってね☆」
「ヒーロー……!」
その甘美な響きに、剛の単純な脳細胞は沸騰した。
化け物と戦う。街を護る。しかも、親公認で。こんなの、憧れ続けたシチュエーションそのものじゃないか。
「やる! 俺、絶対にやるぜ! ……でも、蓮は危ないんじゃないか? こいつ、ドッジボールでもすぐ逃げるし」
「へへ……剛にはかなわないや。でもさ、剛が戦うなら、僕も一緒に戦いたいんだ」
「蓮……お前ってやつは……!」
中性的な顔立ちで、どこか頼りない親友の言葉に、剛は熱い涙を流さんばかりに感動していた。幼馴染との熱い共闘。これぞ王道。胸が熱くならないわけがない。
「じゃあ、さっそく外に敵の反応が出てるから、その原典咒具(げんてんじゅぐ)を使って『変身』しなさいな。合言葉は『装来(そうらい)』よ」
「おおっ! 変身まであるのか! 行くぞ蓮!」
「うん!」
剛は鉄扇を、蓮は錫杖を天に掲げた。
腹の底から、ヒーローになりきるための最高の声量を振り絞る。
「「装ッ来ッッ!!」」
瞬間、咒具から眩い光が溢れ出し、二人の身体を包み込んだ。
力が湧き上がってくる。骨格が、筋肉が、何らかの未知のエネルギーによって再構築されていくのがわかる。
光が弾け飛んだ後、剛は力強く床を踏みしめ、ビシッとポーズを決めた。
「どうだ母さん! 俺のカッコいい姿――って、あれ?」
視界がおかしい。
なんだか、足元が異様にスースーする。
頭が重い。いや、頭の上で何かがピコピコ動いている気がする。
剛は恐る恐る、自分の身体を見下ろした。
「……は?」
そこにあったのは、逞しい装甲でも、マフラーでもなかった。
金魚のヒレのような、赤いひらひらとした布地。絶対領域を容赦なく見せつける、丈の短い和装ドレス。
華奢な腕、白い太もも、そして胸元には、小三にしては少しばかり主張のあるふくらみ。
さらに最悪なことに、お尻のあたりから黒い猫の尻尾が生えており、頭には立派な猫耳がピンと立っていた。
「な、なんだこれ!? スカート!? 猫耳!? 俺、男だぞ!?」
「あー、言い忘れてたけど。その咒具、絶大な霊力を引き出す代償として『女性の身体』に最適化されちゃうのよね。一度変身したら、24時間は元に戻らないから、トイレとか気をつけてね」
――はっ?
脳みそが一瞬、理解を完全に拒んでフリーズした。
「ふざけんなぁっ!! なにがヒーローだ! 魔法少女じゃねーか! 時間帯が30分ずれてる!!」
剛は顔から火が出るほど赤くなり、鉄扇で自分の短いスカートを必死に押さえた。
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。
こんな格好で外に出るくらいなら、化け物に食われた方がマシだ。
「おい蓮! お前もなんか言ってやれ……って、蓮?」
剛は助けを求めるように隣に立つ相棒に同意を求めようと振り向いた。
蓮も同じように、咒具の力で女体化していた。ライトグリーンの和装ドレスに、リスのようなふさふさの耳と尻尾。元々中性的な顔立ちだったこともあり、その姿は息を呑むほど完成された『美少女』だった。
だが、剛が驚いたのはそこではない。
蓮は、パニックになるでもなく、文句を言うでもなく。居間の隅にある姿見の前に立ち、無言で自分の姿を見つめていたのだ。
「……蓮?」
剛の声に、蓮はゆっくりと振り返った。ふわりと、ライトグリーンの裾が舞う。
「……へぇ」
蓮の唇から、微かな吐息が漏れた。
それは、戸惑いとは対極にある感情。
自身の身体の曲線を指でなぞり、頬を薄っすらと染めながら、蓮は鏡の中の『自分』に向かって、うっとりとした、それでいて剛もどこかゾクッとするような妖艶な笑みを浮かべていた。
「僕……結構、可愛いんじゃない?」
「お前、なんでそんなに冷静なんだよ! つーか満更でもない顔すんな!!」
剛の悲痛なツッコミは、けたたましく鳴り響く街のサイレンにかき消された。
特別自然災害警報、外なる霊の出現だ。
「ほら剛、行くよ。僕たちの、初陣だ」
「くそっ、カッコ悪いけど……やるしかねぇ!」
錫杖を軽やかに回すリス耳美少女(中身は幼馴染の男)に急かされ、剛は半泣きになりながら、スースーする股下を気にして鉄扇を構えた。
近所の公園に現れたのは、白いシーツを被ったようなスタンダードなお化けの姿をした、いかにも雑魚といった風情の『外なる霊』だった。
『 > Error: Target_Insufficient
> Archive.CollectiveUnconscious.search(min_fear);
> VirtualBody.Texture.install(); 』
それは、壊れた機械がコードを読み上げるような無機質な声を垂れ流しながら、不気味に宙を漂っている。
いざ本物を前にして、さっきまで余裕そうだった蓮は錫杖を握りしめて少し震えていた。本物のバケモノを前にして、足がすくんでしまったのだろう。
そんな蓮を前にして、剛は持ち前の正義感と、彼を導き一緒に戦うのだという責任感を胸に、一歩前へ出た。
「――こんなへんてこな変身だけどさ、初陣にはちょうどいいじゃねえか! 行くぞ、蓮!」
変身の衝撃だけじゃない。剛自身も、実在する脅威を前に少しの恐怖はあった。しかし、震える蓮の前では絶対に臆するわけにはいかない。
「うおおおっ!!」
剛はヤケクソ気味に叫びながら無我夢中で鉄扇を振り回し、見事に目の前のシーツのお化けをボコスカとタコ殴りにして初陣を飾ったのだった。
見かけは猫耳和装の美幼女だが、戦い方もまた見た目の年齢通り限りなく泥臭い小学生男子のそれであった。
こうして、二人の退魔師としての活動は幕を開けた。
……だが、剛にとって本当の地獄は、戦闘の『その後』にあったのである――。
「解除(リリース)!」
戦闘を終え、合言葉を唱えると、恥ずかしいヒラヒラの和装や猫耳は光となって消え去り、元の泥んこになった私服――Tシャツに半ズボン――に戻った。
……戻ったのは、服だけだった。
Tシャツの胸元がわずかに張っている。
半ズボンから伸びる脚は、日焼けしたわんぱく坊主のそれではなく、白く滑らかな少女の曲線を描いていた。
喉仏はない。あんなに叫んだ声も、高いままだ。
『一度変身したら24時間は女の子の肉体のままなの。呪いみたいなものよ』
「……マジかよぉ」
出掛け際の母の宣告は、絶対だった。
幸いだったのは、咒具の『認識阻害』効果により、周囲の人間には「熊野看と府螺也は、昔から活発な女の子だった」と都合よく記憶が改変されることだ。
剛たちの男としての社会的な死だけは免れた。
だが、剛自身の精神的なダメージは、決して免れることはできなかった。
その日の午後、学校でのことだ。
「おーい、剛ちゃん! ドッジしようぜ……って、あれ?」
休み時間。いつも一緒に泥んこになって遊んでいる友人のタカシたちが寄ってきた。
しかし、いつものように無造作に剛の肩を組もうとしたタカシの手が、空中で不自然にピタリと止まった。
タカシの視線が、剛の顔から下へとゆっくり降りていく。
体操服の襟ぐりから覗く細い首筋、僅かに膨らみを持った胸元、そして短いズボンから覗く白い太ももを、ジロジロと舐め回すように動いた。
「なんだよタカシ。早くボール貸せよ」
「あ、いや……剛ちゃんって、おてんばな女って感じだったけど……今日、なんか妙に……可愛くね?」
ボッ、とタカシの顔が赤くなる。
彼だけではない。周囲にいた他の男子たちも、獲物を見るような、あるいは今まで知らなかった『性別』という概念を急に突きつけられたような、ねっとりとした熱を帯びた目で剛を見ていた。
「なに言って——――――っ!?」
――ゾワゾワッ!!
一瞬遅れて、気づいた瞬間——剛の全身の粟が立った。
(なんだ今の目。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い!)
今まで「悪ガキ仲間」として対等だったはずの彼らとの関係性が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
自分が立っていたはずの男としての土台が消失し、未知の底なし沼に突き落とされたような、おぞましい違和感。
吐き気にも似た悪寒が背筋を駆け抜け、剛はたまらずその場から逃げ出した。
だが、逃げ込んだ先で、さらなる絶望が待っていた。トイレだ。
「……っ、あ……」
無意識に飛び込んだ男子トイレの小便器の前。
ズボンを下ろそうとした剛の手が震える。
ない。自分に『ソレ』が付いていない。
あるべきはずのものが欠落しているという、脳がバグるような現実をまざまざと突きつけられた。
じゃあ、女子トイレに行けばいいのか? いや、中身は男なのに、そんなことをしたら犯罪じゃないのか!?
膀胱の限界という物理的な大ピンチに加え、出口のない迷宮のような精神的葛藤。
パニックになった剛は悩んだ挙句、結局女子トイレの個室に逃げ込み、便座に座る。
「……ううっ」
ただただ、己の無力さと恥辱に耐えながら用を足し終えるのを待つしかなかった。
「……ヒグッ……やだぁ、もう、やだよこんなの……」
放課後。夕日が赤く染まる旧校舎の裏。
誰にも見られない死角で、剛は体育座りをして膝に顔を埋めていた。
男としてのアイデンティティの完全なる喪失。向けられた悍ましい視線。女子トイレでの屈辱。
ヒーローは泣かない。
そう思っていたのに、小学三年生の剛の幼過ぎた心は、半日も持たずにポキリと折れていた。
「剛、こんなところにいたの」
不意に、頭上から声が降ってきた。蓮だ。
顔を上げると、俺と同じように女の子の姿になった蓮が、少し困ったような、けれど優しい微笑みを浮かべて立っていた。
「……蓮。俺ぇ、もうダメかも。男のヤツらの目、なんか気持ち悪かったぁ……。トイレも……屈辱すぎて……」
「うん」
「俺、こんなの、全然ヒーローじゃねぇ……っ」
涙がポロポロと溢れて止まらない剛の隣に、蓮はそっと腰を下ろした。そして、白くて細い女の子の手で、剛の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。
「……大丈夫、それでも剛はヒーローだよ。今日、街の人たちが怪我しなかったのは、剛が一番前で戦ってくれたからだもん」
「……蓮」
「それにさ。剛が女の子の間は、僕も女の子だから。恥ずかしいのも、気持ち悪いのも、全部半分こ。……剛は、一人じゃないよ?」
ふわりと笑う蓮。
夕日に照らされたその笑顔は、さっきまでの恐怖や屈辱を剛に忘れさせるくらい、無防備で、とても優しくて。
気がついたときには、剛は「うわああああん!」と蓮の華奢な肩に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくっていた。
これが、彼の憧れた無敵のヒーロー像が根底から崩れ去った日。
そして、親友と共に歩む、長く果てしない『本当のヒーローになる戦い』の始まりの記憶。
――そして、それから5年の月日が流れた。
現在。
機械的なコードが呪詛や経文のように多重に響く異様な空気の中、夕闇に沈む廃工場に、女の悲鳴が木霊した。
「いやぁぁぁっ! 誰か、助けてッ!」
帰宅途中のOLを追い詰めていたのは、5年前の『お化け』のような生易しい代物ではなかった。
ドロドロとしたヘドロのような巨躯から、無数の触手を蠢かせる異形の『外なる霊』。
ヤツらは人の恐怖を食らう。年々その存在強度を増し、今では明確な悪意を持ってこの世界の女性を攫い、『苗床』にしようとする冒涜的な搦め手まで覚えていた。
『 > STATUS: PHYSICAL_CONCEPTION_PATCH_GENERATED
> TARGET_ACQUIRED: UTERUS_DETECTED
> EXECUTING: APPLY_PATCH(TARGET)
> INITIALIZING: INDIVIDUAL_FLESH_INCARNATION_PROCESS... 』
システムログを読み上げるような無機質な音声が、濡れたアスファルトを這いずり回る。
ヌチャリ、と粘着質な音を立てて、鋭い触手がOLの身体に巻き付こうとした、その時。
「――そこまでだ、化け物!!」
工場の錆びた鉄骨を蹴り破り、月明かりを背負って二つの影が舞い降りた。
一人は、中学三年生になり、厳しい鍛錬によって逞しい筋肉と長身を手に入れた、質実剛健を絵に描いたような少年、剛。
もう一人は、すらりとした細身の肢体に、飄々とした笑みを浮かべる中性的な美少年、蓮。
「ったく、最近の『外なる霊』は趣味が悪ィな。か弱い女の人を狙うなんて、男の風上にも置けねぇぜ!」
「相手は男どころか異世界の霊だよ、剛。でもまぁ……品がないのは同感かな」
二人はOLの前に着地すると、手慣れた動作で懐からそれぞれの咒具――鉄扇と錫杖を抜き放った。
5年の月日は、彼らを間違いなく一人前の退魔師へと育て上げていた。
何百回と繰り返してきた儀式。二人の声が重なる。
「「装来(そうらい)ッ!!」」
強烈な閃光が廃工場を包み込む。
光が収まった後、そこに立っていたのは逞しい二人の少年ではなく――息を呑むほど美しい、二人の『少女』だった。
「……チッ。やっぱ何度やっても慣れねぇな。つーか、なんで年々布の面積が減ってフリルが増えてんだよ!?」
赤い和装ドレスに身を包んだ剛が、頭の上の猫耳をピコピコと苛立たしげに動かしながらボヤく。
5年前と違い、変身後の女体も中学生相応に『成長』していた。
胸のふくらみは明らかに同年代の女子よりも増し、それに合わせるように咒具の衣装もアップデートされている。
無駄にボリューミーになったフリル、谷間を強調するような胸元の開き、そして動くたびに白い太ももの付け根までが露わになるギリギリの丈。
凛とした健康的なスポーツ美少女の顔立ちで顔を真っ赤にしている剛の隣で、蓮は余裕の笑みを浮かべていた。
「いいじゃない、可愛いよ剛。……僕も、悪くないでしょ?」
蓮の衣装は、ライトグリーンの和装をベースにしながらも、背中が大胆に開き、和装の下からは真っ白なタイツが覗きスタイルと脚線美を強調する可愛さの中に妖艶さを交えた小悪魔チックなデザインへと変化していた。
あどけなさの残る顔立ちと、ふさふさのリス尻尾が醸し出す色気は、同性であるOLですら一瞬見惚れてしまうほどだ。
「バカ言ってねェで、仕事だ蓮!」
「はいはい。合わせてね、剛!」
一瞬の隙を突き、外なる霊が無数の触手を槍のように撃ち出してきた。だが、二人は全く動じない。
「省略コード、『縛めの陣(いましめのじん)』!」
蓮が後衛に下がり、錫杖の石突を地面に強く打ち付ける。
石突の上に備えられた、呪言が刻まれたマニ車が高速回転し、チンッ! と澄んだ鈴の音が鳴り響いた。
瞬間、迫り来る触手の足元に霊符の陣が浮かび上がり、目に見えない鎖となって敵の動きをピタリと縫い留めた。
「ナイスだ蓮! ぶっ飛べェ!!」
動きの止まった敵に向かって、剛が弾丸のように肉薄する。
単なる物理攻撃ではない。剛は手にした鉄扇を振り被ると、柄のスイッチを弾いた。
――ガキンッ!!
扇の親骨から、鋼鉄の刃がワイヤーを引いて猛スピードで射出される。
それは巨大な鞭のようにしなり、拘束された醜悪な触手を次々と根本から斬り裂いていく。
ただ力任せに殴っていた5年前とは違う。
テクニカルな武装の使用法を血の滲むような努力で習得した、剛の近接戦闘技術の結晶だ。
『 > ERROOOROR!! PROCESS_INTERRUPTED_BY_EXTREME_DAMAGE!! 』
「蓮! トドメだ!!」
「オッケー。……内側から、弾けなよ」
剛の猛攻で体勢を崩した外なる霊の中心核(コア)に向かって、蓮が錫杖の先端を向ける。
打ち込まれた極小の圧縮霊力が敵の内部へと侵入し、一気に膨張、そして爆発。
ドロドロの巨体は断末魔のシステムエラーを吐き出す間もなく、光の塵となって霧散した。
わずか数十秒の戦闘。互いの死角を完全にカバーし合う、見事な阿吽の呼吸だった。
「ふぅ……怪我はねぇか、蓮?」
「うん。剛のおかげでね。……お姉さん、もう大丈夫ですよ」
剛が気遣うように振り向き、蓮がへたり込んでいるOLに優しく手を差し伸べる。
戦闘中はあんなに激しく荒々しく動いていたというのに、戦いを終え、月明かりの下で微笑み合う二人の姿は、どこからどう見ても『美しく可憐な魔法少女コンビ』そのものだった。
「あ、ありがとうございます……っ! あなたたち、すっごく強くて……可愛かったです!」
「か、可愛いって言うなッ!! 俺は男……って、あー、今は見えねぇか。ほら、もう危ねぇから気をつけて帰んなよー!」
OLからの純粋な称賛に、剛は猫耳をぺたんと伏せて顔を真っ赤にし、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
しかし、事が起こったのは、走り去っていくOLの背中を見送り、剛が大きく伸びをした「この直後」だった。
「……ッ!? 剛、後ろだ!!」
「えっ!?」
蓮の切羽詰まった叫び声。
剛が振り返るより早く、完全に倒したはずの『外なる霊』の残骸――ヘドロのようなどす黒い水溜まりから、極太の触手が蛇のように跳ね起きた。
それは剛ではなく、後衛で気を抜いていた蓮の足首に、ぬらりと巻き付いた。
「あっ……!?」
蓮の身体が、あっけなく宙に吊り上げられる。
触手は蓮の華奢なふくらはぎから白い太ももを這い上がり、大胆に入った和装ドレスのスリットから強引に内側へと侵入しようと蠢き、逃亡の土産とばかりに蓮を何処かへと連れ去ろうとしていた。
「いや、ああっ……!! やめろッ!! 離してッ!!」
それは、普段の飄々とした蓮からは想像もつかない、切実で生々しい悲鳴だった。
単なる化け物への恐怖ではない。もっと根源的な、自分の尊厳を決定的に奪われ、取り返しのつかない何かにされてしまうことへの、尋常ではない嫌悪と怯え。
「蓮ッ!!」
剛は考えるより先に身体を最大強化し、コンクリートを割り砕かんばかりの膂力で床を蹴り飛ばしていた。
最高速の踏み込み。狙うのは逃げる本体ではなく、蓮を縛り上げる触手の根元。
「この野郎ォォォッ!!」
ガキンッ! と射出された鉄扇の刃が、ぬめりのある触手ごと空気を両断する。
ブチブチと嫌な音を立てて千切れた触手から解放され、蓮の身体が空中に投げ出された。不意打ちに失敗し、深手を負った外なる霊の残骸は、そのまま這うようにして工場の排水溝の奥へと逃げ去っていく。
剛は敵を追わなかった。それよりも先に、落下してくる蓮の細い身体を、両腕でしっかりと受け止めることを優先した。
「おい、蓮! 大丈夫か!? どこか怪我は……」
腕の中の相棒を覗き込んだ剛は、そのまま言葉を失った。
「ハァッ!……ハァッ……っ、はぁ……っ」
剛の胸に顔を埋めた蓮の肩は、小刻みに震えていた。
見上げたその瞳には大粒の涙が浮かび、薄桃色の唇は恐怖にわななき、スリットの破れたライトグリーンの和装からは、触手の粘液で艶を帯びた白い太ももが煽情的に露わになっている。
いつも余裕ぶっている幼馴染の、あまりにも弱々しく、無防備で、何かに酷く怯えきった姿。
――ズキュン。
剛の心臓が、これまで経験したことのない、異様な警鐘を鳴らした。
(なんだよ、これ)
(こいつは蓮だぞ。一緒に泥だらけになって遊んだ、男のダチだぞ)
(わかっている。頭では、完全にわかっている)
一瞬で理性と感性が衝突する。
なのに、剛の視線は、涙で潤んだ蓮の熱っぽい瞳から、粘液に濡れた白い肌から、微かに香る甘い女の子の匂いから、どうしても引き剥がすことができなかった。
(蓮……お前、こんなに……女、だったか……?)
ドクン、ドクンと、自分の血流の音がうるさい。
見惚れている。いや、魅入られている。
男としての本能が、腕の中にある極上の『雌』を、強烈に意識してしまっていた。
「……剛」
不意に、蓮が震える吐息を漏らした。
涙目のまま剛を見つめ返した蓮は、剛の瞳に宿った『熱』――自分を明確に『女』として見ている、どうしようもない動揺に気づいたようだった。
一瞬だけ、蓮の瞳の奥で何かが煌めいた気がした。
先程までの尋常ではない怯えがスッと引き、代わりに、心底からの安堵と、ぞくりとするような妖艶な光が宿る。
圧倒的な安心感を与えてくれた目の前の男への、烈火のような恋情。
蓮は剛の首にそっと白い腕を回すと、そのまま引き寄せるように顔を近づけた。柔らかな唇が、剛の猫耳のすぐ傍を掠める。
「……助けてくれて、ありがとう。剛……すごく、カッコよかったよ」
ちゅっ、と。
耳たぶに、微かな水音が響いた。
「っっっ!?」
剛の背筋を、強烈な電流が駆け抜けた。
顔面から火が出るほど沸騰し、剛は「うわぁぁっ!」と情けない声を上げて、たまらず蓮から距離を取って尻餅をついてしまった。
「な、な、ななな……ッ!?」
「ふふっ。ごめんね、ちょっとホッとしちゃって」
蓮は乱れた着物の裾を直しながら、いつもの小悪魔的な笑みを浮かべて剛を見下ろしていた。
からかわれたのだ。
剛にもそれはわかった。しかし、耳元に残る艶っぽい吐息の熱と、腕の中にあった柔らかい感触は、いつまで経っても剛の身体から消えてくれなかった。
この時、互いの胸の奥底で燻っていた想いが、やがて来る『真実』によって最高にこじれた関係へと発展していくことになるのを、剛はまだ知らなかった。
翌日。
咒具の効力が切れるまでの24時間、剛と蓮は必然的に『女子』の姿のまま中学校へ登校することになる。
猫耳と尻尾は簡単な術によって隠すことができる。
しかし先日の変身が割と深夜だったため、今日は一日中夜までこの姿でいるはめになる。
尤も、日中にいきなり女の服装のまま男に戻ってもそれはそれで困るため、剛も蓮もポケットサイズにまで物理法則を無視して折りたたまれた咒具を携帯し、いつでも再変身して引き延ばせるようにはしているのだが。
「よぉ剛ちゃん! 今日も可愛いな! 俺の隣の席空いてるぜ!」
「うるせぇタカシ、誰が剛ちゃんだ! 席は蓮の隣って決まってんだよ!」
教室に入るなり、いつもの男子グループから飛んでくる軽口に、剛は威嚇するように拳を振り上げた。
真っ赤な顔で凄むその姿は、小動物が威嚇しているようで全く迫力がない。
咒具の『認識阻害』により、彼らの記憶の中では「剛は昔から活発な女の子」ということになっている。
しかし、剛の言動や中身は完全に男そのものだ。結果としてどうなったか。
剛は女子の輪には一切入らず——そもそも女子特有の会話についていけないし、女子トイレには今でも極力近づきたくないので、男子と一緒に馬鹿騒ぎをする『男グループの密かなアイドル(ただし本人は全力で否定)』という、なんとも歪な立ち位置に収まっていた。
「あーあ、フラれちった。ま、剛は相変わらず色気より食い気って感じのガサツ女だからなー」
タカシは肩をすくめて笑いを取りに行くが、その内心は全く違っていた。
(……フッ。他のヤツらは剛のガサツさばかり見てるけど、怒った時に揺れる胸とか、男言葉なのに妙に甘い声とか、コイツの本当の『オンナ』としての魅力に気づいてるのは、俺だけなんだよなぁ……!)
タカシだけではない。隣で笑っているマコトも、後ろの席のケンジも。
(タカシのやつ、剛をただの男友達扱いしやがって。剛がふとした瞬間に見せる無防備な太もものエロさを分かってるのは、俺だけだぜ……)
(みんなコイツを男同然に見てるけど、俺だけはコイツの魅力をわかってるんだよなぁ。いつか俺が、剛を本物のオンナにしてやる……)
――見事に全員が、『俺だけは剛の魅力に気づいている』という謎の優越感と特権意識を抱えながら、表向きは「気の置けない悪ガキ仲間」として接しているのである。
この教室の男子は、ある意味で全員がこじらせていた。
そんな男子たちの生温かくもねっとりとした視線にうすうす気づきつつも、男の時にはまともに戻るいつもの友人たちのまともな感性に安心している剛は、「あー、今日も疲れる」と自分の席にドカッと座った。
小学生時代の初陣で絶望したあの頃に比べれば、女子として登校することにも慣れ、この異常な日常も剛はようやく受け入れられるようになってきていた。
――はずだったのだが。
「蓮ちゃん、またお肌綺麗になった? どこのスキンケア使ってるのー?」
「ふふ、秘密。でも、ミカちゃんの髪も今日もサラサラで綺麗だよ。……触ってもいい?」
「えっ、あ、うん……っ(キャー! 蓮ちゃんイケメンすぎ!)」
ふと視線を向けると、隣の席では蓮が女子グループの中心でチヤホヤされていた。
中性的な美少年である本来の姿でもモテる蓮だが、女子化してもその『ナチュラルボーン人たらし』な性質は健在。
ミステリアスな美少女の姿で、甘い声と小悪魔的な仕草を駆使し、女子たちをいとも簡単にメロメロにしている。
(なんであいつは、あんなに女の群れに順応してんだよ……)
剛は呆れたようにため息をつくのだった。
やがて授業が入まり、ノートを取る手を止めて、窓の外を眺める蓮の横顔をチラリと盗み見た。
女子たちとの会話が一段落し、頬杖をつきながらアンニュイに授業を聞き流している蓮。
さらさらとした髪が風に揺れ、中性的な輪郭が柔らかな日差しに照らされている。
それはもう、腹立たしいほどに整った『美少女』の横顔だった。
(蓮……お前、こんなに……女、だったか……?)
ドクン。
昨晩、泣き縋る蓮を腕に抱いた時の感触と、耳元に落とされた艶っぽい吐息。
そして、粘液に塗れて露わになっていた白い太ももがフラッシュバックし、剛は慌てて黒板に向き直った。
(……っ!お、落ち着け。落ち着け俺。相手は蓮だぞ。)
顔が熱い。心臓がうるさい。
(ダメだ。絶対にダメだ。男だ女だという以前の問題だ。こいつは共に戦う相棒で、背中を預け合う大切なヒーローとしてのダチなんだぞ。それなのに、あんな『そういう目』で見てしまうなんて)
剛は、自分の不純な下心を心の底から恥じた。
(だいたい、蓮も蓮だ! 俺たちの変身は一日すりゃあ元に戻るんだから、あいつらが女性を苗床にしてこの世に出ようとしてくるとか変な性質持ってるからって、あそこまで怯えること……)
昨日、蓮が見せた尋常ではない恐怖と嫌悪感。
あれは一体何だったのだろうか。
まるで自分たちがそうされることで、何か絶望的な結果が起こると分かっていたかのような——
そこまで考えたところで、剛の思考にストップがかかる。
(いや、どっちにしろ嫌に決まってるよな。化け物にんなことされるなんて、男だろうが女だろうが最悪に決まってる)
剛は一人で納得し、なんとか己の動悸を静めようとした。
そこまで考えたところでだった。
「……剛? どうかした? 顔、赤いよ」
不意に、真横から甘い香りが漂ってきた。
蓮が身を乗り出し、長い睫毛に縁取られた瞳で、剛の顔を心配そうに覗き込んでいたのだ。物理的な距離が、あまりにも近い。
「っ!? な、なんでもねぇよ! 前向いて授業受けろ!!」
何も言わずに百面相する剛を不思議に思ってか、さらに顔を近づけてこようとする蓮から逃げるように、剛はバッと教科書で自分の顔を隠した。
耳まで真っ赤になっているのは、自分でもわかっていた。
結局その日は、授業中も休み時間も蓮の顔をまともに見ることができず、剛はまともに口を利くことができなかった。
そして放課後のホームルームが終わるや否や、剛は一緒に帰ろうと声をかけてくる蓮よりも早く、逃げるように真っ先に教室を飛び出したのだった。
蓮からの逃避行の末にたどり着いた実家。
息を切らせて大きな門扉を開けると、そこには見慣れない――いや、剛にとってはよく見知った、厳ついマットブラックのSUVが停まっていた。
「あれ、この車……」
いつもなら、お手伝いさんが代わりに家事をこなしてくれている静かな家だ。
かつて剛に咒具を押し付け、街の退魔師をあっさりと引退した両親は今、表向きは『EMM社』というグローバルIT企業を装っている世界規模の退魔組織で情報処理を担当する上級エージェントとして世界中を飛び回って働いている。
外なる霊との戦いは、この街に限ったことではない、奴らは世界中に湧いては人々を襲っていて、その分世界中に様々な形態の退魔師がいるのだ。
そんな彼らのサポートをして回る両親は、滅多に家に帰ってくることはない。
少しだけ弾む心を抑えながら、剛は隠しきれない嬉しさを滲ませて玄関のドアを開けた。
「ただいま! 父さん、母さん、帰ってきてるの!?」
リビングに入ると、ソファにはコーヒーカップを片手にした母・司(つかさ)と、重厚なノートパソコンを広げた父・宗介(そうすけ)の姿があった。
二人とも、長旅の疲れを微塵も感じさせない、隙のない姿勢だった。
「あら、おかえり剛。今日も立派な女の子ね」
「おう剛、デカくなったなぁ! 胸囲の話だが」
相変わらずデリカシーの欠片もない両親の出迎えに、剛は呆れながらも頬を緩めた。
「うるせぇよ。急に帰ってくるなんて珍しいじゃん。任務はいいのかよ」
「まぁね。今日帰って来たのがその任務よ。アンタに、とても大事な話があって帰ってきたの」
母がカチャリとコーヒーカップをテーブルに置き、スッと真剣な顔つきになった。
それに合わせて、父もパタンとノートパソコンを閉じる。
途端に、リビングの空気がピンと張り詰めた。歴戦の退魔師であり、世界規模の組織で働くエージェントとしての、本気の『顔』だった。
「な、何だよ……大事な話って?」
外なる霊の親玉でも現れたのか、それとも何か新しい咒具の機能の話か。
剛がゴクリと息を呑んで次の言葉を待っていると、母は静かに、しかし妙にピンポイントな問いを投げかけてきた。
「剛。アンタ……蓮クンのこと、どう思ってる?」
「……は?」
予想外すぎる、そして今の剛にとって一番触れられたくない質問に、間の抜けた声が漏れた。
(蓮のこと? どう思ってるって、そりゃあ……。ええい、普通に応えろ俺)
「大事な相棒に決まってんだろ。昨日もアイツに助けられたし……」
誤魔化すように言いながら、昨日の蓮の艶やかな姿――触手の粘液に濡れた太ももと、耳元での甘い囁き――が脳裏をよぎり、剛は無意識にスッと目を逸らしてしまった。
そんな剛の些細な動揺を、超一流のエージェントである両親が見逃すはずもなかった。
母は「フッ」と口元に三日月のような怪しい笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
「剛、ちょっと来なさい」
「えっ、どこに……?」
「そろそろ、語らねばならないことがあるからね」
促されるまま、剛はリビングの奥にある隠し扉へと向かう。
父も無言で立ち上がり、それに続いた。宗介の地の底から響くような低い声に、剛はゴクリと喉を鳴らした。
掛け軸の裏。継ぎ目のないはずだった壁がガシャリと重い音を立てて開き、地下へと続く冷たい階段が現れる。
厳重な生体認証ロックを解除して足を踏み入れたのは、一族の機密資料が保管されている薄暗い地下資料室だった。
部屋の中央で、父がコンソールを操作する。青白い光と共に、何もない空間に巨大なホログラムが浮かび上がった。
旧来の退魔の歴史と、EMM社のオーバーテクノロジーが融合した異様な光景だ。
「これは……家系図?」
空中に複雑に枝分かれした光の線。それは、熊野看家と府螺也家、二つの退魔師一族の代々の系譜を示したものだった。
剛は目を細め、その光の線を追う。
そして、ある奇妙な違和感に気がついた。
長い歴史の中で、両家の血はあまりにも頻繁に交わっていたのだ。
熊野看家の人間が府螺也家に嫁ぎ、あるいはその逆も然り。
数世代に一度どころの騒ぎではない。ほぼ毎世代のように、両家の名前が結ばれている。
「……なんだこれ。なんでこんなに頻繁に、熊野看と府螺也がくっついてんだよ。いくらなんでも偏りすぎだろ」
剛が顔をしかめてホログラムを指差すと、司がそっと剛の隣に並び立った。
「剛はどうしてだと思う?」
「ぁー……退魔師としての霊力を保つためとかか?どっちの家も強い力を持ってるから、血を濃くして……いわゆる政略結婚ってやつだろ?政治じゃねーけど。」
剛は鼻を鳴らし、あえて強がって見せた。
剛はただ特撮ヒーローに憧れるだけの単細胞ではない。
退魔師という裏社会特有の、閉鎖的な血族主義について、彼なりに理解し受け入れるだけの精神はしっかりと育まれていた。
だからこそ、古い家系同士が霊力を保つために血を濃くし、婚姻を重ねること自体は不思議なことではない。そう、頭では理解しているつもりだった。
だが、剛のその答えを聞いた宗介は、静かに首を横に振った。
「確かに、強力な霊力を持つ者同士が結ばれれば、より強い力を持った次世代が生まれる。それは事実だ。だが、この家系図に記されている婚姻のほとんどは、『政略』などという生ぬるいものではない」
「生ぬるくない? じゃあ、なんだよ」
「もっと……抗いようのない『因果の結果』として結ばれたものだ」
薄暗いホログラムの光に照らされた父の重々しい言葉に、剛は眉をひそめた。その背中を、理由のない悪寒がゆっくりと這い上がってきていた。
抗いようのない因果の結果。
その言葉の意味を測りかねていると、司がホログラムの青白い光に照らされた剛の頬にそっと手を当てて、ふふっと妖艶な笑みを浮かべた。
「ええ。お母さんもね、おじいちゃんからこの家系図を見せられた時は、アンタと全く同じように『おいおい、ただの政略結婚だろ』って返したものよ」
茶化すような母の言葉に反して、その瞳の奥には底知れぬ凄みが宿っていた。
「剛。家に伝わる原典咒具の呪いについて、お前はどこまで理解している?」
「どこまでって……神代の絶大な力を引き出せる代わりに、24時間女の身体になるって呪いだろ?」
剛が唾を飲み込むと、コンソールを操作していた宗介が静かに口を開く。
「そうだ。だが、お前たちは小学生の頃、『敵に一線を越えられたら永遠に女に固定される事がある』と曖昧に教えられてきたはずだ」
「あ、ああ。だから気をつけろって、ずっと言われてきた」
宗介はホログラムの家系図をスワイプし、光の線をさらに拡大させた。
「今日はその『一線』の、真の条件を教えよう。家に伝わる咒具の、最大の欠点とも言うべきものをな」
背筋が凍るような静けさの中、宗介の眼鏡の奥の瞳が、ホログラム越しに鋭く剛を射抜いた。
「それは……変身中に何らかの要因でその腹に児を成した場合——つまり妊娠してしまった場合、その肉体は『永遠に女体へと固定化される』という事実だ」
「ぇぇ……なっ……はぁっ!?」
その言葉が耳を貫いて、一瞬のラグを置いて。
剛は雷に打たれたように完全に硬直した。
(腹に児を成す。妊娠。永遠に女体へ固定化)
その生々しすぎる絶望的なワードが、剛の脳内をパニックの坩堝へと叩き落とす。理解が追いつかない。いや、理解したくない。
「は、ええっ!? 妊娠って、何だよその仕様!? 」
震える声で叫ぶ剛に構わず、宗介は淡々と、しかしどこか狂気的な誇らしげさすら滲ませて言葉を続けた。
「私は府螺也の男として、しっかり現役退魔師だった司に告白し、全てを受け入れてもらうことでこの熊野看家に入り婿になったのだ」
「私も当時は色々迷ったっけねぇ。男として生きてきたのに、一生『女』になるのを受け入れるのなんてさ」
『当時は色々』女になるのを受け入れる』男として生きて来たのに』
両親の口から滑り出たその決定的な一言が脳内でエコーして、剛の視界から色という色が消え失せ、背景が完全な『宇宙』になった。
そして、理解した。
「っ……!!」
ガタッ、と。
後ずさった剛の背中が、冷たい地下室の壁に激突する。
鈍い痛みが走ったが、それよりも脳内を駆け巡る情報の濁流が剛の精神をズタズタに引き裂いていた。
(つまり、ずっと自分の中で勝手に「女性らしさの象徴」として、それでも強い母として尊敬してきたこの母親の正体は、元・男であり)
(父さんは、相手が元男だと知りながら、わざわざ告白して結ばれ)
(自分という、子を成した————?)
ゾワゾワゾワゾワァッ!!
足元からなめくじの群れが高速で這い上がって来たかのような嫌悪感。
思わず隠蔽の術すら剝がれて、ピンと立った耳と、二倍ほどの大きさに爆発した尻尾が震える。
「い、嫌っ! いやぁっ!! 知りたくなかった、知りたくなかったそんな事実ぅっ!!」
余りにも冒涜的で、倒錯していて、ド変態すぎる真実。
尊敬していた両親の歪みきった性癖の暴露に、剛は半狂乱になって頭を抱え、涙目になってその場にしゃがみ込んだ。
見た目通りの女の子のような悲鳴が、薄暗い地下資料室に虚しく木霊する。
「あっはっは! なに驚いてんだよ。ばあちゃんも、ひいばあちゃんもだぞ。ちなみに、ひいばあちゃんは府螺也の長男だったけどな!」
愉快そうに腰に手を当て、自慢の豊満な胸を張って笑う司は、ずっと隠してきた肩の荷を下ろしたかのように晴れやかだった。
剛は絶望の目でホログラムを見上げる。
つまり、この家系図に示された異常な頻度の婚姻関係は、「普通の政略結婚」や「血の濃縮」などでは断じてなかった。
咒具の呪いによって女体化し、相棒の男にオトされて身籠り、そのまま『メス堕ち』してしまった元・男たちが、互いの相棒の家系に嫁いでいったという……。
あまりにもナメクジのようにねっとりとした、業の深い退魔師たちの因果の歴史の証明だったのだ。正気がゴリゴリと削られていく。
「嘘だろ……じゃあ、俺も、蓮も……」
「ええ。どちらかが身籠れば、一族の退魔師として、相手の妻になり、永遠に『女』として生きることになるわ」
司が静かに、だが決して逃れられない呪縛を、だというのにあっけらかんと告げた。
戦慄する剛。昨日、蓮が見せたあの尋常ではない怯えの理由はこれだったのだ。
蓮は既にどこかの時点で、この『妊娠による完全女性化』の事実を知らされていたのだ。
「だ、だとして……何でこのタイミングでんなこと言うんだよぉ……」
完全に心がへし折れ、半泣きになって床にへたり込む剛に、宗介がコンソールを叩き、ホログラムの映像を無慈悲に切り替えた。
そこに映し出されたのは、昨晩二人が戦った『外なる霊』の生々しい戦闘データだった。
「事態はそのことで少し切迫しているからな、言わざるを得なかったんだ。昨日の外なる霊……人間を『苗床』にしようとするタイプが最近増えているだろう?」
「あ、ああ。俺たちが倒したのも……」
「ヤツらも進化しているんだよ。より強い霊力と、優秀な母体を求めてね」
宗介の眼鏡の奥の瞳が、鋭く冷たい光を放った。
「咒具の力で絶大な霊力を帯びた『女性の肉体』を持つ君たちは、ヤツらにとって最高の標的なんだ。捕まれば、ただの苗床では済まない。孕まされ、二度と男に戻れない身体に作り替えられ、永遠にヤツらの力を産み落とす道具にされる」
「ひぃっ……」
背筋を、かつてないほどの悍ましい悪寒が駆け抜けた。
一線を越えられるというのは、敵にさらなる呪いをひっかけられるとかだと思っていた。
だが今ならわかる、これはそういう曖昧なものではない、文字通り『孕まされる』ということだ。
負ければ、化け物の苗床にされて永遠のメス堕ち。
勝って生き延びても、いつか相棒と結ばれれば、どちらかが永遠のメス堕ち。逃げ場などどこにもないのだ。
ヒーローへの憧れから始まった戦いは、剛が想像していたよりもずっとずっと残酷な、性別と尊厳を懸けたサバイバルだったのだ。
「あ、ありえねえだろぉ……!」
絞り出すような剛の声が、薄暗い資料室に響いた。
後ずさり、壁に背中を預けたまま、剛は目の前の両親を交互に睨みつける。
今や完璧に美しく、たおやかな大人の女性である母、司。そしてそんな彼女の腰に自然に手を回し、常に行動を共にして支え合う屈強な父、宗介。
この二人が、かつては泥だらけになってドッジボールをするような、男同士だったなんて。
「い、いやだ!そんなの、絶対嘘だ! だって俺と蓮は……っ、ずっと男のダチとして……!」
必死に事実を否定しようとする剛の姿を見て、しかし司と宗介は顔を見合わせると、ふっと肩の力を抜いた。
「ま、そう言うと思ったわ。お母さんも最初は『絶対ないわー』って思ってたもの」
「えっ」
「でもね、この『完全メス堕ち』の条件が成立すると、番(つがい)となった両者の霊力が爆発的に増加するという、退魔師としては圧倒的なメリットがあるのよ。お母さんたちが今、世界規模の組織で第一線にいられるのも、その力のおかげだしね」
「メリットって、お前……っ、男の尊厳を捨ててるじゃねえか! というか当たり前みたいに『メス堕ち』とか言うなよぉ!」
俗が過ぎるネットスラングであろう――そしてさっきからナチュラルに頭には浮かんでも決して剛は口に出さなかった『メス堕ち』という地獄のワードを、しれっと言葉に出して真剣な問題に搦める司に、剛は泣きべそをかきながら頭を抱えた。
だが、宗介がポンと剛の肩に手を置き、その顔を覗き込んだ。先程までの軽口は消え、そこにあるのは外なる霊と戦う戦士としての、そして親としての真剣な眼差しだった。
「いいか、剛。我々が手にしたその圧倒的な力を、外なる霊に齎(もたら)すわけには絶対にいかない。ヤツらの苗床になり、その腹で化け物を育めば、お前自身の霊力ごと敵を最悪の形へ進化させてしまう。それだけは絶対に防がねばならないんだ」
「……ッ」
「だからこそ、剛。お前が蓮を、あるいは蓮がお前を少しでも『魅力的』に思ってしまったのなら――ヤツらにその身を奪われる前に、早いうちに覚悟を決めろ。どちらが男として生き、どちらが女として相手を支えるのかをな」
宗介の言葉は、昨晩から剛の胸の奥で渦巻いていた蓮への『不純な感情』を、正確に射抜いていた。
蓮を、女として意識してしまった。あの艶やかな身体を、甘い吐息を、守ってやりたいと、あるいは手に入れたいと、本能が叫んでしまった。
だが、それは同時に、蓮の男としての未来を永遠に奪うことを意味する。逆に、自分が蓮に抱かれれば、剛は一生、ヒーローではなくヒロインとして生きることになるのだ。
「そんなっ……」
剛はぎゅうと、爪が手のひらに食い込むほど強く両拳を握りしめた。息が詰まる。答えなど、出せるはずがない。
「そんな、事……すぐ、決めれるかよ……っ!」
苦悩に表情を激しく歪め、剛は弾かれたようにその場から駆け出した。
「剛!」
「ごめん、本当に……考えさせてくれ……っ!」
司の制止を振り切り、剛は階段を駆け上がり、二階にある自分の部屋へと逃げ込むように飛び込んだ。
バタンッ! と、乱暴にドアが閉まる音が家中に響き渡る。
静まり返った地下の資料室で、残された宗介と司は、ホログラムの青白い光に照らされながら静かに佇んでいた。
「……やっぱり、話すのが少し早かっただろうかな。あいつには、酷な現実すぎた」
宗介がぽつりと、後悔を滲ませた声で尋ねる。しかし、司はゆっくりと首を振ると、愛する夫の広い胸にそっと寄り添った。
「ううん。どのみち、中学生になったあの子たちの身体と心は、必然的に命を預ける相手に惹かれあうさ。悩む期間は、どっちにしろ必要だよ」
「そうだな……。あとは、あいつら二人の絆を信じるしかないか」
宗介は寄り添ってきた司の肩を抱き寄せ、司もまた、夫の背中に腕を回す。
かつて同じように性別の境界線で悩み、傷つき、そして最終的に互いを選び取った元・相棒同士は、息子たちが選ぶであろう過酷な純愛の行方を想いながら、静かに抱き合い唇を交わすのだった。
一方、二階の自室に逃げ込んだ剛は、ドアに背中を預けたままズルズルと床にへたり込んでいた。
部屋の壁には、幼い頃から憧れ続けた特撮ヒーローたちのポスターが所狭しと貼られ、棚にはお気に入りのフィギュアがズラリと並んでいる。
そして学習机の上には、一つの写真立てが飾られていた。
それは5年前。初めて『外なる霊』と戦い、二十四時間の呪いが解けて元の男の子の姿に戻った直後に、二人で泥だらけになりながら笑顔でピースサインをして撮った記念写真だった。
剛は制服を脱ぐことすらせずふらふらと立ち上がり、その写真立てを手に取ると、強く握りしめたままベッドへと飛び込んだ。
ボフッ、とスプリングが沈み込む。
その時、剛は無意識のうちに、同年代の女子と比べても明らかに大きめの胸が邪魔にならないよう、器用に身体を丸めて転がっていた。
そんな、すっかり『女の身体』に慣れきってしまった自分自身の悲しい習性に気づき、剛はひときわ大きなため息をついた。
べし、べし、と尻尾が彼自身の納得いかない信条を代弁するかのように床を打つ。
「はぁ……」
写真の中で無邪気に笑う、男の子の蓮。
あいつが一生、女になるかもしれない。あるいは、俺が一生、女になるかもしれない。
胸がギリギリと締め付けられ、物理的に引き裂かれそうになるほどの痛覚に、剛はぎゅうっと自身の肩を抱き、ベッドの上に蹲(うずくま)った。
「なんで、こんな事になってるんだよ……」
ぽろぽろと、大粒の涙がシーツに染みを作っていく。
「嫌だ、こんなの……ヒーローじゃ、ないよぉ……っ」
しゃくり上げる自分の声までもが、まるで苦しみ喘ぐ少女のそれで。そのあまりにもか弱く女々しい響きに、剛の自己嫌悪は底知れない泥濘へと沈んでいく。
あの日、旧校舎の裏で泣いていた俺に、蓮は言ってくれた。
『剛はヒーローだよ』と。
その言葉だけで、俺はこの5年間、必死に戦ってこれたのに。自分が信じていたヒーローとしてのアイデンティティが、今、ガラガラと音を立てて瓦解していく。
化け物の苗床になる恐怖。
そして、自分か蓮のどちらかが、男としての尊厳を永遠に失う恐怖。
剛はただ一人、逃げ場のないベッドの上で震え続けていた。
――コン、コン。
不意に、窓ガラスを一定のリズムで叩く音が耳に届いた。
剛はビクッと肩を跳ねさせ、涙をごしごしと乱暴に拭いながら窓際へと向かう。シャーッと勢いよくカーテンを開けた先――二階の窓のすぐ外に立っていたのは、咒具の力で強化された脚力を使って屋根伝いに跳躍してきた、蓮の姿だった。
「……お前、何やってんだよ。つーか、なんで普通に玄関から来ねぇんだよ!」
見慣れたライトグリーンの和装ドレスを纏った蓮に対し、剛はあきれ顔を作り、必死に鼻声をごまかして平静を装いながら窓を開けた。
「ちゃんと玄関からお邪魔したよ? 『剛のところに行ってきます』って言ったら、司おばさんに『しっかり捕まえなさいよ』ってウインクされちゃったから、恥ずかしくて外から来たの」
「あのクソ親……!!」
握りこぶしを作ってわなわなする剛が、いまだ女子の制服なのを見て蓮はクスリと笑う。
「それにしても剛、明日も女の姿でいる気? もうすぐ戦闘から24時間経つよ?」
「うっさい! 帰ってきていきなり地獄みたいな話を聞かされて、それどころじゃなかったんだよ! ……ってかお前こそ、なんでまだその格好なんだよ」
「んー? 僕は女の姿でも、そんなに困ってないんでねぇ」
飄々と答えた蓮は「解除(リリース)」と小さく呟いた。
淡い光が全身を包み込み、ヒラヒラの和装ドレスが光の粒子となって消え去る。代わりに現れたのは、蓮が普段着ているオーバーサイズのパーカーと細身のデニムパンツだった。
しかし――戻ったのは、服だけだ。
男物のパーカーを着ていても誤魔化しきれない華奢な肩のラインや、胸の柔らかな膨らみ、そして丸みを帯びた腰の曲線は、その服の持ち主が紛れもなく『少女』であることを残酷なほどに主張していた。中性的な男の子の服を着た美少女、というアンバランスさが、妙に生々しい。
蓮は脱いだ靴をビニール袋に詰めると、勝手知ったる様子でヒョイッと剛の部屋へと上がり込んでくる。
だが、ふと剛の方を振り返った蓮の動きが、ピタリと止まった。
「……剛」
蓮は、赤く腫れ上がった剛の目元――今さっきまで泣いていた明らかな痕跡に気付くと、スッと目を細め、先ほどまでの飄々とした態度は鳴りを潜め、底知れない、静かで真剣な色をその翡翠色の瞳に宿したのだった。
そのまま何も言わず、蓮は剛のベッドに腰を下ろした。
剛もまた、気まずそうに目を逸らしながら、蓮の隣にポスリと座り込む。
二人の間には、言葉のない重たい沈黙がしばらくの間落ちていた。部屋に飾られた正義のヒーローたちのポスターが、今の剛にはひどく冷たく、遠い存在に思えた。
「……なぁ」
沈黙を破ったのは、剛の方だった。
膝の上でギュッと拳を握りしめ、おもむろに蓮へと問いかける。
「蓮は、知ってたのか? その妊っ……赤ちゃんが……できると、女に固定されるってこと」
剛は不器用に言葉を選びながら、それでもどうしても恥ずかしいその内容を口にするため、顔をりんごのように真っ赤にして、蓮から目を逸らしながら尋ねた。
そんな剛に対し、蓮はフフ、と小さく、どこか寂しそうに笑いかけながら返す。
「あのね、うちは最初から教えられてたんだよ」
「な、何だよそれ! じゃあ俺だけ子ども扱いされてたってのかよ!」
剛は思わず顔を上げ、裏切られたような気分で食ってかかった。だが蓮は、肩をすくめて静かに首を振る。
「親の方針によるかもね。……実際、子供には刺激の強すぎる話だと僕も思ってたよ。それに、剛にはずっと、純粋なヒーローでいてほしかったから」
「蓮……」
蓮がそう言うと、剛の脳裏に昨日の光景が鮮烈に蘇り、ずきりと胸が痛んだ。
外なる霊の触手に捕まり、宙吊りにされてガタガタと震えていた蓮。剛が不覚にも魅力を感じてしまった、あの弱々しい蓮の反応は――。
蓮は、その残酷な真実を一人で抱えたまま、この5年間、誰にも弱音を吐かずに剛の隣で戦い続けてきたのだ。
(そして、俺も)
これからはその生々しい恐怖と隣り合わせで戦い、いずれは絶望的な未来のどちらかを選ばなければならない。
「剛……」
不意に甘い声で名前を呼ばれ、剛が振り向いた瞬間。
剛は、ハッとして息を呑んだ。
蓮が、真っすぐこっちを見ている。
いつも飄々としていて、それでもどこか他者と一線を引いているような蓮が、人の事をこんなにも真っすぐと、射抜くように見つめるのは稀なことだ。
吸い込まれそうなほどに綺麗な、翡翠色の瞳。その奥底に燃える真剣な熱情に、剛は金縛りに遭ったようにピクリとも動けなくなった。
「剛、僕はね……」
蓮は、ベッドの上で剛へと身を乗り出した。
その顔は僅かに高揚し、白い頬は薄っすらと朱に染まっている。パーカーの襟元から覗く華奢な鎖骨が、やけに色っぽく目に映った。
「良い、よ?」
「――っ!?」
それは、剛が男のままでいて、僕を『ヒロイン』にしてしまっても良いという、強烈な誘惑。
吐息のような甘い声で、蓮は胸の内の真意を、剛に静かに告げたのだった。
蓮の発した言葉に、剛は信じられないものを見るように目を見開いた。
「ばっ……馬鹿言うな! 敵の手に渡るくらいならって、そんな理屈で、俺も、お前も、そんな――男として生きる尊厳を捨てるなんて」
「違うよ」
言い募ろうとした剛の言葉を、その手にそっと掌を重ねた蓮が遮った。
ひんやりとした、けれど確かな熱を帯びた女の子の手が、剛の震える拳を優しく包み込む。
「僕は、剛が好きなんだ……男の剛も、女の子としての剛も。ぜんぶ」
「え……や、そんな……」
蓮の、あまりにも堂々とした愛の告白に、剛は口をパクパクさせて言い淀んだ。
「実を言うとさ、最初から怖かった……」
蓮は、泣き出しそうな、それでいてこの世の誰よりも幸せそうな微笑みを浮かべて語り始めた。
「でも、ヒーローの憧れだけで突っ走る剛に、ずっと助けられてきた。泣いてた剛を『ヒーローだよ』って認めたのだって、半分は震えてた自分自身を鼓舞するためだったんだ。……でも君は、そんな僕の言葉を本物にするために、ずぅっと頑張って来たじゃないか、剛。君は、間違いなくヒーローだよ。この街の――そして、僕の。だから、僕は君が好き」
――ズキン。
剛の心臓が、大きく跳ねた。
それは、ずっとこの過酷な役目を共に戦ってきた戦友であるからこそ言える、重みのある言葉。
咒具の呪いで惹かれただけではない、蓮の根からの本心だと、剛は否応なく理解してしまった。
蓮は、こういう冗談を言う奴ではない。
その絶対的な信頼と、なにより親友の本心を察する相棒としての観察眼が、その想いが真実であることの決定的な証明だった。
「僕を、女にしたくないのなら――」
蓮の手が、剛の拳から離れ、すっと上へ伸びる。
「えっ……ちょ、なに、わぁっ」
ぐいっと間合いを詰められて、上半身をベッドへ仰向けに倒された剛が情けない悲鳴を上げる。
そして、びくりと震える剛の顎を、蓮の細く冷たい指がなぞるように這った。
「僕が、君を女にしても、良い?」
「……ぇ、ぁ」
蓮の顔が、近づいてくる。目を閉じ、わずかに開かれた薄桃色の唇。
(逃げられない――いや、逃げたくない?)
剛の頭の中で、男でありヒーローであろうとする矜持と、蓮に抱かれたいと願ってしまう抗いがたい雌としての本能がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「……っ!」
近づいていく、唇と唇……。
その、時だった。
――ウゥゥゥゥゥウウウゥゥゥゥゥウウ!!
町中を貫く、けたたましいサイレンの音。
敵が、外なる霊が人間を襲う合図が、剛の部屋に無慈悲に鳴り響いた。
ピタリ、と。
二人の間にあった、甘く煮詰まったような空気が一変した。
絡み合っていた視線が鋭さを増し、少しだけ上気していた二人の表情が、瞬く間に『街を護る退魔師』のそれへと切り替わる。
「……っ」
蓮は顔を離し、ゆっくりと剛の上から退いてベッドから立ち上がった。
そして窓の外、サイレンが響き渡る夜の街を睨みつけながら、残念そうに小さくつぶやく。
「っち。こんな時に、タイミングの悪い奴らだ」
その背中を見つめていた剛は、誤魔化すように蓮からバッと顔を逸らした。
バクバクと早鐘のように打つ心臓を押さえつけながら、制服のスカートを翻して、太もものホルスターに忍ばせていた古びた鉄扇を握りしめる。
「装来(そうらい)……ッ!」
剛が低く呟くと同時に、眩い光が部屋を包み込む。
光が弾けた後、そこに立っていたのは逞しい少年でも落ち込んだ少女でもなく、赤い和装ドレスに身を包んだ可憐な退魔師の少女だった。
しかし、頭の猫耳は怯えと動揺でぺたんと伏せられ、お尻から生えた黒い猫の尻尾は、まるで爆発したかのように毛を逆立ててボンッと太くなっている。
極度の緊張と、隠しきれない情動が、身体に顕著に現れてしまっていた。
「剛、無理そうなら今回は僕が……」
尻尾を極限まで膨らませた剛を見て、蓮が気遣うように声をかける。
だが、剛はその言葉を遮るように、鋭く一喝した。
「馬鹿言えッ!」
ビシッ、と。
剛は顔を限界まで赤く染めながら、手にした鉄扇の先を蓮の鼻先に突きつけた。
「こんな事で出られなくなって、何がヒーローだ。俺は、お前のヒーローでもあるんだろ?」
それは先程、蓮が自分に向けてくれた最上級の賛辞への、剛なりの不器用なアンサーだった。
突きつけられた鉄扇越しに剛の真っ直ぐな瞳を見た蓮は、一瞬だけ目を丸くした後、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「決めるのは、後だ。多分昨日の奴がさらに進化してる、油断しないでやっつけるぞ、蓮!」
「……! うん、わかったよ、剛」
蓮もまた、自身の錫杖を手に取り「装来」と唱える。
もう一つの光が弾け、赤いドレスの猫耳少女と、ライトグリーンのドレスのリス耳少女が、夜の風が吹き込む窓枠に並んで足をかけた。
(――欺瞞だ)
夜の闇へ跳躍する直前、剛はギュッと唇を噛み締めた。
街の平和を脅かす化け物の出現。本来なら、ヒーローとして絶対に許してはならない凶報だ。だが、今自分は、化け物が人を襲ったこの知らせに、心の底から感謝してしまっていたのだ。
蓮からの口付けを避けられたことに。自分が男としての尊厳を捨てるか、愛する親友を永遠の女にしてしまうかという、残酷すぎる決断を――ほんの少しだけ、先延ばしにできたことに。
交差する想いと、ごまかしきれない罪悪感、そして恋心を抱えながら。
二人の美少女退魔師は、サイレンの鳴り響く夜の街へと飛び出していった。
燃え盛る炎を背に、傷だらけになりながらも立ち上がる赤い戦士。彼が必殺の剣を振り下ろした瞬間、悪の怪人は爆散し、世界に平和が戻る。
ブラウン管――いや、薄型液晶テレビだったかもしれないが、とにかくその画面から放たれる光は、幼い剛の瞳を、心を、脳髄を、激しく焼き焦がした。
『男だ女だ関係ねぇ! 俺はこの街を護る、ヒーローだ!』
テレビの前の剛は、プラスチック製の剣を握り締め、画面の中のヒーローと一緒に叫んでいた。
(いつか絶対に、俺もあんな風に戦うんだ。誰かを守るために拳を握る、カッコいい男になるんだ!)
当時、小学三年生。彼の夢は、正義のヒーローになることだった。
その夢が、半分叶って、半分決定的に間違った形で実現したのは、それからすぐのことだった。
「……というわけで剛。今日からアンタが、この街を護る退魔師の跡継ぎよ」
実家の居間。煎餅をかじりながら、母の熊野看 司(つかさ)がテーブルの上に無造作に置いたのは、重厚な古びた鉄扇だった。そして、隣に座る幼馴染――府螺也 蓮(ふらなり れん)の前には、同じように年季の入った錫杖が置かれている。
「は? 退魔師? なにそれ。てか、なんで蓮までここにいるんだよ」
「昔から熊野看家と府螺也家は、代々この街を『外なる霊』っていうバケモンから護ってきたの。で、私と蓮クンのママはそろそろ現役引退ってわけ。次世代のヒーローは君たちよ、頑張ってね☆」
「ヒーロー……!」
その甘美な響きに、剛の単純な脳細胞は沸騰した。
化け物と戦う。街を護る。しかも、親公認で。こんなの、憧れ続けたシチュエーションそのものじゃないか。
「やる! 俺、絶対にやるぜ! ……でも、蓮は危ないんじゃないか? こいつ、ドッジボールでもすぐ逃げるし」
「へへ……剛にはかなわないや。でもさ、剛が戦うなら、僕も一緒に戦いたいんだ」
「蓮……お前ってやつは……!」
中性的な顔立ちで、どこか頼りない親友の言葉に、剛は熱い涙を流さんばかりに感動していた。幼馴染との熱い共闘。これぞ王道。胸が熱くならないわけがない。
「じゃあ、さっそく外に敵の反応が出てるから、その原典咒具(げんてんじゅぐ)を使って『変身』しなさいな。合言葉は『装来(そうらい)』よ」
「おおっ! 変身まであるのか! 行くぞ蓮!」
「うん!」
剛は鉄扇を、蓮は錫杖を天に掲げた。
腹の底から、ヒーローになりきるための最高の声量を振り絞る。
「「装ッ来ッッ!!」」
瞬間、咒具から眩い光が溢れ出し、二人の身体を包み込んだ。
力が湧き上がってくる。骨格が、筋肉が、何らかの未知のエネルギーによって再構築されていくのがわかる。
光が弾け飛んだ後、剛は力強く床を踏みしめ、ビシッとポーズを決めた。
「どうだ母さん! 俺のカッコいい姿――って、あれ?」
視界がおかしい。
なんだか、足元が異様にスースーする。
頭が重い。いや、頭の上で何かがピコピコ動いている気がする。
剛は恐る恐る、自分の身体を見下ろした。
「……は?」
そこにあったのは、逞しい装甲でも、マフラーでもなかった。
金魚のヒレのような、赤いひらひらとした布地。絶対領域を容赦なく見せつける、丈の短い和装ドレス。
華奢な腕、白い太もも、そして胸元には、小三にしては少しばかり主張のあるふくらみ。
さらに最悪なことに、お尻のあたりから黒い猫の尻尾が生えており、頭には立派な猫耳がピンと立っていた。
「な、なんだこれ!? スカート!? 猫耳!? 俺、男だぞ!?」
「あー、言い忘れてたけど。その咒具、絶大な霊力を引き出す代償として『女性の身体』に最適化されちゃうのよね。一度変身したら、24時間は元に戻らないから、トイレとか気をつけてね」
――はっ?
脳みそが一瞬、理解を完全に拒んでフリーズした。
「ふざけんなぁっ!! なにがヒーローだ! 魔法少女じゃねーか! 時間帯が30分ずれてる!!」
剛は顔から火が出るほど赤くなり、鉄扇で自分の短いスカートを必死に押さえた。
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。
こんな格好で外に出るくらいなら、化け物に食われた方がマシだ。
「おい蓮! お前もなんか言ってやれ……って、蓮?」
剛は助けを求めるように隣に立つ相棒に同意を求めようと振り向いた。
蓮も同じように、咒具の力で女体化していた。ライトグリーンの和装ドレスに、リスのようなふさふさの耳と尻尾。元々中性的な顔立ちだったこともあり、その姿は息を呑むほど完成された『美少女』だった。
だが、剛が驚いたのはそこではない。
蓮は、パニックになるでもなく、文句を言うでもなく。居間の隅にある姿見の前に立ち、無言で自分の姿を見つめていたのだ。
「……蓮?」
剛の声に、蓮はゆっくりと振り返った。ふわりと、ライトグリーンの裾が舞う。
「……へぇ」
蓮の唇から、微かな吐息が漏れた。
それは、戸惑いとは対極にある感情。
自身の身体の曲線を指でなぞり、頬を薄っすらと染めながら、蓮は鏡の中の『自分』に向かって、うっとりとした、それでいて剛もどこかゾクッとするような妖艶な笑みを浮かべていた。
「僕……結構、可愛いんじゃない?」
「お前、なんでそんなに冷静なんだよ! つーか満更でもない顔すんな!!」
剛の悲痛なツッコミは、けたたましく鳴り響く街のサイレンにかき消された。
特別自然災害警報、外なる霊の出現だ。
「ほら剛、行くよ。僕たちの、初陣だ」
「くそっ、カッコ悪いけど……やるしかねぇ!」
錫杖を軽やかに回すリス耳美少女(中身は幼馴染の男)に急かされ、剛は半泣きになりながら、スースーする股下を気にして鉄扇を構えた。
近所の公園に現れたのは、白いシーツを被ったようなスタンダードなお化けの姿をした、いかにも雑魚といった風情の『外なる霊』だった。
『 > Error: Target_Insufficient
> Archive.CollectiveUnconscious.search(min_fear);
> VirtualBody.Texture.install(); 』
それは、壊れた機械がコードを読み上げるような無機質な声を垂れ流しながら、不気味に宙を漂っている。
いざ本物を前にして、さっきまで余裕そうだった蓮は錫杖を握りしめて少し震えていた。本物のバケモノを前にして、足がすくんでしまったのだろう。
そんな蓮を前にして、剛は持ち前の正義感と、彼を導き一緒に戦うのだという責任感を胸に、一歩前へ出た。
「――こんなへんてこな変身だけどさ、初陣にはちょうどいいじゃねえか! 行くぞ、蓮!」
変身の衝撃だけじゃない。剛自身も、実在する脅威を前に少しの恐怖はあった。しかし、震える蓮の前では絶対に臆するわけにはいかない。
「うおおおっ!!」
剛はヤケクソ気味に叫びながら無我夢中で鉄扇を振り回し、見事に目の前のシーツのお化けをボコスカとタコ殴りにして初陣を飾ったのだった。
見かけは猫耳和装の美幼女だが、戦い方もまた見た目の年齢通り限りなく泥臭い小学生男子のそれであった。
こうして、二人の退魔師としての活動は幕を開けた。
……だが、剛にとって本当の地獄は、戦闘の『その後』にあったのである――。
「解除(リリース)!」
戦闘を終え、合言葉を唱えると、恥ずかしいヒラヒラの和装や猫耳は光となって消え去り、元の泥んこになった私服――Tシャツに半ズボン――に戻った。
……戻ったのは、服だけだった。
Tシャツの胸元がわずかに張っている。
半ズボンから伸びる脚は、日焼けしたわんぱく坊主のそれではなく、白く滑らかな少女の曲線を描いていた。
喉仏はない。あんなに叫んだ声も、高いままだ。
『一度変身したら24時間は女の子の肉体のままなの。呪いみたいなものよ』
「……マジかよぉ」
出掛け際の母の宣告は、絶対だった。
幸いだったのは、咒具の『認識阻害』効果により、周囲の人間には「熊野看と府螺也は、昔から活発な女の子だった」と都合よく記憶が改変されることだ。
剛たちの男としての社会的な死だけは免れた。
だが、剛自身の精神的なダメージは、決して免れることはできなかった。
その日の午後、学校でのことだ。
「おーい、剛ちゃん! ドッジしようぜ……って、あれ?」
休み時間。いつも一緒に泥んこになって遊んでいる友人のタカシたちが寄ってきた。
しかし、いつものように無造作に剛の肩を組もうとしたタカシの手が、空中で不自然にピタリと止まった。
タカシの視線が、剛の顔から下へとゆっくり降りていく。
体操服の襟ぐりから覗く細い首筋、僅かに膨らみを持った胸元、そして短いズボンから覗く白い太ももを、ジロジロと舐め回すように動いた。
「なんだよタカシ。早くボール貸せよ」
「あ、いや……剛ちゃんって、おてんばな女って感じだったけど……今日、なんか妙に……可愛くね?」
ボッ、とタカシの顔が赤くなる。
彼だけではない。周囲にいた他の男子たちも、獲物を見るような、あるいは今まで知らなかった『性別』という概念を急に突きつけられたような、ねっとりとした熱を帯びた目で剛を見ていた。
「なに言って——――――っ!?」
――ゾワゾワッ!!
一瞬遅れて、気づいた瞬間——剛の全身の粟が立った。
(なんだ今の目。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い!)
今まで「悪ガキ仲間」として対等だったはずの彼らとの関係性が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
自分が立っていたはずの男としての土台が消失し、未知の底なし沼に突き落とされたような、おぞましい違和感。
吐き気にも似た悪寒が背筋を駆け抜け、剛はたまらずその場から逃げ出した。
だが、逃げ込んだ先で、さらなる絶望が待っていた。トイレだ。
「……っ、あ……」
無意識に飛び込んだ男子トイレの小便器の前。
ズボンを下ろそうとした剛の手が震える。
ない。自分に『ソレ』が付いていない。
あるべきはずのものが欠落しているという、脳がバグるような現実をまざまざと突きつけられた。
じゃあ、女子トイレに行けばいいのか? いや、中身は男なのに、そんなことをしたら犯罪じゃないのか!?
膀胱の限界という物理的な大ピンチに加え、出口のない迷宮のような精神的葛藤。
パニックになった剛は悩んだ挙句、結局女子トイレの個室に逃げ込み、便座に座る。
「……ううっ」
ただただ、己の無力さと恥辱に耐えながら用を足し終えるのを待つしかなかった。
「……ヒグッ……やだぁ、もう、やだよこんなの……」
放課後。夕日が赤く染まる旧校舎の裏。
誰にも見られない死角で、剛は体育座りをして膝に顔を埋めていた。
男としてのアイデンティティの完全なる喪失。向けられた悍ましい視線。女子トイレでの屈辱。
ヒーローは泣かない。
そう思っていたのに、小学三年生の剛の幼過ぎた心は、半日も持たずにポキリと折れていた。
「剛、こんなところにいたの」
不意に、頭上から声が降ってきた。蓮だ。
顔を上げると、俺と同じように女の子の姿になった蓮が、少し困ったような、けれど優しい微笑みを浮かべて立っていた。
「……蓮。俺ぇ、もうダメかも。男のヤツらの目、なんか気持ち悪かったぁ……。トイレも……屈辱すぎて……」
「うん」
「俺、こんなの、全然ヒーローじゃねぇ……っ」
涙がポロポロと溢れて止まらない剛の隣に、蓮はそっと腰を下ろした。そして、白くて細い女の子の手で、剛の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。
「……大丈夫、それでも剛はヒーローだよ。今日、街の人たちが怪我しなかったのは、剛が一番前で戦ってくれたからだもん」
「……蓮」
「それにさ。剛が女の子の間は、僕も女の子だから。恥ずかしいのも、気持ち悪いのも、全部半分こ。……剛は、一人じゃないよ?」
ふわりと笑う蓮。
夕日に照らされたその笑顔は、さっきまでの恐怖や屈辱を剛に忘れさせるくらい、無防備で、とても優しくて。
気がついたときには、剛は「うわああああん!」と蓮の華奢な肩に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくっていた。
これが、彼の憧れた無敵のヒーロー像が根底から崩れ去った日。
そして、親友と共に歩む、長く果てしない『本当のヒーローになる戦い』の始まりの記憶。
――そして、それから5年の月日が流れた。
現在。
機械的なコードが呪詛や経文のように多重に響く異様な空気の中、夕闇に沈む廃工場に、女の悲鳴が木霊した。
「いやぁぁぁっ! 誰か、助けてッ!」
帰宅途中のOLを追い詰めていたのは、5年前の『お化け』のような生易しい代物ではなかった。
ドロドロとしたヘドロのような巨躯から、無数の触手を蠢かせる異形の『外なる霊』。
ヤツらは人の恐怖を食らう。年々その存在強度を増し、今では明確な悪意を持ってこの世界の女性を攫い、『苗床』にしようとする冒涜的な搦め手まで覚えていた。
『 > STATUS: PHYSICAL_CONCEPTION_PATCH_GENERATED
> TARGET_ACQUIRED: UTERUS_DETECTED
> EXECUTING: APPLY_PATCH(TARGET)
> INITIALIZING: INDIVIDUAL_FLESH_INCARNATION_PROCESS... 』
システムログを読み上げるような無機質な音声が、濡れたアスファルトを這いずり回る。
ヌチャリ、と粘着質な音を立てて、鋭い触手がOLの身体に巻き付こうとした、その時。
「――そこまでだ、化け物!!」
工場の錆びた鉄骨を蹴り破り、月明かりを背負って二つの影が舞い降りた。
一人は、中学三年生になり、厳しい鍛錬によって逞しい筋肉と長身を手に入れた、質実剛健を絵に描いたような少年、剛。
もう一人は、すらりとした細身の肢体に、飄々とした笑みを浮かべる中性的な美少年、蓮。
「ったく、最近の『外なる霊』は趣味が悪ィな。か弱い女の人を狙うなんて、男の風上にも置けねぇぜ!」
「相手は男どころか異世界の霊だよ、剛。でもまぁ……品がないのは同感かな」
二人はOLの前に着地すると、手慣れた動作で懐からそれぞれの咒具――鉄扇と錫杖を抜き放った。
5年の月日は、彼らを間違いなく一人前の退魔師へと育て上げていた。
何百回と繰り返してきた儀式。二人の声が重なる。
「「装来(そうらい)ッ!!」」
強烈な閃光が廃工場を包み込む。
光が収まった後、そこに立っていたのは逞しい二人の少年ではなく――息を呑むほど美しい、二人の『少女』だった。
「……チッ。やっぱ何度やっても慣れねぇな。つーか、なんで年々布の面積が減ってフリルが増えてんだよ!?」
赤い和装ドレスに身を包んだ剛が、頭の上の猫耳をピコピコと苛立たしげに動かしながらボヤく。
5年前と違い、変身後の女体も中学生相応に『成長』していた。
胸のふくらみは明らかに同年代の女子よりも増し、それに合わせるように咒具の衣装もアップデートされている。
無駄にボリューミーになったフリル、谷間を強調するような胸元の開き、そして動くたびに白い太ももの付け根までが露わになるギリギリの丈。
凛とした健康的なスポーツ美少女の顔立ちで顔を真っ赤にしている剛の隣で、蓮は余裕の笑みを浮かべていた。
「いいじゃない、可愛いよ剛。……僕も、悪くないでしょ?」
蓮の衣装は、ライトグリーンの和装をベースにしながらも、背中が大胆に開き、和装の下からは真っ白なタイツが覗きスタイルと脚線美を強調する可愛さの中に妖艶さを交えた小悪魔チックなデザインへと変化していた。
あどけなさの残る顔立ちと、ふさふさのリス尻尾が醸し出す色気は、同性であるOLですら一瞬見惚れてしまうほどだ。
「バカ言ってねェで、仕事だ蓮!」
「はいはい。合わせてね、剛!」
一瞬の隙を突き、外なる霊が無数の触手を槍のように撃ち出してきた。だが、二人は全く動じない。
「省略コード、『縛めの陣(いましめのじん)』!」
蓮が後衛に下がり、錫杖の石突を地面に強く打ち付ける。
石突の上に備えられた、呪言が刻まれたマニ車が高速回転し、チンッ! と澄んだ鈴の音が鳴り響いた。
瞬間、迫り来る触手の足元に霊符の陣が浮かび上がり、目に見えない鎖となって敵の動きをピタリと縫い留めた。
「ナイスだ蓮! ぶっ飛べェ!!」
動きの止まった敵に向かって、剛が弾丸のように肉薄する。
単なる物理攻撃ではない。剛は手にした鉄扇を振り被ると、柄のスイッチを弾いた。
――ガキンッ!!
扇の親骨から、鋼鉄の刃がワイヤーを引いて猛スピードで射出される。
それは巨大な鞭のようにしなり、拘束された醜悪な触手を次々と根本から斬り裂いていく。
ただ力任せに殴っていた5年前とは違う。
テクニカルな武装の使用法を血の滲むような努力で習得した、剛の近接戦闘技術の結晶だ。
『 > ERROOOROR!! PROCESS_INTERRUPTED_BY_EXTREME_DAMAGE!! 』
「蓮! トドメだ!!」
「オッケー。……内側から、弾けなよ」
剛の猛攻で体勢を崩した外なる霊の中心核(コア)に向かって、蓮が錫杖の先端を向ける。
打ち込まれた極小の圧縮霊力が敵の内部へと侵入し、一気に膨張、そして爆発。
ドロドロの巨体は断末魔のシステムエラーを吐き出す間もなく、光の塵となって霧散した。
わずか数十秒の戦闘。互いの死角を完全にカバーし合う、見事な阿吽の呼吸だった。
「ふぅ……怪我はねぇか、蓮?」
「うん。剛のおかげでね。……お姉さん、もう大丈夫ですよ」
剛が気遣うように振り向き、蓮がへたり込んでいるOLに優しく手を差し伸べる。
戦闘中はあんなに激しく荒々しく動いていたというのに、戦いを終え、月明かりの下で微笑み合う二人の姿は、どこからどう見ても『美しく可憐な魔法少女コンビ』そのものだった。
「あ、ありがとうございます……っ! あなたたち、すっごく強くて……可愛かったです!」
「か、可愛いって言うなッ!! 俺は男……って、あー、今は見えねぇか。ほら、もう危ねぇから気をつけて帰んなよー!」
OLからの純粋な称賛に、剛は猫耳をぺたんと伏せて顔を真っ赤にし、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
しかし、事が起こったのは、走り去っていくOLの背中を見送り、剛が大きく伸びをした「この直後」だった。
「……ッ!? 剛、後ろだ!!」
「えっ!?」
蓮の切羽詰まった叫び声。
剛が振り返るより早く、完全に倒したはずの『外なる霊』の残骸――ヘドロのようなどす黒い水溜まりから、極太の触手が蛇のように跳ね起きた。
それは剛ではなく、後衛で気を抜いていた蓮の足首に、ぬらりと巻き付いた。
「あっ……!?」
蓮の身体が、あっけなく宙に吊り上げられる。
触手は蓮の華奢なふくらはぎから白い太ももを這い上がり、大胆に入った和装ドレスのスリットから強引に内側へと侵入しようと蠢き、逃亡の土産とばかりに蓮を何処かへと連れ去ろうとしていた。
「いや、ああっ……!! やめろッ!! 離してッ!!」
それは、普段の飄々とした蓮からは想像もつかない、切実で生々しい悲鳴だった。
単なる化け物への恐怖ではない。もっと根源的な、自分の尊厳を決定的に奪われ、取り返しのつかない何かにされてしまうことへの、尋常ではない嫌悪と怯え。
「蓮ッ!!」
剛は考えるより先に身体を最大強化し、コンクリートを割り砕かんばかりの膂力で床を蹴り飛ばしていた。
最高速の踏み込み。狙うのは逃げる本体ではなく、蓮を縛り上げる触手の根元。
「この野郎ォォォッ!!」
ガキンッ! と射出された鉄扇の刃が、ぬめりのある触手ごと空気を両断する。
ブチブチと嫌な音を立てて千切れた触手から解放され、蓮の身体が空中に投げ出された。不意打ちに失敗し、深手を負った外なる霊の残骸は、そのまま這うようにして工場の排水溝の奥へと逃げ去っていく。
剛は敵を追わなかった。それよりも先に、落下してくる蓮の細い身体を、両腕でしっかりと受け止めることを優先した。
「おい、蓮! 大丈夫か!? どこか怪我は……」
腕の中の相棒を覗き込んだ剛は、そのまま言葉を失った。
「ハァッ!……ハァッ……っ、はぁ……っ」
剛の胸に顔を埋めた蓮の肩は、小刻みに震えていた。
見上げたその瞳には大粒の涙が浮かび、薄桃色の唇は恐怖にわななき、スリットの破れたライトグリーンの和装からは、触手の粘液で艶を帯びた白い太ももが煽情的に露わになっている。
いつも余裕ぶっている幼馴染の、あまりにも弱々しく、無防備で、何かに酷く怯えきった姿。
――ズキュン。
剛の心臓が、これまで経験したことのない、異様な警鐘を鳴らした。
(なんだよ、これ)
(こいつは蓮だぞ。一緒に泥だらけになって遊んだ、男のダチだぞ)
(わかっている。頭では、完全にわかっている)
一瞬で理性と感性が衝突する。
なのに、剛の視線は、涙で潤んだ蓮の熱っぽい瞳から、粘液に濡れた白い肌から、微かに香る甘い女の子の匂いから、どうしても引き剥がすことができなかった。
(蓮……お前、こんなに……女、だったか……?)
ドクン、ドクンと、自分の血流の音がうるさい。
見惚れている。いや、魅入られている。
男としての本能が、腕の中にある極上の『雌』を、強烈に意識してしまっていた。
「……剛」
不意に、蓮が震える吐息を漏らした。
涙目のまま剛を見つめ返した蓮は、剛の瞳に宿った『熱』――自分を明確に『女』として見ている、どうしようもない動揺に気づいたようだった。
一瞬だけ、蓮の瞳の奥で何かが煌めいた気がした。
先程までの尋常ではない怯えがスッと引き、代わりに、心底からの安堵と、ぞくりとするような妖艶な光が宿る。
圧倒的な安心感を与えてくれた目の前の男への、烈火のような恋情。
蓮は剛の首にそっと白い腕を回すと、そのまま引き寄せるように顔を近づけた。柔らかな唇が、剛の猫耳のすぐ傍を掠める。
「……助けてくれて、ありがとう。剛……すごく、カッコよかったよ」
ちゅっ、と。
耳たぶに、微かな水音が響いた。
「っっっ!?」
剛の背筋を、強烈な電流が駆け抜けた。
顔面から火が出るほど沸騰し、剛は「うわぁぁっ!」と情けない声を上げて、たまらず蓮から距離を取って尻餅をついてしまった。
「な、な、ななな……ッ!?」
「ふふっ。ごめんね、ちょっとホッとしちゃって」
蓮は乱れた着物の裾を直しながら、いつもの小悪魔的な笑みを浮かべて剛を見下ろしていた。
からかわれたのだ。
剛にもそれはわかった。しかし、耳元に残る艶っぽい吐息の熱と、腕の中にあった柔らかい感触は、いつまで経っても剛の身体から消えてくれなかった。
この時、互いの胸の奥底で燻っていた想いが、やがて来る『真実』によって最高にこじれた関係へと発展していくことになるのを、剛はまだ知らなかった。
翌日。
咒具の効力が切れるまでの24時間、剛と蓮は必然的に『女子』の姿のまま中学校へ登校することになる。
猫耳と尻尾は簡単な術によって隠すことができる。
しかし先日の変身が割と深夜だったため、今日は一日中夜までこの姿でいるはめになる。
尤も、日中にいきなり女の服装のまま男に戻ってもそれはそれで困るため、剛も蓮もポケットサイズにまで物理法則を無視して折りたたまれた咒具を携帯し、いつでも再変身して引き延ばせるようにはしているのだが。
「よぉ剛ちゃん! 今日も可愛いな! 俺の隣の席空いてるぜ!」
「うるせぇタカシ、誰が剛ちゃんだ! 席は蓮の隣って決まってんだよ!」
教室に入るなり、いつもの男子グループから飛んでくる軽口に、剛は威嚇するように拳を振り上げた。
真っ赤な顔で凄むその姿は、小動物が威嚇しているようで全く迫力がない。
咒具の『認識阻害』により、彼らの記憶の中では「剛は昔から活発な女の子」ということになっている。
しかし、剛の言動や中身は完全に男そのものだ。結果としてどうなったか。
剛は女子の輪には一切入らず——そもそも女子特有の会話についていけないし、女子トイレには今でも極力近づきたくないので、男子と一緒に馬鹿騒ぎをする『男グループの密かなアイドル(ただし本人は全力で否定)』という、なんとも歪な立ち位置に収まっていた。
「あーあ、フラれちった。ま、剛は相変わらず色気より食い気って感じのガサツ女だからなー」
タカシは肩をすくめて笑いを取りに行くが、その内心は全く違っていた。
(……フッ。他のヤツらは剛のガサツさばかり見てるけど、怒った時に揺れる胸とか、男言葉なのに妙に甘い声とか、コイツの本当の『オンナ』としての魅力に気づいてるのは、俺だけなんだよなぁ……!)
タカシだけではない。隣で笑っているマコトも、後ろの席のケンジも。
(タカシのやつ、剛をただの男友達扱いしやがって。剛がふとした瞬間に見せる無防備な太もものエロさを分かってるのは、俺だけだぜ……)
(みんなコイツを男同然に見てるけど、俺だけはコイツの魅力をわかってるんだよなぁ。いつか俺が、剛を本物のオンナにしてやる……)
――見事に全員が、『俺だけは剛の魅力に気づいている』という謎の優越感と特権意識を抱えながら、表向きは「気の置けない悪ガキ仲間」として接しているのである。
この教室の男子は、ある意味で全員がこじらせていた。
そんな男子たちの生温かくもねっとりとした視線にうすうす気づきつつも、男の時にはまともに戻るいつもの友人たちのまともな感性に安心している剛は、「あー、今日も疲れる」と自分の席にドカッと座った。
小学生時代の初陣で絶望したあの頃に比べれば、女子として登校することにも慣れ、この異常な日常も剛はようやく受け入れられるようになってきていた。
――はずだったのだが。
「蓮ちゃん、またお肌綺麗になった? どこのスキンケア使ってるのー?」
「ふふ、秘密。でも、ミカちゃんの髪も今日もサラサラで綺麗だよ。……触ってもいい?」
「えっ、あ、うん……っ(キャー! 蓮ちゃんイケメンすぎ!)」
ふと視線を向けると、隣の席では蓮が女子グループの中心でチヤホヤされていた。
中性的な美少年である本来の姿でもモテる蓮だが、女子化してもその『ナチュラルボーン人たらし』な性質は健在。
ミステリアスな美少女の姿で、甘い声と小悪魔的な仕草を駆使し、女子たちをいとも簡単にメロメロにしている。
(なんであいつは、あんなに女の群れに順応してんだよ……)
剛は呆れたようにため息をつくのだった。
やがて授業が入まり、ノートを取る手を止めて、窓の外を眺める蓮の横顔をチラリと盗み見た。
女子たちとの会話が一段落し、頬杖をつきながらアンニュイに授業を聞き流している蓮。
さらさらとした髪が風に揺れ、中性的な輪郭が柔らかな日差しに照らされている。
それはもう、腹立たしいほどに整った『美少女』の横顔だった。
(蓮……お前、こんなに……女、だったか……?)
ドクン。
昨晩、泣き縋る蓮を腕に抱いた時の感触と、耳元に落とされた艶っぽい吐息。
そして、粘液に塗れて露わになっていた白い太ももがフラッシュバックし、剛は慌てて黒板に向き直った。
(……っ!お、落ち着け。落ち着け俺。相手は蓮だぞ。)
顔が熱い。心臓がうるさい。
(ダメだ。絶対にダメだ。男だ女だという以前の問題だ。こいつは共に戦う相棒で、背中を預け合う大切なヒーローとしてのダチなんだぞ。それなのに、あんな『そういう目』で見てしまうなんて)
剛は、自分の不純な下心を心の底から恥じた。
(だいたい、蓮も蓮だ! 俺たちの変身は一日すりゃあ元に戻るんだから、あいつらが女性を苗床にしてこの世に出ようとしてくるとか変な性質持ってるからって、あそこまで怯えること……)
昨日、蓮が見せた尋常ではない恐怖と嫌悪感。
あれは一体何だったのだろうか。
まるで自分たちがそうされることで、何か絶望的な結果が起こると分かっていたかのような——
そこまで考えたところで、剛の思考にストップがかかる。
(いや、どっちにしろ嫌に決まってるよな。化け物にんなことされるなんて、男だろうが女だろうが最悪に決まってる)
剛は一人で納得し、なんとか己の動悸を静めようとした。
そこまで考えたところでだった。
「……剛? どうかした? 顔、赤いよ」
不意に、真横から甘い香りが漂ってきた。
蓮が身を乗り出し、長い睫毛に縁取られた瞳で、剛の顔を心配そうに覗き込んでいたのだ。物理的な距離が、あまりにも近い。
「っ!? な、なんでもねぇよ! 前向いて授業受けろ!!」
何も言わずに百面相する剛を不思議に思ってか、さらに顔を近づけてこようとする蓮から逃げるように、剛はバッと教科書で自分の顔を隠した。
耳まで真っ赤になっているのは、自分でもわかっていた。
結局その日は、授業中も休み時間も蓮の顔をまともに見ることができず、剛はまともに口を利くことができなかった。
そして放課後のホームルームが終わるや否や、剛は一緒に帰ろうと声をかけてくる蓮よりも早く、逃げるように真っ先に教室を飛び出したのだった。
蓮からの逃避行の末にたどり着いた実家。
息を切らせて大きな門扉を開けると、そこには見慣れない――いや、剛にとってはよく見知った、厳ついマットブラックのSUVが停まっていた。
「あれ、この車……」
いつもなら、お手伝いさんが代わりに家事をこなしてくれている静かな家だ。
かつて剛に咒具を押し付け、街の退魔師をあっさりと引退した両親は今、表向きは『EMM社』というグローバルIT企業を装っている世界規模の退魔組織で情報処理を担当する上級エージェントとして世界中を飛び回って働いている。
外なる霊との戦いは、この街に限ったことではない、奴らは世界中に湧いては人々を襲っていて、その分世界中に様々な形態の退魔師がいるのだ。
そんな彼らのサポートをして回る両親は、滅多に家に帰ってくることはない。
少しだけ弾む心を抑えながら、剛は隠しきれない嬉しさを滲ませて玄関のドアを開けた。
「ただいま! 父さん、母さん、帰ってきてるの!?」
リビングに入ると、ソファにはコーヒーカップを片手にした母・司(つかさ)と、重厚なノートパソコンを広げた父・宗介(そうすけ)の姿があった。
二人とも、長旅の疲れを微塵も感じさせない、隙のない姿勢だった。
「あら、おかえり剛。今日も立派な女の子ね」
「おう剛、デカくなったなぁ! 胸囲の話だが」
相変わらずデリカシーの欠片もない両親の出迎えに、剛は呆れながらも頬を緩めた。
「うるせぇよ。急に帰ってくるなんて珍しいじゃん。任務はいいのかよ」
「まぁね。今日帰って来たのがその任務よ。アンタに、とても大事な話があって帰ってきたの」
母がカチャリとコーヒーカップをテーブルに置き、スッと真剣な顔つきになった。
それに合わせて、父もパタンとノートパソコンを閉じる。
途端に、リビングの空気がピンと張り詰めた。歴戦の退魔師であり、世界規模の組織で働くエージェントとしての、本気の『顔』だった。
「な、何だよ……大事な話って?」
外なる霊の親玉でも現れたのか、それとも何か新しい咒具の機能の話か。
剛がゴクリと息を呑んで次の言葉を待っていると、母は静かに、しかし妙にピンポイントな問いを投げかけてきた。
「剛。アンタ……蓮クンのこと、どう思ってる?」
「……は?」
予想外すぎる、そして今の剛にとって一番触れられたくない質問に、間の抜けた声が漏れた。
(蓮のこと? どう思ってるって、そりゃあ……。ええい、普通に応えろ俺)
「大事な相棒に決まってんだろ。昨日もアイツに助けられたし……」
誤魔化すように言いながら、昨日の蓮の艶やかな姿――触手の粘液に濡れた太ももと、耳元での甘い囁き――が脳裏をよぎり、剛は無意識にスッと目を逸らしてしまった。
そんな剛の些細な動揺を、超一流のエージェントである両親が見逃すはずもなかった。
母は「フッ」と口元に三日月のような怪しい笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
「剛、ちょっと来なさい」
「えっ、どこに……?」
「そろそろ、語らねばならないことがあるからね」
促されるまま、剛はリビングの奥にある隠し扉へと向かう。
父も無言で立ち上がり、それに続いた。宗介の地の底から響くような低い声に、剛はゴクリと喉を鳴らした。
掛け軸の裏。継ぎ目のないはずだった壁がガシャリと重い音を立てて開き、地下へと続く冷たい階段が現れる。
厳重な生体認証ロックを解除して足を踏み入れたのは、一族の機密資料が保管されている薄暗い地下資料室だった。
部屋の中央で、父がコンソールを操作する。青白い光と共に、何もない空間に巨大なホログラムが浮かび上がった。
旧来の退魔の歴史と、EMM社のオーバーテクノロジーが融合した異様な光景だ。
「これは……家系図?」
空中に複雑に枝分かれした光の線。それは、熊野看家と府螺也家、二つの退魔師一族の代々の系譜を示したものだった。
剛は目を細め、その光の線を追う。
そして、ある奇妙な違和感に気がついた。
長い歴史の中で、両家の血はあまりにも頻繁に交わっていたのだ。
熊野看家の人間が府螺也家に嫁ぎ、あるいはその逆も然り。
数世代に一度どころの騒ぎではない。ほぼ毎世代のように、両家の名前が結ばれている。
「……なんだこれ。なんでこんなに頻繁に、熊野看と府螺也がくっついてんだよ。いくらなんでも偏りすぎだろ」
剛が顔をしかめてホログラムを指差すと、司がそっと剛の隣に並び立った。
「剛はどうしてだと思う?」
「ぁー……退魔師としての霊力を保つためとかか?どっちの家も強い力を持ってるから、血を濃くして……いわゆる政略結婚ってやつだろ?政治じゃねーけど。」
剛は鼻を鳴らし、あえて強がって見せた。
剛はただ特撮ヒーローに憧れるだけの単細胞ではない。
退魔師という裏社会特有の、閉鎖的な血族主義について、彼なりに理解し受け入れるだけの精神はしっかりと育まれていた。
だからこそ、古い家系同士が霊力を保つために血を濃くし、婚姻を重ねること自体は不思議なことではない。そう、頭では理解しているつもりだった。
だが、剛のその答えを聞いた宗介は、静かに首を横に振った。
「確かに、強力な霊力を持つ者同士が結ばれれば、より強い力を持った次世代が生まれる。それは事実だ。だが、この家系図に記されている婚姻のほとんどは、『政略』などという生ぬるいものではない」
「生ぬるくない? じゃあ、なんだよ」
「もっと……抗いようのない『因果の結果』として結ばれたものだ」
薄暗いホログラムの光に照らされた父の重々しい言葉に、剛は眉をひそめた。その背中を、理由のない悪寒がゆっくりと這い上がってきていた。
抗いようのない因果の結果。
その言葉の意味を測りかねていると、司がホログラムの青白い光に照らされた剛の頬にそっと手を当てて、ふふっと妖艶な笑みを浮かべた。
「ええ。お母さんもね、おじいちゃんからこの家系図を見せられた時は、アンタと全く同じように『おいおい、ただの政略結婚だろ』って返したものよ」
茶化すような母の言葉に反して、その瞳の奥には底知れぬ凄みが宿っていた。
「剛。家に伝わる原典咒具の呪いについて、お前はどこまで理解している?」
「どこまでって……神代の絶大な力を引き出せる代わりに、24時間女の身体になるって呪いだろ?」
剛が唾を飲み込むと、コンソールを操作していた宗介が静かに口を開く。
「そうだ。だが、お前たちは小学生の頃、『敵に一線を越えられたら永遠に女に固定される事がある』と曖昧に教えられてきたはずだ」
「あ、ああ。だから気をつけろって、ずっと言われてきた」
宗介はホログラムの家系図をスワイプし、光の線をさらに拡大させた。
「今日はその『一線』の、真の条件を教えよう。家に伝わる咒具の、最大の欠点とも言うべきものをな」
背筋が凍るような静けさの中、宗介の眼鏡の奥の瞳が、ホログラム越しに鋭く剛を射抜いた。
「それは……変身中に何らかの要因でその腹に児を成した場合——つまり妊娠してしまった場合、その肉体は『永遠に女体へと固定化される』という事実だ」
「ぇぇ……なっ……はぁっ!?」
その言葉が耳を貫いて、一瞬のラグを置いて。
剛は雷に打たれたように完全に硬直した。
(腹に児を成す。妊娠。永遠に女体へ固定化)
その生々しすぎる絶望的なワードが、剛の脳内をパニックの坩堝へと叩き落とす。理解が追いつかない。いや、理解したくない。
「は、ええっ!? 妊娠って、何だよその仕様!? 」
震える声で叫ぶ剛に構わず、宗介は淡々と、しかしどこか狂気的な誇らしげさすら滲ませて言葉を続けた。
「私は府螺也の男として、しっかり現役退魔師だった司に告白し、全てを受け入れてもらうことでこの熊野看家に入り婿になったのだ」
「私も当時は色々迷ったっけねぇ。男として生きてきたのに、一生『女』になるのを受け入れるのなんてさ」
『当時は色々』女になるのを受け入れる』男として生きて来たのに』
両親の口から滑り出たその決定的な一言が脳内でエコーして、剛の視界から色という色が消え失せ、背景が完全な『宇宙』になった。
そして、理解した。
「っ……!!」
ガタッ、と。
後ずさった剛の背中が、冷たい地下室の壁に激突する。
鈍い痛みが走ったが、それよりも脳内を駆け巡る情報の濁流が剛の精神をズタズタに引き裂いていた。
(つまり、ずっと自分の中で勝手に「女性らしさの象徴」として、それでも強い母として尊敬してきたこの母親の正体は、元・男であり)
(父さんは、相手が元男だと知りながら、わざわざ告白して結ばれ)
(自分という、子を成した————?)
ゾワゾワゾワゾワァッ!!
足元からなめくじの群れが高速で這い上がって来たかのような嫌悪感。
思わず隠蔽の術すら剝がれて、ピンと立った耳と、二倍ほどの大きさに爆発した尻尾が震える。
「い、嫌っ! いやぁっ!! 知りたくなかった、知りたくなかったそんな事実ぅっ!!」
余りにも冒涜的で、倒錯していて、ド変態すぎる真実。
尊敬していた両親の歪みきった性癖の暴露に、剛は半狂乱になって頭を抱え、涙目になってその場にしゃがみ込んだ。
見た目通りの女の子のような悲鳴が、薄暗い地下資料室に虚しく木霊する。
「あっはっは! なに驚いてんだよ。ばあちゃんも、ひいばあちゃんもだぞ。ちなみに、ひいばあちゃんは府螺也の長男だったけどな!」
愉快そうに腰に手を当て、自慢の豊満な胸を張って笑う司は、ずっと隠してきた肩の荷を下ろしたかのように晴れやかだった。
剛は絶望の目でホログラムを見上げる。
つまり、この家系図に示された異常な頻度の婚姻関係は、「普通の政略結婚」や「血の濃縮」などでは断じてなかった。
咒具の呪いによって女体化し、相棒の男にオトされて身籠り、そのまま『メス堕ち』してしまった元・男たちが、互いの相棒の家系に嫁いでいったという……。
あまりにもナメクジのようにねっとりとした、業の深い退魔師たちの因果の歴史の証明だったのだ。正気がゴリゴリと削られていく。
「嘘だろ……じゃあ、俺も、蓮も……」
「ええ。どちらかが身籠れば、一族の退魔師として、相手の妻になり、永遠に『女』として生きることになるわ」
司が静かに、だが決して逃れられない呪縛を、だというのにあっけらかんと告げた。
戦慄する剛。昨日、蓮が見せたあの尋常ではない怯えの理由はこれだったのだ。
蓮は既にどこかの時点で、この『妊娠による完全女性化』の事実を知らされていたのだ。
「だ、だとして……何でこのタイミングでんなこと言うんだよぉ……」
完全に心がへし折れ、半泣きになって床にへたり込む剛に、宗介がコンソールを叩き、ホログラムの映像を無慈悲に切り替えた。
そこに映し出されたのは、昨晩二人が戦った『外なる霊』の生々しい戦闘データだった。
「事態はそのことで少し切迫しているからな、言わざるを得なかったんだ。昨日の外なる霊……人間を『苗床』にしようとするタイプが最近増えているだろう?」
「あ、ああ。俺たちが倒したのも……」
「ヤツらも進化しているんだよ。より強い霊力と、優秀な母体を求めてね」
宗介の眼鏡の奥の瞳が、鋭く冷たい光を放った。
「咒具の力で絶大な霊力を帯びた『女性の肉体』を持つ君たちは、ヤツらにとって最高の標的なんだ。捕まれば、ただの苗床では済まない。孕まされ、二度と男に戻れない身体に作り替えられ、永遠にヤツらの力を産み落とす道具にされる」
「ひぃっ……」
背筋を、かつてないほどの悍ましい悪寒が駆け抜けた。
一線を越えられるというのは、敵にさらなる呪いをひっかけられるとかだと思っていた。
だが今ならわかる、これはそういう曖昧なものではない、文字通り『孕まされる』ということだ。
負ければ、化け物の苗床にされて永遠のメス堕ち。
勝って生き延びても、いつか相棒と結ばれれば、どちらかが永遠のメス堕ち。逃げ場などどこにもないのだ。
ヒーローへの憧れから始まった戦いは、剛が想像していたよりもずっとずっと残酷な、性別と尊厳を懸けたサバイバルだったのだ。
「あ、ありえねえだろぉ……!」
絞り出すような剛の声が、薄暗い資料室に響いた。
後ずさり、壁に背中を預けたまま、剛は目の前の両親を交互に睨みつける。
今や完璧に美しく、たおやかな大人の女性である母、司。そしてそんな彼女の腰に自然に手を回し、常に行動を共にして支え合う屈強な父、宗介。
この二人が、かつては泥だらけになってドッジボールをするような、男同士だったなんて。
「い、いやだ!そんなの、絶対嘘だ! だって俺と蓮は……っ、ずっと男のダチとして……!」
必死に事実を否定しようとする剛の姿を見て、しかし司と宗介は顔を見合わせると、ふっと肩の力を抜いた。
「ま、そう言うと思ったわ。お母さんも最初は『絶対ないわー』って思ってたもの」
「えっ」
「でもね、この『完全メス堕ち』の条件が成立すると、番(つがい)となった両者の霊力が爆発的に増加するという、退魔師としては圧倒的なメリットがあるのよ。お母さんたちが今、世界規模の組織で第一線にいられるのも、その力のおかげだしね」
「メリットって、お前……っ、男の尊厳を捨ててるじゃねえか! というか当たり前みたいに『メス堕ち』とか言うなよぉ!」
俗が過ぎるネットスラングであろう――そしてさっきからナチュラルに頭には浮かんでも決して剛は口に出さなかった『メス堕ち』という地獄のワードを、しれっと言葉に出して真剣な問題に搦める司に、剛は泣きべそをかきながら頭を抱えた。
だが、宗介がポンと剛の肩に手を置き、その顔を覗き込んだ。先程までの軽口は消え、そこにあるのは外なる霊と戦う戦士としての、そして親としての真剣な眼差しだった。
「いいか、剛。我々が手にしたその圧倒的な力を、外なる霊に齎(もたら)すわけには絶対にいかない。ヤツらの苗床になり、その腹で化け物を育めば、お前自身の霊力ごと敵を最悪の形へ進化させてしまう。それだけは絶対に防がねばならないんだ」
「……ッ」
「だからこそ、剛。お前が蓮を、あるいは蓮がお前を少しでも『魅力的』に思ってしまったのなら――ヤツらにその身を奪われる前に、早いうちに覚悟を決めろ。どちらが男として生き、どちらが女として相手を支えるのかをな」
宗介の言葉は、昨晩から剛の胸の奥で渦巻いていた蓮への『不純な感情』を、正確に射抜いていた。
蓮を、女として意識してしまった。あの艶やかな身体を、甘い吐息を、守ってやりたいと、あるいは手に入れたいと、本能が叫んでしまった。
だが、それは同時に、蓮の男としての未来を永遠に奪うことを意味する。逆に、自分が蓮に抱かれれば、剛は一生、ヒーローではなくヒロインとして生きることになるのだ。
「そんなっ……」
剛はぎゅうと、爪が手のひらに食い込むほど強く両拳を握りしめた。息が詰まる。答えなど、出せるはずがない。
「そんな、事……すぐ、決めれるかよ……っ!」
苦悩に表情を激しく歪め、剛は弾かれたようにその場から駆け出した。
「剛!」
「ごめん、本当に……考えさせてくれ……っ!」
司の制止を振り切り、剛は階段を駆け上がり、二階にある自分の部屋へと逃げ込むように飛び込んだ。
バタンッ! と、乱暴にドアが閉まる音が家中に響き渡る。
静まり返った地下の資料室で、残された宗介と司は、ホログラムの青白い光に照らされながら静かに佇んでいた。
「……やっぱり、話すのが少し早かっただろうかな。あいつには、酷な現実すぎた」
宗介がぽつりと、後悔を滲ませた声で尋ねる。しかし、司はゆっくりと首を振ると、愛する夫の広い胸にそっと寄り添った。
「ううん。どのみち、中学生になったあの子たちの身体と心は、必然的に命を預ける相手に惹かれあうさ。悩む期間は、どっちにしろ必要だよ」
「そうだな……。あとは、あいつら二人の絆を信じるしかないか」
宗介は寄り添ってきた司の肩を抱き寄せ、司もまた、夫の背中に腕を回す。
かつて同じように性別の境界線で悩み、傷つき、そして最終的に互いを選び取った元・相棒同士は、息子たちが選ぶであろう過酷な純愛の行方を想いながら、静かに抱き合い唇を交わすのだった。
一方、二階の自室に逃げ込んだ剛は、ドアに背中を預けたままズルズルと床にへたり込んでいた。
部屋の壁には、幼い頃から憧れ続けた特撮ヒーローたちのポスターが所狭しと貼られ、棚にはお気に入りのフィギュアがズラリと並んでいる。
そして学習机の上には、一つの写真立てが飾られていた。
それは5年前。初めて『外なる霊』と戦い、二十四時間の呪いが解けて元の男の子の姿に戻った直後に、二人で泥だらけになりながら笑顔でピースサインをして撮った記念写真だった。
剛は制服を脱ぐことすらせずふらふらと立ち上がり、その写真立てを手に取ると、強く握りしめたままベッドへと飛び込んだ。
ボフッ、とスプリングが沈み込む。
その時、剛は無意識のうちに、同年代の女子と比べても明らかに大きめの胸が邪魔にならないよう、器用に身体を丸めて転がっていた。
そんな、すっかり『女の身体』に慣れきってしまった自分自身の悲しい習性に気づき、剛はひときわ大きなため息をついた。
べし、べし、と尻尾が彼自身の納得いかない信条を代弁するかのように床を打つ。
「はぁ……」
写真の中で無邪気に笑う、男の子の蓮。
あいつが一生、女になるかもしれない。あるいは、俺が一生、女になるかもしれない。
胸がギリギリと締め付けられ、物理的に引き裂かれそうになるほどの痛覚に、剛はぎゅうっと自身の肩を抱き、ベッドの上に蹲(うずくま)った。
「なんで、こんな事になってるんだよ……」
ぽろぽろと、大粒の涙がシーツに染みを作っていく。
「嫌だ、こんなの……ヒーローじゃ、ないよぉ……っ」
しゃくり上げる自分の声までもが、まるで苦しみ喘ぐ少女のそれで。そのあまりにもか弱く女々しい響きに、剛の自己嫌悪は底知れない泥濘へと沈んでいく。
あの日、旧校舎の裏で泣いていた俺に、蓮は言ってくれた。
『剛はヒーローだよ』と。
その言葉だけで、俺はこの5年間、必死に戦ってこれたのに。自分が信じていたヒーローとしてのアイデンティティが、今、ガラガラと音を立てて瓦解していく。
化け物の苗床になる恐怖。
そして、自分か蓮のどちらかが、男としての尊厳を永遠に失う恐怖。
剛はただ一人、逃げ場のないベッドの上で震え続けていた。
――コン、コン。
不意に、窓ガラスを一定のリズムで叩く音が耳に届いた。
剛はビクッと肩を跳ねさせ、涙をごしごしと乱暴に拭いながら窓際へと向かう。シャーッと勢いよくカーテンを開けた先――二階の窓のすぐ外に立っていたのは、咒具の力で強化された脚力を使って屋根伝いに跳躍してきた、蓮の姿だった。
「……お前、何やってんだよ。つーか、なんで普通に玄関から来ねぇんだよ!」
見慣れたライトグリーンの和装ドレスを纏った蓮に対し、剛はあきれ顔を作り、必死に鼻声をごまかして平静を装いながら窓を開けた。
「ちゃんと玄関からお邪魔したよ? 『剛のところに行ってきます』って言ったら、司おばさんに『しっかり捕まえなさいよ』ってウインクされちゃったから、恥ずかしくて外から来たの」
「あのクソ親……!!」
握りこぶしを作ってわなわなする剛が、いまだ女子の制服なのを見て蓮はクスリと笑う。
「それにしても剛、明日も女の姿でいる気? もうすぐ戦闘から24時間経つよ?」
「うっさい! 帰ってきていきなり地獄みたいな話を聞かされて、それどころじゃなかったんだよ! ……ってかお前こそ、なんでまだその格好なんだよ」
「んー? 僕は女の姿でも、そんなに困ってないんでねぇ」
飄々と答えた蓮は「解除(リリース)」と小さく呟いた。
淡い光が全身を包み込み、ヒラヒラの和装ドレスが光の粒子となって消え去る。代わりに現れたのは、蓮が普段着ているオーバーサイズのパーカーと細身のデニムパンツだった。
しかし――戻ったのは、服だけだ。
男物のパーカーを着ていても誤魔化しきれない華奢な肩のラインや、胸の柔らかな膨らみ、そして丸みを帯びた腰の曲線は、その服の持ち主が紛れもなく『少女』であることを残酷なほどに主張していた。中性的な男の子の服を着た美少女、というアンバランスさが、妙に生々しい。
蓮は脱いだ靴をビニール袋に詰めると、勝手知ったる様子でヒョイッと剛の部屋へと上がり込んでくる。
だが、ふと剛の方を振り返った蓮の動きが、ピタリと止まった。
「……剛」
蓮は、赤く腫れ上がった剛の目元――今さっきまで泣いていた明らかな痕跡に気付くと、スッと目を細め、先ほどまでの飄々とした態度は鳴りを潜め、底知れない、静かで真剣な色をその翡翠色の瞳に宿したのだった。
そのまま何も言わず、蓮は剛のベッドに腰を下ろした。
剛もまた、気まずそうに目を逸らしながら、蓮の隣にポスリと座り込む。
二人の間には、言葉のない重たい沈黙がしばらくの間落ちていた。部屋に飾られた正義のヒーローたちのポスターが、今の剛にはひどく冷たく、遠い存在に思えた。
「……なぁ」
沈黙を破ったのは、剛の方だった。
膝の上でギュッと拳を握りしめ、おもむろに蓮へと問いかける。
「蓮は、知ってたのか? その妊っ……赤ちゃんが……できると、女に固定されるってこと」
剛は不器用に言葉を選びながら、それでもどうしても恥ずかしいその内容を口にするため、顔をりんごのように真っ赤にして、蓮から目を逸らしながら尋ねた。
そんな剛に対し、蓮はフフ、と小さく、どこか寂しそうに笑いかけながら返す。
「あのね、うちは最初から教えられてたんだよ」
「な、何だよそれ! じゃあ俺だけ子ども扱いされてたってのかよ!」
剛は思わず顔を上げ、裏切られたような気分で食ってかかった。だが蓮は、肩をすくめて静かに首を振る。
「親の方針によるかもね。……実際、子供には刺激の強すぎる話だと僕も思ってたよ。それに、剛にはずっと、純粋なヒーローでいてほしかったから」
「蓮……」
蓮がそう言うと、剛の脳裏に昨日の光景が鮮烈に蘇り、ずきりと胸が痛んだ。
外なる霊の触手に捕まり、宙吊りにされてガタガタと震えていた蓮。剛が不覚にも魅力を感じてしまった、あの弱々しい蓮の反応は――。
蓮は、その残酷な真実を一人で抱えたまま、この5年間、誰にも弱音を吐かずに剛の隣で戦い続けてきたのだ。
(そして、俺も)
これからはその生々しい恐怖と隣り合わせで戦い、いずれは絶望的な未来のどちらかを選ばなければならない。
「剛……」
不意に甘い声で名前を呼ばれ、剛が振り向いた瞬間。
剛は、ハッとして息を呑んだ。
蓮が、真っすぐこっちを見ている。
いつも飄々としていて、それでもどこか他者と一線を引いているような蓮が、人の事をこんなにも真っすぐと、射抜くように見つめるのは稀なことだ。
吸い込まれそうなほどに綺麗な、翡翠色の瞳。その奥底に燃える真剣な熱情に、剛は金縛りに遭ったようにピクリとも動けなくなった。
「剛、僕はね……」
蓮は、ベッドの上で剛へと身を乗り出した。
その顔は僅かに高揚し、白い頬は薄っすらと朱に染まっている。パーカーの襟元から覗く華奢な鎖骨が、やけに色っぽく目に映った。
「良い、よ?」
「――っ!?」
それは、剛が男のままでいて、僕を『ヒロイン』にしてしまっても良いという、強烈な誘惑。
吐息のような甘い声で、蓮は胸の内の真意を、剛に静かに告げたのだった。
蓮の発した言葉に、剛は信じられないものを見るように目を見開いた。
「ばっ……馬鹿言うな! 敵の手に渡るくらいならって、そんな理屈で、俺も、お前も、そんな――男として生きる尊厳を捨てるなんて」
「違うよ」
言い募ろうとした剛の言葉を、その手にそっと掌を重ねた蓮が遮った。
ひんやりとした、けれど確かな熱を帯びた女の子の手が、剛の震える拳を優しく包み込む。
「僕は、剛が好きなんだ……男の剛も、女の子としての剛も。ぜんぶ」
「え……や、そんな……」
蓮の、あまりにも堂々とした愛の告白に、剛は口をパクパクさせて言い淀んだ。
「実を言うとさ、最初から怖かった……」
蓮は、泣き出しそうな、それでいてこの世の誰よりも幸せそうな微笑みを浮かべて語り始めた。
「でも、ヒーローの憧れだけで突っ走る剛に、ずっと助けられてきた。泣いてた剛を『ヒーローだよ』って認めたのだって、半分は震えてた自分自身を鼓舞するためだったんだ。……でも君は、そんな僕の言葉を本物にするために、ずぅっと頑張って来たじゃないか、剛。君は、間違いなくヒーローだよ。この街の――そして、僕の。だから、僕は君が好き」
――ズキン。
剛の心臓が、大きく跳ねた。
それは、ずっとこの過酷な役目を共に戦ってきた戦友であるからこそ言える、重みのある言葉。
咒具の呪いで惹かれただけではない、蓮の根からの本心だと、剛は否応なく理解してしまった。
蓮は、こういう冗談を言う奴ではない。
その絶対的な信頼と、なにより親友の本心を察する相棒としての観察眼が、その想いが真実であることの決定的な証明だった。
「僕を、女にしたくないのなら――」
蓮の手が、剛の拳から離れ、すっと上へ伸びる。
「えっ……ちょ、なに、わぁっ」
ぐいっと間合いを詰められて、上半身をベッドへ仰向けに倒された剛が情けない悲鳴を上げる。
そして、びくりと震える剛の顎を、蓮の細く冷たい指がなぞるように這った。
「僕が、君を女にしても、良い?」
「……ぇ、ぁ」
蓮の顔が、近づいてくる。目を閉じ、わずかに開かれた薄桃色の唇。
(逃げられない――いや、逃げたくない?)
剛の頭の中で、男でありヒーローであろうとする矜持と、蓮に抱かれたいと願ってしまう抗いがたい雌としての本能がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「……っ!」
近づいていく、唇と唇……。
その、時だった。
――ウゥゥゥゥゥウウウゥゥゥゥゥウウ!!
町中を貫く、けたたましいサイレンの音。
敵が、外なる霊が人間を襲う合図が、剛の部屋に無慈悲に鳴り響いた。
ピタリ、と。
二人の間にあった、甘く煮詰まったような空気が一変した。
絡み合っていた視線が鋭さを増し、少しだけ上気していた二人の表情が、瞬く間に『街を護る退魔師』のそれへと切り替わる。
「……っ」
蓮は顔を離し、ゆっくりと剛の上から退いてベッドから立ち上がった。
そして窓の外、サイレンが響き渡る夜の街を睨みつけながら、残念そうに小さくつぶやく。
「っち。こんな時に、タイミングの悪い奴らだ」
その背中を見つめていた剛は、誤魔化すように蓮からバッと顔を逸らした。
バクバクと早鐘のように打つ心臓を押さえつけながら、制服のスカートを翻して、太もものホルスターに忍ばせていた古びた鉄扇を握りしめる。
「装来(そうらい)……ッ!」
剛が低く呟くと同時に、眩い光が部屋を包み込む。
光が弾けた後、そこに立っていたのは逞しい少年でも落ち込んだ少女でもなく、赤い和装ドレスに身を包んだ可憐な退魔師の少女だった。
しかし、頭の猫耳は怯えと動揺でぺたんと伏せられ、お尻から生えた黒い猫の尻尾は、まるで爆発したかのように毛を逆立ててボンッと太くなっている。
極度の緊張と、隠しきれない情動が、身体に顕著に現れてしまっていた。
「剛、無理そうなら今回は僕が……」
尻尾を極限まで膨らませた剛を見て、蓮が気遣うように声をかける。
だが、剛はその言葉を遮るように、鋭く一喝した。
「馬鹿言えッ!」
ビシッ、と。
剛は顔を限界まで赤く染めながら、手にした鉄扇の先を蓮の鼻先に突きつけた。
「こんな事で出られなくなって、何がヒーローだ。俺は、お前のヒーローでもあるんだろ?」
それは先程、蓮が自分に向けてくれた最上級の賛辞への、剛なりの不器用なアンサーだった。
突きつけられた鉄扇越しに剛の真っ直ぐな瞳を見た蓮は、一瞬だけ目を丸くした後、嬉しそうにふわりと微笑んだ。
「決めるのは、後だ。多分昨日の奴がさらに進化してる、油断しないでやっつけるぞ、蓮!」
「……! うん、わかったよ、剛」
蓮もまた、自身の錫杖を手に取り「装来」と唱える。
もう一つの光が弾け、赤いドレスの猫耳少女と、ライトグリーンのドレスのリス耳少女が、夜の風が吹き込む窓枠に並んで足をかけた。
(――欺瞞だ)
夜の闇へ跳躍する直前、剛はギュッと唇を噛み締めた。
街の平和を脅かす化け物の出現。本来なら、ヒーローとして絶対に許してはならない凶報だ。だが、今自分は、化け物が人を襲ったこの知らせに、心の底から感謝してしまっていたのだ。
蓮からの口付けを避けられたことに。自分が男としての尊厳を捨てるか、愛する親友を永遠の女にしてしまうかという、残酷すぎる決断を――ほんの少しだけ、先延ばしにできたことに。
交差する想いと、ごまかしきれない罪悪感、そして恋心を抱えながら。
二人の美少女退魔師は、サイレンの鳴り響く夜の街へと飛び出していった。
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今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで…
ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。
はたしてアシュレイは元に戻れるのか?
剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。
ざまあが書きたかった。それだけです。
【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。
ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。
彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。
婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。
そして迎えた学園卒業パーティー。
ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。
ガッツポーズを決めるリリアンヌ。
そのままアレックスに飛び込むかと思いきや――
彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。
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