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Log1-2 府螺也 蓮はヒーローが好き
しおりを挟む退魔師と『外なる霊』の戦いは、しばしばサイバーセキュリティに例えられる。
暗黒世界『んかい』から、世界の綻びという名のバックドアを通じてこの次元へと湧いてくるその軍勢(ウィルス)は、はじめ実体を持たない無害なエラーデータとして空気中を漂う。
やがてそれらは、人々の死のイメージ――すなわち『恐怖』をテクスチャとして自らに貼り付けることで、この世界に干渉可能な仮想の実体を得る。
その恐怖という名の塗料の純度が濃ければ濃い程、仮想体は強壮さを増していく。そして最終的に、この世界に存在する生命の『胎』を媒介にして完全な受肉を果たそうと試みるのだ。
主に苗床として狙われるのは霊長類。すなわち、自然界が生んだ窮極の霊的推進力を持つ生物である『人間の女性』が最適とされる。
退魔師、そして彼らが振るう神代の『咒具(じゅぐ)』とは、その悪質なエラーデータを世界から削除するために、神がもたらした強固なセキュリティプログラムなのだ。
しかし――悪意もまた、進化する。
「ぐぶっ、えっあ゛っ……ぁ、あっ……っお、ぃぎっ」
ビクン、ビクンと痙攣する女性の肢体が、粘つく糸の宮殿を不規則に揺らしていた。
深夜。すっかり蜘蛛の巣の迷宮と化してしまった、閉館後の巨大な駅ビル内部。
吹き抜けの中央に張られた強靭な網の中心で、昨晩、剛たちから逃げ延びた『外なる霊』の触手が、新たな被害者を捕獲し、弄んでいた。
今回は、受肉のための苗床扱いではないのが不幸中の幸いだった。……しかし、客観的に見れば、それは『苗床』にされるのと同じか、それ以上に悍ましい光景だった。
極太の触手は、哀れな被害者の頭部を丸ごと、自らの粘液まみれの肉肉しい先端で包み込んでいた。
頭蓋を溶かす勢いで密着し、接続された脳髄から、その魂の根底にある『恐怖』の純粋なデータを直接じゅるじゅると吸い上げているのだ。
『 > STATUS: 魂魄データノ再定義ヲ実行中…… 』
『 > ALERT: 摂取データ量ガ一定数値ヲ超過シマシタ 』
獲物の頭部を包み込んだ触手の根元から、壊れたスピーカーのような無機質な機械音声が漏れ出す。
だが、その音声には、昨日までのただの『エラーログ』とは違う、奇妙なノイズが混じり始めていた。
『 > PROCESSING: 疑似思考回路ヲコーデック中…… 』
『 > UPDATING: 言語ノローカライズヲ開始…… 』
『 > 実行:脱皮(モルティング)プロセスヲ開始シマス 』
――ピシッ、メキッ。
ヘドロのようだった触手生物の太い根元が、内側から限界まで膨張し、まるでセミの抜け殻のように縦に大きな亀裂を入れて裂けていく。
『 > 仮想体更新(テクスチャ・アップデート)…… 』
『 > モデル: 蜘蛛恐怖症(アラクノフォビア) 』
『 > ――女郎蜘蛛(ジョロウグモ)、顕現シマ……顕現、するわ 』
「んっ……はぁぁ、ぁは、ぅふ、ふふふ……っ」
エラーデータが、知性を得た瞬間だった。
裂け目からこぼれ落ちたのは、システムログではない。陶酔しきった、酷く艶めかしく、耳にこびりつくような『人間の女』の嬌声だった。
ぬちゃり、と悍ましい水音を立てて、黒いヘドロの抜け殻から、巨大な怪物が這い出してくる。
一糸まとわぬ、豊満で真っ白な美女の上半身。しかし、その腰から下は、悍ましく筋肉質で、黒光りする硬い甲殻に覆われた巨大な蜘蛛の胴体だった。
新たに得た八本の鋭い多脚を器用に蠢かせ、元のドロドロの身体を脱ぎ捨てる。
外なる霊――いや、『女郎蜘蛛』は、触手に頭部を拘束されていた被害者を、人間側の上半身の腕で愛おしげに抱き寄せた。
そして、ズリュリッ、と音を立てて被害者の頭部から触手部分を引き抜く。
粘液に塗れ、白目を剥いて完全に正気を失っている被害者の顔を、女郎蜘蛛は恍惚とした表情で見つめた。
「すぅーーっ……」
そして、その首筋に顔を寄せ、深く匂いを嗅ぐ。
だが、次の瞬間。女郎蜘蛛の蠱惑的な顔が、つまらなそうに、いや、酷く不快そうに顰(しか)められた。
「……あーあ。駄目ね、スッカスカ。普通の雌の恐怖じゃ、今の私の『お腹』も『性欲』も全然満たされないわ」
まるで味のしなくなったガムを吐き捨てるように。
女郎蜘蛛は被害者の身体を無造作に放り投げ、巣の端の粘着糸に張り付けた。ただの人間など、知性を得た今の彼女にとってはどうでもいい搾りカスでしかなかった。
「あぁ、欲しいぃ……。あの、とろける水飴のような良質な魂。途切れることなく霊力がとめどなく溢れ出る、至高の依り代ぉ……」
陶酔したような、腹の底に響く艶めかしい声で、女郎蜘蛛は月明かりの差し込む吹き抜けで両腕を翻し、己の豊満な胸を抱きしめた。
昨日、自分を切り刻み、そして爆破した二人の姿を思い出す。
あの時、自分はエラーを吐き出して一度死にかけた。だが、その直前に触手で捕らえたあの『リスの少女』の、そして助けに飛び込んできた『猫の少女』の、規格外の霊力と瑞々しい生命力の味が、進化した仮想体の脳髄に焼き付いて離れないのだ。
「さぁ、早くまたおいで……生意気な退魔師たち」
女郎蜘蛛は、長く赤い舌で自身の唇を舐め上げ、蜘蛛の下半身の奥底――『胎』を熱く疼かせながら、虚空に向かって囁いた。
「子栗鼠のお嬢ちゃんに、猫のお嬢ちゃん……。ふふっ、どぉっちから、私の可愛い子供たちの『ママ』にしてあげよぉかしらぁ……♡」
機械的な脅威は、明確な悪意と、悍ましい『生殖能力』を持った怪物へと変貌を遂げた。
剛と蓮の決断の猶予を奪い去るための、最悪の舞台が整いつつあった。
「これは……」
「マズいねぇ……」
戦慄し思わず息を呑む剛と、あちゃーと呑気に頭を抱える蓮。
夜の駅前広場。二人の目の前に広がっているのは、夜空を切り裂くように交差する幾つものサーチライトに照らされた、巨大な駅ビルだった。
地方都市の顔であり、ランドマーク的な威容を誇っていたその建物は、今は最早別の意味で目立って仕方のない、異様なオブジェと化していた。
巨大なビル全体が、ドロドロとした白い蜘蛛の巣のようなもので完全に覆い尽くされているのだ。
立体的かつ縦横無尽に張り巡らされたそれは、もはや平面的な網というより、ビルを丸ごと飲み込む巨大なスポンジ状の繭のようですらあった。
『現場は現在、未知の粘着性物質により完全に封鎖されています! 内部にはまだ多数の逃げ遅れた人々がいると見られ――』
上空ではニュース番組のヘリコプターがバタバタと喧しく旋回し、遠巻きに集まった野次馬たちがスマートフォンを向けてざわめいている。
分厚い蜘蛛の巣のせいで、中に居た人々の脱出は困難を極め、機動隊による外部からの侵入もことごとく阻まれていた。
ただ一箇所、正面ゲートの入り口だけが、蜘蛛の巣の表で獲物を待ち構える蜘蛛の咢(あぎと)のように、ぽっかりと口を開け、無人のまま自動ドアを不気味に開閉させている。
これが、現代社会の限界だった。
彼らの持つ物理的な火器も、科学的なアプローチも、『外なる霊』という次元の違うエラーデータが引き起こす概念的な災害(バイオテロ)の前では、あまりにも無力なのだ。
救急車とパトカーのけたたましいサイレンが鳴り響く中、正面ゲートに歩み寄る二人の可憐な少女の姿に気づき、バリケードを守っていた若い警官が慌てて止めに入った。
「ちょっと君たち、止まりなさい! 今ここは未曽有のバイオテロが発生していて危険だから、立ち入り禁止――」
警官は二人を押しとどめようとしたが、ふと、その動きを不自然に止めた。
テレビカメラのレンズ越しだろうが、肉眼だろうが、一般人の目には彼女たちの顔に強力なノイズ――『認識阻害』のフィルターがかかる。
彼らに認識できるのは、「古風な和装ドレスを着た、異常に強い謎の少女二人組」という、ネットのオカルト掲示板で実しやかに囁かれている都市伝説のシルエットだけだ。
「……君たちなら、どうにかできるとでも?」
そんな無力な警官の必死な言葉に、蓮が小悪魔的な笑顔で、しかし酷く冷ややかに答える。
「ぐっ……!」
警官は言葉を詰まらせた。
目の前の少女たちが纏う、常人離れしたただならぬ霊圧に本能的な恐怖を感じながらも、市民を守るという警察官としての意地だけで、震える足で立ちふさがったままだ。
「意地悪言うなっての。……お疲れ様です」
剛はため息をつきながら前に出ると、警官という実在するヒーローに一礼し、懐から小さな木札――『絵馬』を取り出した。
——シャン。
剛がそれに霊力を通した瞬間、澄んだ鈴の音が、周囲のヘリやサイレンの喧騒を無視して警官の脳内に直接鳴り響いた。
霊力信号による、正規のセキュリティ・バイパス(認識改竄)である。
「――あ。お、お疲れ様です、行ってらっしゃい」
瞬時にして、警官の瞳から光が消え、虚ろな目をしたまま機械的な動作で道を開けた。そして、深々と二人に向かってお辞儀をする。
「分かればよろしぃー」
「こら」
嬉しそうに手を振る蓮の軽口を短く叱責しながら、剛は鉄扇を強く握り直した。
現代の警察機構すら容易く突破する退魔師の特権。
だが、それは裏を返せば、これから先の領域は「自分たちにしかどうにもできない地獄」であることの証明でもあった。
「行くぞ、蓮」
「うん、剛。僕の背中、守ってね」
二人は顔を見合わせると、同時に床を蹴った。
無人のまま不気味に開閉を繰り返すゲートのタイミングを読み、剛と蓮は駅ビルの内部に広がる、悪意に満ちた蜘蛛の巣の迷宮へと並んで飛び込んでいった。
一歩ビルの中に足を踏み入れると、そこは外界とは完全に遮断された異界だった。
静まり返ったフロアの床も壁も天井も、一面がネバネバとした白い糸で覆われ、不気味な脈動を繰り返している。
「……剛、索敵するね」
蓮がそう言うと、手にした錫杖を石突のマニ車ごと一回転させ、床をコツンと一突きした。
シャラァン……と、涼やかな音が響く。
その瞬間、波紋状の霊力がレーダーのように駅ビル内に広がり、張り巡らされた蜘蛛の巣のトラップや、潜んでいる無数の子蜘蛛の反応が、蓮と剛の脳内に3Dマッピングされていく。
本来であれば、これで迷宮の攻略は終わったも同然だ。罠を避け、敵を最短距離で各個撃破すればいい。
しかし――。
「ぅええ、最悪。ステルスコーティングされた蜘蛛の巣まであるよ。気を付けて、剛」
心底嫌そうに、蓮が目の前の空間を睨みつけた。
マッピングに記されていないはずの虚空に、微かな光の屈折が生じている。
その存在は、蓮の優秀な索敵能力ですら認識をすり抜ける、悪質な『隠し罠』の存在を示唆していた。
「ま、蓮がここまで見せてくれりゃあ、後は――」
剛が頼もしく笑いかけようとした、その時。
マッピングにないステルス状態の巣から、もぞもぞと這い出した黒い子蜘蛛が、剛の背後から唐突に飛びかかってきた。
「!」
だが、剛の身体は頭で考えるより先に動いていた。
まるで初めから見えていたかのように、グルんと軽やかに一回転すると、短い和装の裾を翻して鮮やかな回し蹴りを子蜘蛛に一発お見舞いする。
「しゃぁっ!」
蹴り飛ばされた子蜘蛛は、弾丸のような速度で壁の別の蜘蛛の巣へとシュートされ、自らの仲間の巣に絡め取られてジタバタと身動きが取れなくなった。
「――勘、だなっ!」
「流石ぁ。野生の勘ってやつ? それと……」
剛のアクションを褒め称えつつ、蓮は素早く背後を振り返る。
剛の迎撃を合図にしたかのように、今度は波状に周囲の巣から無数の子蜘蛛の群れが湧き出し、津波のように二人に襲いかかってきた。
しかし、蓮も剛も全く動じない。蓮が錫杖を優雅に振った、その途端。
チンッ!
錫杖の澄んだ音をスイッチとして、床や天井のタイルを突き破り、無数の『光の杭』が巨大な剣山のようにせり出した。
空を飛んでいたものも、床を這っていたものも、全ての子蜘蛛が一瞬にして光の杭に串刺しにされ、エラーを吐いて消滅していく。
「罠だったら、僕の方がまだ上手(うわて)かな?」
パチリとウィンクしてアピールする蓮に、剛は呆れた顔を作った。
「お前って、たまにえげつない攻撃かますよなぁ……」
「正面切って戦うヒーローは剛で、僕は後方で支援。なら僕は、どんな手を使ってでも君を守るさ」
フフンと誇らしげに微笑む蓮。
――うぐっ。
剛は、その真っ直ぐすぎる言葉に息を詰まらせた。
自室での出来事――あの告白からというものの、改めてこうして「お互いの立ち位置」を明確にする蓮の言動が、一々剛の心を掻き乱し、真剣に悩ませていた。
(蓮のさっきの告白、結局蓮は……どっちがいいんだ? 僕が君を女にしてもいい? ってことは、俺が嫁に行くのか? いや、でも『どっちの剛も好き』って言ってたし、じゃあ俺が蓮を嫁にしてもいいってことなのか……?
あぁっ、くそ! こんな戦闘中に変なこと考えてると、頭がこんがらがるっ!)
剛は顔から火が出そうになるのを必死に堪え、悶々と考えながら、悟られないように蓮へ背中を向けて表情を隠した。
しかし。
(……あ、剛の尻尾が床バンしてる。やっぱり、さっきのことで悩ませちゃってるよなぁ)
そう、剛の心情は、咒具によって生えた猫の尻尾の挙動から完全にバレバレであった。
バシッ、デシッ!
剛の意思とは無関係に、黒い猫の尻尾が苛立たしげに床やら自分の背中やらをあちこち叩きまくっているのである。これでは「激しく動揺しています」と看板を掲げているようなものだ。
しかし、この無意識の挙動が、迷宮においては致命的なミスを引き起こす。
「ねー剛、そんなに尻尾を振り回してたら、罠に引っかかって――」
――ずるっ!
「んぁっ?」
蓮が注意しようとした瞬間。
荒ぶっていた剛の尻尾が、壁際に張られていた極太のステルス蜘蛛の巣にベッタリと張り付いた。
剛が間抜けな声を上げた、その一瞬の間をおいて。
ズルズルズルズルッ!!
「ちょ、何でっ……ふぎゃ――――!?」
巻き取り式のウィンチのようなとんでもない勢いで網が収縮し、剛の身体は為す術もなく、迷宮の奥深くへと加速度的に引きずり込まれていった。
「ほらぁ、言わんこっちゃない! 待って、剛……!」
猫のような悲鳴を上げて暗闇へ連れ去られていく剛。
蓮は咄嗟に手を伸ばして追いかけようとしたが、その行く手を阻むように、床下からさらに巨大な無数の子蜘蛛の群れが津波のように押し寄せてきた。剛を分断するための、敵の明確な罠だ。
「剛が……っ。ここまで来ると、ちょっとマズいか」
いつもなら剛が前をこじ開けてくれるから、落ち着いて罠を張れる。しかし一人分断された今、悠長に支援魔法を唱えている暇はない。
愛する相棒のピンチに、蓮の眼差しから一切の余裕が消え失せた。
「――邪魔だ、退けよ虫けら」
蓮は錫杖をクルリと回してグリップを強く握り込み、柄のトリガーを引く。
ガキンッ! という機構音と共に、高速回転する石突のマニ車が唸りを上げた。それは蓮の霊力を極限まで練り上げ、普段は決して見せない彼の『本気』を強引に引き出していくのだった。
ズルズルズルズル――――!!
強引な力で引きずられ、壁や天井に体を打ち付けられそうになる寸前、剛は空中で身を捻った。
両手に握りしめた鉄扇の先端にジギリと刃を立て、自身の猫の尻尾に食いついている極太の蜘蛛の巣を引き裂かんと、全力で振り抜く。
「いい加減に、しろぉッ!!」
ブチィッ! という鈍い音と共にトラップの糸が千切れ、空中に投げ出された剛は、ゴロゴロと床を転がりながら、開けた空間へと躍り出た。
なんとか着地を決め、体勢を立て直す。
「はぁ、はぁ……ここは、中央ホールか?」
見上げれば、巨大な吹き抜けが広がっていた。
各階層から縦横無尽に伸びる極太の蜘蛛の巣が、駅ビルの内装をより立体的に、グロテスクに接続し、完全に無秩序な異空間と化している。
そんな中。
「ふふっ……あはははははっ!!」
反響する甲高い高笑いと共に、上空に張り巡らされた網の奥から、巨大な質量を持った影が飛び降りてきた。
ズドォォンッ!!
巨体が床に叩きつけられた衝撃で、剛の足元が一瞬フワリと浮き上がるほどの地響きが起きる。
「うぉあっ!?」
「はっはぁっ! 猫のお嬢ちゃん、いらっしゃあい! 昨日はずいぶんとお世話になったわねぇ?」
上ずった歓喜の声をあげて、土煙の中から異形の姿が現れた。
生体戦車じみた巨大で筋肉質な蜘蛛の下半身をガチャガチャと揺らしながら、その上部に備えられた豊満な女性型の身体が、長い腕を伸ばして剛へと顔を向ける。
「おう、随分イメチェンしたじゃねえか。見違えたよおばさん!」
剛は鉄扇を両手に構え直し、爪を研ぎ終えた猫のように腰を低く屈めた。
強気な挑発を放つ剛を前にして、女郎蜘蛛の女体はクスクスと愉悦に満ちた嗤い声を上げながら、チキチチキキと高速で目を明滅させた。
『 > UPDATING…… スキャンしやすいねえ、お前 』
「なっ……」
「退魔師の『胎の業』——妊娠による永久女体化リスクを、今日しがた聞いたばかりだね? そんな年齢までお子様扱いかい、これは苛めがいがあるわぁ」
耳元で囁かれたように、頭の中に直接響く女郎蜘蛛の嘲笑。
剛の直近の記憶から生々しい恐怖が、敵の思考スキャンに干渉され、読み取られていた。
「う、うるせぇ! 家庭の事情だ!」
顔を真っ赤にして吼える剛。
しかし、女郎蜘蛛は丸太や巨大な杭のような蜘蛛の前脚を高く持ち上げ、戦闘態勢をとった。
よく見れば、上部の『女体』は、微かに白い糸の繊維で構成されているのがわかる。
あの艶めかしい女の上半身は、獲物を油断させ、あるいは捕食するための単なるデコイ(疑似餌)に過ぎず、この化け物の真の『本体』は、下半身の筋肉質な蜘蛛の方なのだ。
「それなら、お前もわかるだろう? 我ら外なる霊、またの名をヒルコの民……。この世界に上質で確かな肉を以て完全顕現するために、お前のその極上の胎盤を頂くよぉ!!」
カッ! と。
女郎蜘蛛の女体の顔面が、人間ではありえないような縦の裂け方をして、悍ましい喜悦に歪んだ。中から無数の複眼と鋭い牙が覗く。
「……っ!」
ゾクッ……と、剛の背筋を、かつてないほど薄ら寒い恐怖が駆け抜けた。
それは、単に戦闘で負けて殺されるという恐怖ではない。もっと生々しく、尊厳を蹂躙される『雌としての敗北』。
人生をこんな化け物に強制的に剥奪され、男に戻ることもできず、苗床として永遠の苦痛と快楽の中で生きる羽目になるという、絶対的な絶望の恐怖の実感だった。
(女として孕まされるかもしれない、こんな悍ましい恐怖を……蓮、お前、たった一人でずっと抱えてたのか!? だっていうのに、俺は……何も知らずに、ヒーローだ何だって浮かれて……!)
そこまで考えたところで、剛はハッとして目の前を見返した。
思考の隙を突き、既に跳躍した女郎蜘蛛の巨躯が、眼前に迫り毒牙を剥いていたのだ。
「舐めんなぁっ!!」
ガヂンッ!!
金属音と共に、ワイヤーで繋がった無数の刃が、剛の鉄扇の骨の一本一本から猛スピードで射出される。
その刃の群れは、襲いかかってきた女郎蜘蛛のフェイクである『女体』を容赦なく引き裂かんと殺到した。
そして剛は、三階の天井の梁に突き刺さった刃の一本を支点として、飛ぶように上空へと跳び退いた。
「ちぃ!」
鉄扇の刃に、フェイクの本体である女体をバラバラの糸くずにされた女郎蜘蛛は、蜘蛛の胴体から舌打ちのような軋む声をあげる。
だが、切断された女体は、内部から溢れ出す粘着糸によって、あっという間に高速で元の美女の姿へと再生してしまった。
「立体機動は蜘蛛だけの特権じゃねえ!!」
三階の吹き抜け通路に降り立った剛は、蜘蛛の巣が張られていない柱に足をつき、ワイヤーを弾き戻して刃を回収しようとする。
しかし……。
「なっ……っあ!」
グン! と、三階天井に刺さったワイヤーが強烈に引っ張られ、剛は思わず片方の鉄扇を手放してしまった。
よく見ると、剛がワイヤーを突き刺した直後、時間差で天井から引き延ばされた強靭な糸の塊に、ワイヤーと刃が完全に固定されてしまっている。
「くそっ、蓮がいれば、あそこの罠も……!」
「今、ここにいない仲間のことを思ってる場合かしらぁ?」
ゾワリと、背後から艶めかしい声がした。
一階から剛のいる三階まで一足飛びで跳躍した女郎蜘蛛が、壁に張り付きながら、再生した女体の腕をズルリと伸ばしてくる。
腕の先端が粘性を持った糸の塊に変化し、剛の豊かな胸元にベタリと張り付いた。
「しまっ―――!」
グンッ!!
強烈に引っ張られる感覚と共に、剛の身体は宙に浮いた。
そのまま、容赦なく壁や天井へと乱暴に引きずり回される。
「ぁっ……っが!! あぁっ!」
ガリガリガリッ! と激突したタイルを破壊しながら、振り回される剛。
べた、べた、べた! と、引きずられるたびに各所に設置された蜘蛛の巣が剛の体に何重にも張り付き、抵抗する力を奪っていく。
瞬く間に全身をボロボロにされた剛は、両手両足を粘性の強い糸に大の字に拘束された状態で、巨大な蜘蛛の巣の中心――女郎蜘蛛の眼前へと、哀れにブランと吊るし上げられてしまった。
「くっ……ぁ、げほっ……。こんな程度の攻撃、効くと思ってんのか……? ぺっ」
身動きできず、和装ドレスは無残にはだけ、全身土埃だらけになっている。
だが、それでも流石は咒具の恩恵というべきか、極限まで強化された剛の女の子の肉体に、骨折などの致命的な傷は無かった。
負け惜しみのように、土埃の混ざった唾を女郎蜘蛛の女体の顔に吐きかける剛。
それを煩わしそうに手で払った女郎蜘蛛は、にちゃりと唇を歪めて嗤った。
「思っちゃいないわ。寧ろ、丈夫で大いに結構……。普通の軟弱な人間の雌なら、一回産ませただけで壊れちゃうからねぇ?」
「……っ!」
そう言いながら、顔と鼻先が触れ合うほどに近づけてきた女郎蜘蛛の女体が、ガシリと剛の顔を片手で掴む。
そして、その華奢な見た目と糸の構造に反して、万力のようなおぞましい膂力で剛の頬骨を締め付けた。
「なに、うぁっ……ぁ!?」
思わず口を半開きにして、上を向かされた途端。
剛を拘束する女体の肩口から、ズルリと新しく『もう一本の腕』が生え出した。
その腕が剛の口の上で手を翻すと、指先からドロリと溢れた濃い紫色の粘液が、一滴、ポタリと剛の口腔へと垂らされた。
「んっ、ぐぅ!?」
毒か、と剛は身構えた。しかし、違う。
嚥下してしまった瞬間。ドクン、と剛の心臓が、まるで自分のものではないかのような強烈な脈打ち方をした。
「は―――――っ、ぐぅ、あぁっ!!?」
ビクンッ! と、拘束された剛の身体が大きく跳ねる。
全身の血が沸騰するような熱。粘液が喉を通った瞬間から、脳髄が溶けるような甘い痺れが手足の先まで一気に広がっていく。
男としての理性が悲鳴を上げ、雌としての肉体が強制的に発情させられる、最悪の『媚薬』。
(やめろ……俺は男だぞ……っ! なのに、なんでこんな、腰の奥が、熱く……っ!)
「ふふっ。屈強な退魔師も、これには勝てないわよぉ」
「あ……ぁ、や、め……っ」
焦点の合わなくなり始めた剛の瞳を覗き込み、女郎蜘蛛は恍惚と囁いた。
「私の可愛い苗床になる前に……心が、圧倒的な快楽で壊れちゃうかもねぇ?」
――ギュガガガガガガァァッ!!
空間そのものを削り取るような、鼓膜を破る轟音。
螺旋(ドリル)。そうとしか形容できない形に極限まで圧縮・成型された、薄く硬い霊力の塊。
それが、階層をぶち破り、巨大な網を食い破り、進路上の雑魚を粉砕しながら、眼前の虚空で凄まじい速度で回転投射されていた。
盾にもなり、矛にも、破城槌にもなるその霊力の塊。
霊力の扱いにも得意分野が存在する、剛は自らの身体を構成し肉体と連動する魂(霊体)の制御が得意で、それがそのままフィジカルに直結している。
そして蓮は、体外に感知できる自他の霊力を把握し、制御するのが得意だった。
そして今、探知感度を最大にした蓮の視覚には確かに映っていた。
上層で規則的に点滅する『親友の霊力』。
それだけを目がけて、下から一直線に螺旋の霊力砲を乱れ打ちにしながら突き進む。
『ぎぇぇぇぇっ!!』
(剛……剛っ——僕の、剛!!)
蓮は、巻き込まれ弾けた子蜘蛛の体液を浴びながら、ただひたすらに彼の事を想い続けた。
――彼について、僕がいつも真っ先に思い出すのは幼稚園の頃の記憶だ。
『お前、男のくせに女みたいだなー!』
『きもーい!』
『やめてよぉ……』
昔から、僕は争いごとが嫌いだった。お気に入りのおもちゃを、当時のいじめっ子のグループに取られてはよく泣いていた。
『無理、無理だよぉ』
『やりなさい、蓮。こんなことも出来なくて、生存のために襲ってくる外なる霊を屠れると思っているの?』
家族にも、退魔師としての過酷な教育の名目で色々と無理を言われた。まずは包丁を手に取って生きた魚をさばく事から。
それだけでも吐くほど嫌だったのに、カエルの解剖、動物の解体と、嫌がれば嫌がる程、周りの要求はどんどんエスカレートしていく。
一番古い記憶にあって、僕はその頃からこの世界に絶望していた。
きっとこの世界は、僕に生きることを諦めろってずっと言ってくるんだって、そんな変な諦観すら持ちはじめていた。
その日もまた、いじめっ子のグループにドリルのおもちゃをとられて、「お前にはそんなの似合わねえよ」と馬鹿にされて、言い返せなくて泣きそうになっていた。
そんな時だった。
『やめろよ!』
いじめっ子のリーダーから、玩具を取り返してくれた、君がいた。
『おぉ、お前もう魚焼けるの? すげえじゃん! うちの池の鯉もさばける?』
『ふふっ……流石に怒られるんじゃない?』
剛は、僕のすべてを肯定してくれる存在だった。
『蓮、よくお聞き。敵はお前の胎を狙ってくる。次世代を、人生を、お前のすべてを永遠の苦痛に繋ぎとめ、喘がせるだけの玩具にするために襲ってくる。だから強くなれ、全て追い返せる程に……』
呪いのような母親の宣告。
到底、無理だと思った。
駄目だったときは、僕を苗床にした化け物こそが僕のそれからの人生になるんだろうと、初めから諦めていた。
咒具で女体化した自分を鏡で見た時も、だからどこか諦観交じりに受け入れていたのだ。 でも――。
『――こんなへんてこな変身だけどさ、初陣にはちょうどいいじゃねえか! 行くぞ、蓮!』
そう、震える自分の前に立ち、明るい笑顔で言ってくれた剛の可愛い横顔に。
僕は生まれて初めて、『出来る』と思った。
諦め続けてきた自分の背中を、力強く押してもらった。
そして……あの日。
夕陽に染まる校舎裏で、男としての尊厳を失い、ボロボロと涙をこぼして泣いていた君の顔を見て。
僕は、己の中に全く別の、甘く歪んだ感情が芽吹くのを自覚したのだ。
(ああ……この人なら、僕のものにできる)
と。そう、思ったんだ。
剛に背中を押されて育んだ純粋な愛は、皮肉にも女性化初日の剛の涙によって、僕の中で歪で強固な執着の華として開花した。
だからこそ、僕は何が何でも剛を守る。
男の剛も、女の剛も、全て自分のものにするために。
「あぁぁーーーっ! あっ、ひぅあ、や、やぁぁーーーっ!?」
吹き抜けの最上階。
女郎蜘蛛の玉座たる巨大な粘着網の中央で、大の字に四肢を固定された剛は、もはやまともな呼吸すらできず、泣き咽ぶような甲高い悲鳴を上げ続けていた。
衣服の上からですら、女郎蜘蛛の指が肌を滑るたびに、暴力的な快楽が脳髄を直接殴りつけてくる。
剛の腰は限界まで弓なりに反りかえり、喉を突いて出てくるのは、まるで自分のものとは思えない甘く蕩けた嬌声だった。
「はぁっ、んぁ、やめぇ……やめ、ろぉっ……んぎっ、ぃぃ――っはぅぅっ!」
「あらあら。そんなに無理して耐えたら、本当に壊れちゃうわよぉ?」
媚薬を飲まされた剛の全身の皮膚は、今やその全てが生殖器の粘膜になってしまったかのような異常な過敏さを帯びていた。
快楽を通り越し、もはや痛みに勝る拷問のような神経の棘を、シルクのように滑らかな女郎蜘蛛の指先が、触れるか触れないかの絶妙な感覚で逆撫でしてくる。
まして剛は、退魔師を始めてからというもの、己の女性化という呪いに対してひたすらに強情だった。
性を知る年齢になり、いくら思春期の好奇心が誘惑しようとも、「女の身体」で自らを慰めるような真似は一度たりともしたことがない。
それゆえに、完全に未開発な少女の肉体が、最悪の媚薬によって全身を性感帯に作り変えられて叩き込まれる快楽など、到底耐えられるはずもなかったのだ。
「はぁっ、はぁぁ……や、だぁっ……くそっ、俺は、男だ……っ、ひぅっ!あ、きゃあっ、ぁぁあ!!」
男のプライドが、ドロドロのシロップに漬け込まれて溶けていく。
もはや何度絶頂を強制され、何度その柔らかな股間から失禁し、琥珀色の雫を下層へと滴らせたか。
その極限の恥辱の有無すら、今の剛はまともに認識できていなかった。
それ程までに、これはいかなる物理的な拷問をも凌駕する、精神と肉体を徹底的に『雌』へと作り変えるための破壊的な奔流だった。
ただ剛は、白濁しそうになる意識の底で、定期的に掌を開き、拳を握る。
その動作だけは、血の滲むような意志で止めずにいた。
「はひ、はぁ……も、やめ、て……ひぬ、しんじゃ……頭、おかしく、なるっ……」
「あら。前戯はもうギブアップかしらぁ?」
息も絶え絶えに、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにして懇願する剛。その弱り切った姿を見て、女郎蜘蛛は満足げに身を掲げた。
そして、美女の上半身の下に接続された、屈強で悍ましい蜘蛛の本体を持ち上げる。
腹の節目がグチャリ、と悍ましい水音を立てて蠢いた。
そこから濃紫色の粘液をドロドロと滴らせながら、悪逆な産卵管――肉の棒のような生々しい器官が、脈打ちながら屹立した。
「え……ヒッ!」
まるで怯えた小動物のような、完全に裏返った上ずった悲鳴が剛の喉から飛び出した。
ぬちゃり、と。
先端から我慢しきれずに溢れ出した、薄膜に包まれた小粒の卵が、ぼちょりと剛の柔らかいへその上に零れ落ちた。
大きさにして、親指と人差し指で作る輪のほど。その中で蠢く多脚の幼体が、うぞり、とのたうち、皮膚越しに剛の胎へと到達せんと暴れているのが、異常に敏感になった剛の肌には嫌でも鮮明に理解できてしまった。
これが、これから、産卵管を使って、女の器官の奥底に、大量に流し込まれる。
そして、悍ましい悪寒と快楽に脳みそを塗り潰されながら、永遠に女の身体に固定化される。
強烈な吐き気と、本能的な怖気が同時にこみ上げた。
「い、嫌っ! 嫌だ!! それ、それだけは、ぁひああっ!!」
拒絶。激しく頭を振って無駄な抵抗を試みる剛の胸に、また未知の刺激が襲い来る。
ビクビクと跳ねる敏感な腰を、女体の腕でガッチリと抱え込まれる。
そして、女王の女体の口から長く伸びた赤い舌が、剛の豊満な胸元の谷間をべっとりと舐め上げ、制服の布地ごと、その硬く尖った先端を執拗に転がした。
「はぁぁっ!? うあ、ぁあっ、あンっ!」
腰が跳ねる。自分でも信じられないほど淫らな声が出る。
悔しい、涙が止まらない。
それでも、掌の開閉は止めない。
「ほら、無駄な抵抗はやめなさい……。お前はこれから、私の可愛い子供たちの『ママ』になるのよぉ?」
そう言って、女郎蜘蛛が霊力を込めた冷たい指先を、剛の額にピタリと当てた。
「……っ、ぅあ」
妖術による幻視。
イメージをそのまま他者の脳内に強制接続する精神干渉。
そこで剛は、自らの『最悪の未来』を強制的に見せられることとなった。
『ぁはぁ……ぁはは、きもち、ぃ……♡ もっとぉ……もっと、奥に産み付けてぇ……っ』
薄暗い迷宮の奥底で、醜くパンパンに膨れ上がったお腹を抱え、絶え間ない快楽に喘ぎ、下品な嬌声を上げながら、もじゃもじゃの悍ましい蜘蛛の子を排泄するように生み出し続ける――理性を完全に失い、交尾と出産の快楽に溺れきった、哀れな自分自身の姿を。
「……ぁぁ、ぁ……」
パタン、と。掌の開閉が、止まりそうになる。
剛はガタガタと震え、恐怖と絶望で息もできなくなる。
瞳孔が開き、男としての自我が、ヒーローとしての矜持が、完全にへし折れる寸前だった。
「諦めなさい。貴方は私の苗床以外、何にもなれない……。安心して、貴方の可愛い相棒も、すぐその隣で一緒に孕ませてあげるから」
――その言葉を聞いた瞬間だった。
完全に絶望の泥濘に呑まれそうになっていた剛の瞳の奥で、消えかけていた炎がピクリと跳ね、肉体が僅かに反応した。
「……あら?」
急に嬌声の質が変わったことに、女郎蜘蛛が訝しげな表情を向ける。
快感が消えたわけではない。媚薬による暴力的な快楽も、敏感になった肌の苦痛も、そのまま残っている。
剛の身体は相変わらずビクビクと小刻みに震え、限界を告げている。
「……っ、はぁっ、はぁ……ぅぐ、っっ!!」
剛は、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締め、『耐える』という選択を行ったのだ。
自分だけなら、この圧倒的な快楽と恐怖の前に折れていたかもしれない。
だが、蓮まで。あいつまでこんな目に遭わせて、あいつの男としての未来を化け物に奪わせるわけには、絶対にいかない。
「あら。退屈な反応を見せれば、私が手を止めるとでも思ったのかしら?」
ぐわしっ、と。
無防備な丸いお尻を、蜘蛛の硬い剛毛の生えた脚で強引に掴み揉みくちゃにされ、肌のすべてが性感帯になっている剛は、鼓膜を裂くような悲鳴を上げた。
「ぅああっ!!? はぁっ、ちげえよ、ぉ、おばさんっ……思い出した、だけさ」
「……ぁあ?」
剛は、脳を焼くような快感と痛みを堪えるように瞳を閉じ、脂汗を流しながら、ただ『待って』いた。
「あいつ……っん、キレると本気で……ひぅ、怖いんだ、ぜぇ?」
剛が息も絶え絶えに、顔を歪めながらそう言い放ち、霊力の灯る掌の開閉を再び力強く行った。
――ぐー。ぐー。ぐー。
――ぱー、ぱー、ぱー。
――ぐー。ぐー。ぐー。
それは、外なる霊の干渉を受けない、最も原始的で、泥臭いSOS信号。
次の瞬間だった。
――ゴウゥゥゥゥゥッッ!!
駅ビルの吹き抜けの一階を丸ごと吹き飛ばしたかのような、凄まじい轟音と暴力的な気圧の変動が下から突き抜け、最上階の巨大な網の宮殿を激しく揺るがせた。
敵が仕掛けた隠し罠も、湧き出る無数の雑魚蜘蛛も、駅ビルの複雑な地形も、後から請求されるであろう莫大な被害額も、今の蓮には一切知ったことではなかった。
(剛が呼んでいる。剛が、僕に、助けを求めているっ!)
ただ全てを力業で粉砕し、無視して歩んだ先に開けた、最上階の吹き抜け空間。
粉塵が舞う中、下から見上げた蓮の眼前に、ポツリと温かい水滴が落ちてきた。
「……?」
頬を濡らしたその雫を指で拭う。
それは天井から滴る、琥珀色の液体の水溜まり。
そして、上空から充満してくる、むせ返るような甘い雌の匂いと、脳を焼く媚薬の香り。
蓮は錫杖を握り締め、強化した視力で上空の網の中心を睨みつけた。
そこに見つけたのは、四肢を無様に拘束されたまま、大好きな黒髪を涙と汗で振り乱し、震え、しなしなになった黒猫の尻尾だけを、助けを求めるように此方へ伸ばす『親友』の姿。
そして――そんな『彼』を汚らしい手で弄ぶ、身の程知らずの醜悪な『害虫』の姿だった。
「——――へぇ。」
絶対零度。蓮の薄桃色の唇から漏れたその短い一音には、一切の感情が乗っていなかった。
しかし、だからこそ。ゾワッ!! と。
理屈を超えた本能的な死の恐怖を感じたのは、異界の上位存在であるはずの女郎蜘蛛の方だった。
その恐怖による無意識の痙攣でさえ、最上階の強靭な巣を不規則に揺らしてしまう。
「ふあぁんっ!?」
揺れの振動が媚薬漬けの敏感な肌に擦れ、剛が情けない嬌声を上げる。
しかし、剛はそれで止まることはなかった。頼れる相棒の姿を視界に捉えた瞬間、剛はすぅ、と大きく息を吸い込んだ。
大声を出すことで、敏感になった神経の奥底まで振動が響くのすら構わずに、腹の底から、ありったけの声で叫んだ。
「れええぇぇぇん! たすけてくれええええええ!! ……んぎぃっ♡」
ヒーローの矜持など微塵もない、ヒロインのような悲壮な叫び。
だがその絶叫の最後は、案の定、胎に響いた刺激に耐えきれずに跳ね上がった、甘く淫らな悲鳴にすり替わってしまった。
しかし、その必死で情けなくも愛おしい声には、相棒としての確かな信頼があった。
蓮は大きく目を見開いて、そして、この世の何よりも嬉しそうに、歪で眩しい笑顔を浮かべて応えた。
「……ははっ。仕方ないなぁ、やってみるよ!」
「やってみろ子栗鼠ぅ!!」
威勢よく吼えた女郎蜘蛛だったが、彼女は蓮が放った異常な霊力と、その底知れぬ狂気に一瞬でも怯えてしまっていた。
そのため、あの奇妙な霊力の塊に対して、一息に跳躍して目の前に降り立ち、剛を盾にするという愚行は選ばなかった。
怯え混じりに、女郎蜘蛛は壁面を伝って安全な距離から粘着糸を飛ばそうと、カサカサと後退して距離を詰めたのだ。
――それが、決定的な間違いだった。
「行動を始めるのが遅いよ」
ヂン、と。
蓮が石突を床に当てて、澄んだ錫杖の音を鳴らす。
その瞬間、女郎蜘蛛の丸太のような足の強固な外骨格すら易々とぶち抜いて、壁の内部から巨大な『光の杭』が突き立った。
「があああああ!? な、まさか、今入ってきて、一瞬で罠を張り巡らせた!? そんな、出鱈目な!」
女郎蜘蛛が周囲の霊力をスキャンすると、底には確かに、植物の種——いや、それどころか菌類の胞子のような極小の霊力の種子が既に散布され、意志を持っているかのように一か所に集まり、周囲にとどまった残留思念などの雑霊を巻き込んで杭の形へと急成長していた。
「みんなよく来る駅ビルだもん。だいたいの構造は予測できるし、君がどこに網の根を張り巡らせるかも予想できるで、しょっ!」
もう一回。
今度は錫杖のグリップを強く握り込み、マニ車を高速回転させて全霊力を込めて、石突を突いた。
ドンッ!ドドドちゅごちゅぶちごきん!!
床を突いた瞬間、壁、天井、あらゆる死角から無数の光の杭が射出され、壁際へ逃げた女郎蜘蛛を容赦なく貫いた。
「~~~~~~~っ!!?」
蜘蛛の筋肉質な本体も、デコイとして剛を弄んでいた艷やかな女体も。
その全てを隙間なく無数に刺し貫かれた女郎蜘蛛は、声なき絶叫を上げて杭に持ち上げられたまま、壁に縫い付けられた。
生きたまま標本にされた哀れな虫のように、無様にもがくことしかできない。
「ねぇ、選びなよ」
蓮は錫杖を肩に担ぎ、フワリと宙に浮いて、身動きの取れなくなった女郎蜘蛛の目の前まで上昇する。
「わざわざ、その汚い血が剛に掛からないように壁際まで移動してくれたお礼に、特別に選ばせてあげる」
それは、その他全て――彼が内に秘めた狂気や怒り――を知覚できない愚者であったならば、一瞬で心を奪われてしまうような、極上の美少女の明るい笑顔だった。
「全身の血管の代わりに、内側から光の杭を張り巡らされて破裂するのと。脳髄が焼き切れるまで、電流みたいに加減した霊力圧を流し込まれ続けるの。……どっちがいい?」
それは剛の心を傷つけられた代償を払わせるための一切の慈悲を孕まない、残酷な処刑の二択だった。
『ぎいいぃぃぃぁあ!!が、あ゛っ、げえぇぇえああああ!!』
最上階で、剛は最早先程とは違う意味で情けない悲鳴を上げていた。
「わ、わぁぁ……っ、ぁっ……」
助かった、と剛は思いたかった。
しかし、動けないし見向きもできない階下から、声にもならない女郎蜘蛛の絶叫と、霊力が徐々にあれを焼き焦がす悍ましい音と臭いが漂ってくる。
それが、媚薬で極限まで敏感になった身体と心に、得も言われぬ『別の恐怖』を呼び起こさせるのだった。
(蓮、お前……怒らせると、こんなに……っ)
此処まで切れた友人が、これから助けに来るのだが、もう色々な感情と恐怖がぐちゃぐちゃになって、どう話せばいいか剛はひたすら迷うのであった。
ぶしゅうぅぅぅぅ……ブスブス、ぶすぶす……。
吹き抜けの壁面に張り付けにされた黒焦げの肉塊から、ひどく焦げた異臭と白煙が漂っている。
先ほどまで蠱惑的な嬌声と傲慢な嘲笑を響かせていた女郎蜘蛛は、蓮が選択の余地なく流し込んだ致死量の霊力圧によって、文字通り脳髄の奥の奥まで焼き切られ、完全に沈黙していた。
「うわ、重ぉっ」
蓮は、軽く息を吐きながら三階の天井の梁に突き刺さっていた剛の鉄扇を力任せに引っこ抜くと、その鋭い刃を使って、剛の両手足を大の字に縛り付けていた極太の蜘蛛の巣を次々と引きちぎっていった。
「はぁ、ぅ、んっ……ああっ」
拘束が解かれ、糸が肌から剥がれるだけの些細な刺激。
それだけで、媚薬で全身を極限まで敏感にされている剛の口からは、本人の意思とは無関係に、甘く官能的な声が漏れ出てしまう。
ドサリと網の上に崩れ落ち、ボロボロになった和装ドレスの隙間から白く艶めかしい肌を晒し、荒い息を吐く剛。
そんな無防備な相棒を見下ろしながら、蓮は静かにしゃがみ込んだ。
そして、剛の柔らかいおへその上に落とされたまま、気味悪く脈打っていた女郎蜘蛛の『卵』を、ぐちゅりと無造作に掴み取る。
ほんの数分前まで見せていた怒りと熱情はそこにはない。
蓮は、完全に感情の抜け落ちた、絶対零度の冷たい瞳でその卵を見つめると、手首を返し、吹き抜けの最上階から一階の奈落へと真っ逆さまに落とした。
――べちゃり。
はるか下層で、醜悪な命の種が潰れる微かな音が響いた。
「蓮……んっ、ごめん」
熱を持った身体を丸め、服の裾を強く握りしめながら、剛は上目遣いでぽつりと謝罪を口にした。
自分の不用意な動揺のせいで罠にかかり、あわや最悪の事態になるところだったのだ。ヒーローとして、あまりにも不甲斐ない。
「なぁに? 謝ったりなんかして剛らしくもない。お礼の言葉が欲しいくらいだよ、僕は」
蓮はいつもの小悪魔的な笑みを浮かべ、わざと剛の顔を覗き込むようにして囁いた。
「……それとも、今回こんな酷い目に遭ったから、ヒーローはもう諦める。なんて言わないよね?」
蓮の声から、僅かに余裕が消える。
もし剛が恐怖に負けて退魔師を辞めると言うのなら、蓮は喜んで彼を安全な鳥籠に閉じ込め、自分が永遠に守る『ヒロイン』にしてしまう覚悟があった。
だが。
「……逆だよ。俺は知らなかっただけじゃない……お前のこと、理解してなかったんだって、思い知らされた」
剛の返答に、蓮の瞳にハッと光が灯る。
「俺は、もう目を逸らさないから。お前の想いからも」
媚薬の熱に浮かされそうになりながら、恥じらうように顔を真っ赤にしながら。
剛は震える腕で身を起こすと、蓮の頬にそっと両手を添えた。そして、熱い吐息を絡ませるように身を乗り出し――自ら、その薄桃色の唇を蓮のそれに重ね合わせた。
――ちゅっ。
「…・・・っ、んっ!」
静かな網の宮殿に、甘く、小さな水音が響いた。
唇に感じた不器用で軟らかい感触に、蓮は驚愕に目を見開いた。
それは、どう見ても庇護欲をそそる『守るべき女の子』からの、初めての接吻で。
しかし、そこに宿る決して折れない志の高さと、相手と並び立とうとする強さは、立派に『男』のままの、剛の魂そのものの感触だった。
少しだけ触れ合い、すぐに恥ずかしそうに顔を離した剛は、自身の口元を手の甲で押さえながら、荒い息を継いで言う。
蓮も思わず驚いた声を上げ、名残惜しそうに自らの唇を撫でていた。
「……こんな有様だけど、俺、もっと強くなるから。この呪いとの向き合い方を、俺なりにも考えるから。だから、今はまだ……相棒って事じゃ、駄目か、蓮?」
蓮は、目の前でそう言う『女の子』を見下ろした。
ドロドロにされて、情けなく震え、どう見ても強がっているようにしか見えない、大好きな女の子だ。
今すぐにでも、その体のほてりを理由にして、その花を自分だけのものに『加工』してやりたい。
そして、大切に保存してやりたい。
だけど、それは、紛れもなく大好きな『剛』でもあった。
「……ははっ」
剛の、不器用すぎるけれど真っ直ぐな誠意。
それを真正面から受け取った蓮は、心底愛おしそうに、そして世界で一番嬉しそうに破顔した。
伸ばそうとした手を、引っ込める。
「——じゃあ、エッチな攻撃への耐性も付けないとね」
「それ要る!? ……ん、んんっ!」
剛がツッコミを入れようとした瞬間、蓮がひょいと剛の身体を持ち上げ、自身の背中に背負い込んだ。
身を預けた背中から伝わる蓮の体温と、歩くたびに服が擦れる刺激に、剛の口から再び誤魔化しきれない女の子の嬌声が漏れる。
「今回負けたの、主に僕の告白に動揺して尻尾を床バンしてたのと、媚薬飲まされたからでしょ?」
「ぁー……そのぅ」
図星を突かれ、剛は蓮の背中で申し訳なさに小さくなり、またもやスッと目を逸らした。
そんな剛の様子に、蓮は冗談めかして、しかしどこか本気の熱を帯びた声で耳元に囁く。
「僕が手伝うからさ。苦痛も、恥ずかしさも……全部半分こ」
「お前! やっぱり堕とされる気ないだろ、俺をメスに堕とす気だろ! ……ひぎぃっ♡」
大分薄くなってきたとはいえ、媚薬の効果はまだ微かに身体を巡っている。
声を張り上げた振動が自身の敏感な神経を揺さぶり、剛はまたしても情けない変な声を出してしまった。
「あははは。どっちも、僕はいつでもいいよ? でもまぁ、頑張ってみるのもいいかもね……。僕の手で、君がメスに墜ちるのか」
「メス墜ちしてたまるか! 俺はヒーローになるんだぁ! ……はふっ」
互いの息遣いが触れ合うほどの距離で、そんな緊張感があるのかないのかわからない、最高にこじれた会話を交わしながら。
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