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いち

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 武流タケルとは幼馴染だった。

 何でも話せて、どこへ行くのも一緒で、いつまでもこのままだと思ったのに。



「あのさあ、俺ら、付き合ってみる?」
「え?!ああ…うんっ」


 …なぜあの時、そう答えてしまったのか。

 幼馴染からカレカノへとランクアップした結果、言えないことが増え、2人でいると揶揄われるようになり、ギクシャクし始めて。

 わずか1カ月で私達はその関係を解消した。


 >唯のヤツ、付き合い出した途端
 >俺のことを意識しやがってさあ、
 >“オンナ”を見せてきやがんの。
 >それが気色悪くってな。


 放課後の教室で武流がそう言いながら男友達と大爆笑する姿を見てしまい。…いま思えば、照れ隠しだったのかもしれないが。しかし当時14歳だった私に、そんな心理が理解出来るはずも無く。更に追い討ちをかけるかの如く、母が娘の初交際について訊きたがり。別れたことを言い出せなかった私は、離婚したばかりの啓太くんの所へ逃げた。

 全然その重さは違うのだが、なぜかあの頃の私は離婚と失恋を同じレベルだと思っていて。この胸の痛みを分かってくれるのは啓太くんしかいないと信じていたのだ。20歳年上のバツイチ男の家へ、女子中学生が1人で遊びに行く。それが許されたのは、啓太くんという人がとにかくモテモテで。中学生に手を出す必要が無かったことと、私が小さい頃から面倒を見てくれていたこと、そして啓太くんにとって私はそういう対象では無いと誰もが知っていたからであろう。

 母は私を止めようともせずに、むしろ差し入れを持たせてくれたほどで。たぶん離婚直後でかなり荒れた生活を送っていた可愛い後輩を、これまた可愛い娘の力で立ち直らせようと企んでいたのだろう。母の目論見どおりに口うるさい私のお陰で部屋は片付けられ、ボサボサだった髪やボーボーだった髭もきちんと整えられて、みるみるうちに啓太くんは復活した。

 私の方も、愚痴を言いまくったお陰で表面上は立ち直ったかに思えたが、武流の言葉がトラウマになっている様でなかなか恋愛関係は上手くいかず。高2の秋に3人目の彼氏と別れる。

 2人目の彼氏は、高校に入学してスグに付き合い出した。向こうから告白されてOKしたのだが、その時の私はこう考えたのだ。武流の時は『元気イッパイの私』を知られていたせいでダメになったけど、別の中学に通っていたこの人ならギャップに気付くことも無いだろうと。だから最初からオンナを丸出しにして、素の自分を封印した。

 男ウケする話し方で
 男ウケする言葉を選び、
 男ウケする仕草をして頑張ったのだが。

 ある日突然、そんな自分がイヤになる。どうにか別れを切り出したところ、向こうも『実は一緒にいると疲れた』と。これもいま思えば負け惜しみ的な発言だったのだろうが、16歳の私はそれをそのまま受け取って更なるトラウマを抱えることになる。

 そんなことならもう誰とも付き合わなければ良いだけなのに、残念ながら私はモテた。それもえげつないモテっぷりだ。フリーでいると他の女子達から『彼氏を作ってくれなければ困る』などと意味不明な苦情を受けたため、仕方なく3人目の彼氏へと突入だ。この人はとてもラクな人だったが、私と付き合い出したことを機に仲の良かった女友達から告白され、その熱い想いに絆されたとかで。呆気なく私を捨てて、そちらへ行ってしまった。

 それから暫くして大学進学を機に、武流が私に『会いたい』と。共通の友人経由で連絡が来て、ウチの近所の公園で待ち合わせることに。ベンチに並んで座った途端、ペットボトルのミルクティーを渡された。昔いつも飲んでいた銘柄をどうやら覚えていてくれたらしく、彼はブラックの缶コーヒーを飲んでいて。火傷しそうなほど熱い目で私を見詰め、そしてこう言ったのだ。

 あの頃は幼すぎて上手くいかなかったが、今なら大丈夫だと思うと。別れてからもずっと私のことを想い続け、忘れることが出来なかったのだと。

「やっぱり俺は唯しかダメなんだ。頼むからもう一度チャンスをくれないか」

 その熱意に負けた私は適当すぎた過去の恋愛を深く反省し、『はい』と即答する。いま考えると、これが間違いだった。中学以来ロクに会っていなかった男と再会していきなり付き合い出す…わずか数年の間で外見が変わった様に、その中身も変わってしまっていたのに、そんなことにすら気付けなかったのだ。

 聞くところに寄ると男は恋を新規保存しか出来ず、女は恋を上書き保存しか出来ないらしい。つまり私の中で武流は14歳のままで止まっていて、その続きから始めようとしていたのに武流の中で私は既にリセット済みで、新たな関係を築こうとしていたのである。

「バイトなんて必要無いだろ?!それならもっと俺との時間を作ってくれ」
「えっ、だって親には高い授業料を払って貰ってるんだもん。せめて自分の遊ぶお金くらいは自分で稼がなくちゃ」

 本当のことを言うと、私は家族に遠慮していた。いつも面倒を見てくれた優しいミツくん。彼がお義父さんになってくれたけれど、何だかんだ言って私は他の男の娘なのだ。一生懸命働いたお金を、他人の血が半分流れた娘の為に使う。それはきっと、あまり気分の良いものでは無いだろうと。

 8歳下の妹が生まれてからその考えは更に強くなり、私は両親の前で演じることを覚えた。明るくて、皆んなの人気者で、気遣いも出来るという自慢の娘を。その正体はいつもウジウジと悩み、人から好かれることばかりを求め、本当の自分が分からなくなっている中身カラッポのダメ人間。

 そんな私が唯一、心を許せたのが啓太くんだったのだ。



「あーっ、もう啓太くん?!掃除してあげたの3日前だよ。なんでまたこんなに散らかってるのッ」
「それはだな、夜中に泥棒が入ってさ、そいつがグチャグチャにしてったんだよ」

「んじゃあ警察に電話しないと。犯人を早く捕まえて貰わなくちゃ!」
「嘘に決まってんだろ、信じるなよ」

「そんなの嘘だと分かって言ってますう」
「うわ、今の顔ブサイク~」

「はあっ?!私、超カワイイもん!!」
「ははっ、自分で言ってりゃ世話無いし」

 昔から女にだらしなかった啓太くんは離婚以降さすがに落ち着いたものの、それでも定期的に彼女はいるらしく。その彼女も自宅に連れ込むことは無かったので、合鍵を貰っていた私はいつでも自由に出入りしていた。啓太くんは私にとってのオアシスで、愚痴も言えたし、素の自分も見せられたし、私が甘えることが出来る唯一の大人…そんな存在だったのだと思う。

 異性として意識したことは無く、むしろこんな男に騙される女は頭が悪いとまで言っていたほどで。もちろん武流のことは好きだったから、彼の求める理想の彼女になろうと努力し、再三の要求に従い、バイトだって辞めた。

 …なのに。

「唯、お前なに考えてるんだよッ。あんなオッサンの家に通い続けて、それで金でも貰ってんのか?!…マジでキモイんだけど」

 付き合って3カ月が経過した頃、武流が私の後をつけたらしい。一方的にそう批難された挙句に啓太くんと会うことを禁じられ、私の中で何かがキレた。

「キモくないよッ。啓太くんと私はそんな関係じゃ無い!やだ、私は誰が何と言っても絶対に啓太くんと会い続けるんだから。だって、もし啓太くんに会わないと…会えなくなったら、私は死んじゃうッ!」

 そんな言い分が通用するワケも無く。

 世間一般の常識で考えると、彼氏がいながら他の男の元へ通う女は責められて当然で。しかもその相手が20も年上となると、色々と邪推されても仕方なかったのだ。愛情は容易く憎しみへと裏返り、その熱量もイコールで結ばれるらしく、武流は激しく私に怒りをぶつけ出す。

「ふざけんなよッ!このクソ女が。皆んなにこのことをバラしてやるからな」

 その予告通りに彼は実行し、翌日にはもう周囲に知れ渡っており。どこから聞きつけたのか、母からも忠告を受けることとなる。

「唯、今までは黙っておいてあげたけど、やっぱりここが限界かもしれないね。もう森嶋くんと会うのは止めなさい。アナタは年頃の娘なんだから、この先、素敵な男性と出会って結婚するだろうし。ねえ、考えてみたことは有る?森嶋くんが結婚出来ないのは、もしかしたら唯のせいかもしれないんだよ。

 せっかく新しい彼女が出来て親密な関係になろうと思っても、いつも自宅には唯が押し掛けているでしょう?彼は優しいから唯に『来るな』と言えず、彼女との関係をぎこちなくさせてしまったのかもしれない。唯、アナタが森嶋くんの足枷になっていつまでも1人にさせてしまったなら、もうここで彼を解放してあげないと」

 …何も言い返せなかった。

 子供だった私は、ただ楽しい方へと流れていただけで先のことなど何も考えていなかったのだ。啓太くんにも未来が有って、もしかして新しい家庭を作るかもと。両親という身近な例を知っているクセに、それを敢えて見ないフリをしていた。

「分かったよ、お母さん。もう啓太くんとは会わないようにする」

 それは私にとって死刑宣告に近かったが、父が亡くなった時のように時間が解決することも知っていたので、その足で啓太くんにもう会わないと告げに行く。

「…ったく面倒臭いよねえ、何でもかんでも恋愛に繋げようとしてさ。そうじゃない人間も世の中にはいるのに」
「うーん、でもまあ、仕方ないよ。ほら、唯ももう子供じゃなくなったし」

 何となく気まずくて、相変わらず散らかったその部屋を片付けながら私は一方的に喋りまくった。すると…。

「痛っ!ああ、もうっ。どうしてここに切った爪が落ちてるの?踏んじゃったじゃない!!」
「わあ、唯、大丈夫か?!」

 靴下を脱いで座り込んだ私の足を、啓太くんは自分の膝に乗せ優しく撫でる。そしてスカートから覗く太腿を一瞬見て、驚くほど真っ赤に頬を染めたのである。いつもなら笑って済ます場面のはずが、どうしても笑うことが出来なくて。ふと、心の奥がジリジリと焦れるような、もどかしいような不思議な感情に気付く。


 その感情が何かも分からないまま、
 私達は距離を置くことになってしまった。

 
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