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第一章
Rain 2
しおりを挟むその日は台風が接近中とかで、朝からずっと激しい雨が降り続き。いつも通りに呼び出されてバーへ急ぐと明美社長は1人きりで飲んでいて、キツめの酒をどんどん俺に勧めてきた。今迄だったら自衛のためにと適当な理由をつけて断ったところを、この日は正体をなくすまで飲む。
「ねえ、番匠くん。もう分かってるわよね?私の気持ち」
「は…い」
泥酔していたはずなのに、記憶はところどころ鮮明で。最中に考えていたのは、ただただ早く終わってくれること。そして『誰も助けてくれないんだなあ』とひたすら絶望していたことだ。
…そう。所詮は他人事で、皆んな自分を守ることに精一杯なのだ。
終わってみれば、“後悔”というよりも“仕方なかった”という思いの方が強く。数日経過しても、治りかけた傷のカサブタを剥がすように何度でもその晩のことを反芻し続けた。
それと同時に遠い記憶も蘇ってくる。義姉からムリヤリ押し付けられた唇とネットリした厭らしい視線。…そんな数々の記憶から性の対象にされることを苦痛に感じ、自分の身が疎ましくて堪らなくなる。平静でいたつもりだったが、徐々に心のバランスを失っていくのが怖いほどよく分かった。
一度許したことで明美社長は何度でも誘ってくるようになり、ソレを拒絶することに神経をすり減らしていくうち仕事に対する意欲も失せた。誰が悪いとか、どうしてこうなったのかとか、そんな怒りのようなものは無くて。
なぜ、俺だったんだろう?…と。
普通に就職してそれなりに頑張って来たし、人と同じようにささやかな幸せを望んだだけなのに。あんなに好きだった雅にもずっと会えていない。彼女にだけはバレたくなかったし、彼女にだけは嘘を吐きたくなかった。一番守りたかった関係のはずなのに、結局は自分で壊してしまうだなんて。…可笑しくて涙も出なかった。
そうこうしているうちに明美社長を避けていることを主任から叱責され、仕方なく日中に先方の会社へと向かう。多分、俺がその日その場所へ行ったのは運命だったのだろう。社長室に案内されて2人きりになった途端、明美社長は抱き着いてくる。
「バカねえ、番匠くんはもう私から逃げられないのよ」
そう言った彼女の真っ赤な唇が、間抜けなほどポカンと開いたままになり。その視線の方向に振り返ると、包丁を持った男性がこちらに向かって突進して来た。
「俺が全部終わりにしてやるッ!お前を殺して、俺も死ぬんだあああッ!!」
…明美社長の秘書である山尾さんだった。思い詰めた表情で、包丁を握った手はガクガクと震えている。
>息子がね~、産まれたんですよ。
>指なんかこんな小っちゃくて、
>ほんと俺が守ってやらなくちゃって。
そう言ってこの人が笑っていたのは、
半年ほど前のことだっただろうか?
>あはは、
>早く帰って子供の相手してやらないと。
>ウチの奥さん、
>ずっと寝て無くてヘロヘロだから。
子供のことを嬉しそうに話していたのに。そういえば最近、どことなく暗い表情をしていた気がする。
「ぎゃああああッ!!たすけてええッ!!!」
明美社長の叫び声でようやく我に返る。そうだ、今はそんな場合じゃ無かった、背後に刃物を持った山尾さんがいるんだ。
社長用のデスクを背にする形で明美社長は立っており、自ら抱き着いた俺との間に挟まれて逃げ出せないらしい。かと思えば、腰が抜けたのかズルズルとその場で崩れ落ち、ただでさえ狭いスペースに座り込んだせいでバランスを保てなくなった俺は足元がふらついて、後方へと倒れ込む。
「あ…」
「きゃあああ──っ!!」
「うッ」
本当にバカバカしい結末。
俺は山尾さんが手にしていた包丁に、
自らこの身を沈めたのだ。
ズン、という衝撃と共に背中に激痛が走った。それから怒号や悲鳴、幾人もの聞き慣れない声を聞きながら俺は意識を失った。
…………
「俺も、同じ目に遭ってたんです」
病室で目覚めると、そこにいた山尾さんが静かに語り始める。
俺より3つ年上のこの人は生真面目で少しだけ気が弱く、端正な顔立ちをしていた。刺された傷は出血が多かったものの急所を外したとかで。明美社長の一存により、救急車は呼ばずに社用車でいろいろと融通の利く病院へと運ばれたそうだ。ゴクリと喉を鳴らして山尾さんは続ける。
彼の幸せだった家庭が、
いとも簡単に壊れた経緯を。
山尾さんは大学在学中、友人と共に起業したそうだ。それも軽いノリで。流され易かったこの人は、友人の熱意にただなんとなく巻き込まれてしまったらしい。それはいわゆる広告代理店で、無料配布のフリーペーパーを主とし、広告収入を得ようとしたが所詮は素人の思いつきでスグ廃業。後に残ったのは借金のみだったのだと。借金返済のため仕方なく大学を辞め、幾つもバイトを掛け持ちして。そのうちの1つがホストで、そこで明美社長に出会ったそうだ。
「…酒に弱いんですよ、俺。だから売上なんて毎月ドンケツで。そこにきて売掛の客が飛んでしまった。絶望していた時に拾ってくれたのが明美社長です。『夜の仕事を辞めたら、自分の会社で雇ってやる』と言われて翌日にはもう転職していました。この御恩は働いて返そうと、必死で頑張ったんですよ。
でも、あの人が望んだのはそういう恩返しじゃなかった。…分かるでしょう?番匠さんも同じ目に遭ってるんだから。歓迎会だと言われて、しこたま飲まされて。その時の酒に何か一服盛られたみたいで、気付いたら関係させられていたんです」
ここまでの経緯を聞いても同情する気は起きなかった。残念なことに人間というのは、自分に降りかかった災難以外は他人事だと思ってしまうらしい。ふと、主任の言葉が頭の中で響く。
>だってお前、男だろ?
>イザとなれば番匠の方が腕力は強いし、
>そんなもん適当に躱せよ。
…ああ、そうだったな。
そう言われて俺はこう思ったんだ。
そんなの無理だって。
そんなの出来るワケ無いって。
虚ろな目のままで、山尾さんは続ける。
「関係は1回きりでは終わらせてくれなくて。2回目以降は宥められたり脅されたり、とにかく徹底的に追い詰められました。精神的に疲弊した俺はとうとう相手の思うままに…。でも、もう限界だったんです。だって心と体は直結してるから。俺、高校から付き合ってた彼女がいて、それが後の嫁さんになるんですけど。結婚してしまえばさすがに明美社長も誘って来ないだろうと考えました。実際、そうなりましたが、嫁が出産して里帰りした途端また明美社長が誘ってきたんです。
やんわり断ると、行為中に撮影した画像を俺に見せて嫁にバラすと脅した。それでもキッパリ断ったら、ワザワザ嫁にその画像を見せてこう言ったそうです。『アナタの旦那、ずっと私と浮気してたのよ』って」
廊下をペタペタと誰かが歩いている。その足音が遠ざかった時、山尾さんは次の言葉を発した。
「…なんでですかねえ?男は強いと思われてて、実際に強くなきゃいけなくて。女は弱いから守られるべきだって、俺みたいに脅されて関係を迫られても、うっ、ズズ…。誰にも助けを求められなかった…。だって俺は男だから、助けなんか求めたら絶対バカにされる。『断ればいいだけだろ』と鼻で笑われてお終いなんだ。
嫁にはこう言われました。『命懸けで貴方の赤ちゃんを産んだのに、それを労わるフリをして裏では舌を出し、他の女と浮気していたなんて』と。言い訳する隙すら与えて貰えず、そのまま実家に帰ってしまいました。それから離婚届が郵送されてきまして、何度も実家に行ったけど門前払いで子供にも会わせて貰えません」
…たぶん、奥さんは薄々気づいていたのだろう。長い間、積み重なった不信感。自分を騙しながら暮らしていたのに浮気相手から全てを暴露されてしまい、もう限界だったのかもしれない。
「可哀想に」
思わずそう呟いていた。山尾さんもその奥さんも、俺と同じでささやかな幸せを望んだだけだったのに。
「番匠さんも可哀想に」
「いえ、山尾さんの方が可哀想ですよ、だって俺は結婚していないから」
不思議な感覚だった。共通の苦しみを味わったせいだろうか、その哀しみが自分のものと融け合って、なぜか俺自身を励ましてくれるような。
「先日、嫁の親がウチに乗り込んできて、仕方なく離婚届を記入しました。それで生きる気力も無くなって。あんな社長の下ではもう働けないし、退職届も提出済で今月末には辞める予定だったんです。それで俺がお役御免になり、次の標的を見つけたことに気づいた。明美社長は本当に狡猾で、絶対に断らない相手を選びますからね。
きっと俺たちは弱すぎたんだ。守るべき者がいるのに闘おうとしなかった。でも、全てを失って初めて決心したんです。…強くなろうと。手始めに番匠さんを救おうと思い、包丁持参で飛び込みました。でも、もちろん刺すつもりなんか無くて脅すだけの予定だったのに、こんなことになってしまった。本当にもう何とお詫びすれば良いのか…誠に申し訳ありません」
…結局俺は10日程度で退院し、
何もかも有耶無耶のまま職場復帰する。
不思議なほど誰もその件については触れて来なくて。後日、山尾さんからの電話ですべて明美社長の父親が丸く収めたのだと教えられた。業界最大手の食品グループ会長でもあるその人が、ウチの社長に直接、話をつけたのだと。
>番匠光正は
>病気療養のために暫く休んだ。
そう周知され、それ以外のことは本人に訊くなと緘口令が敷かれたらしい。
「…え、福岡支社に異動ですか?」
「ああ、急で悪いがな」
部長からそのことを告げられたのは、退院してから数日後で。事情を知っているのか知らないのか、ふてぶてしい表情で部長はこうも言った。
「心機一転、頑張れよ。何もかもリセットすると思ってさ」
「は…い」
ああ、そうか。
全てやり直せるんだ。
次は、間違えないでおこう。
自分を偽りながら生きて結局は歪んでしまうのならば、不器用でも素の自分で生きて、ぶつかってみようと。
この時の俺はまだ、雅に会う気にはなれなかった。正直に話すべきか、それとも言わない方が彼女にとっては幸せなのか。迷って、迷って、迷い過ぎて。そしていつの間にか出発の日を迎えてしまったのだ。
新幹線の中でゆっくり彼女との出会いを思い返す。愛想笑いすら浮かべず、むしろ怒ってるみたいな表情で俺を真っ直ぐ見つめていたっけ。…ふふ、怖かったなあ、あの顔。それがいつしか俺を見るたび嬉しそうに微笑んで。その笑顔が見たくて優しくした。
こんなに誰かを好きになることは、
きっともう無いだろう。
ごめん、雅。
ちょっとだけキミと離れるよ。
でも、落ち着いたら会いに行くから。
…ほんの少しのつもりだったのに、慣れない仕事に忙殺されて彼女に電話を掛けたのは1カ月後となり。着信拒否されていることにようやく気付いた。翌月、休みを取得して東京へ向かったが既に雅は引っ越していて。
呆気なく、
本当に呆気なく2人の関係は終わった。
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