リアル円高・仮想円安

蓮實長治

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リアル円高・仮想円安

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「おや、盆休みは取り止めかね?」
 8月中旬の月曜の朝、出社した途端、課長にそう言われた。
「ええ、課長に言われた通りでしたね……。帰省するなんて無理ですよ。リアル円と仮想円の交換レートが1:3って、どう云う事ですか?」
「その差が有るから……ウチの会社は儲けられるんだよ」

 私が就活を始めた時……大学新卒の求人は……最悪だった。
 しかも、男尊女卑的な価値観がまだ残っていた頃で……理系とは言え修士号持ちの女は敬遠される傾向が有った。
 だが、その頃、偶然にも、ある企業が、国内のある島……と言っても、島内に複数の市町村が有り、「本土」への交通の便にも恵まれている場所を一大産業地域にする計画を持ち上げた。
 国外への輸出も見越した有機栽培の高級農産物や餌さえも国産の和牛や銘柄豚・銘柄鶏。
 家電から精密機器までを生産する工場群。
 銀行や携帯電話運営会社や通販サイト運営会社の本社機能に、巨大データセンターやIT/SI企業。
 一次産業から三次産業までが1つの島に揃う事になった。
 私は、その企業……と言うか企業群が大々的に行なっていた求人に応募し……採用された……。
 しかし……就職出来れば良い、と思っていたせいで、大事な事を見落していた。
 初任給の表記が……「□十万円相当」と云う奇妙なモノだった事を……。

 社員寮に入ると同時に、奇妙なカードを渡された。
 従業員のIDカードとクレジットカードの機能の両方を持つカードだ……。
 どうやら、給与も、このカードに振り込まれるらしい。
 ただし……このカードの残額や使用可能枠の単位は……島の外で使われる「円」ではなく、「VY」……「Virtual Yen」の略称らしい……と呼ばれる仮想通貨だった。

 大概のモノは、島内でIDカードを兼ねたクレジットカードで買う事が出来た。
 家電製品を買う際は社員割引が使え、食事は、三食、社員食堂や社員寮で提供され、携帯電話は島内に本社が有る会社のものを、これまた社員割引で割安に使えた。
 下手をしたら、「外」の新卒社員に比べて豊かな生活だ。
 ただ……不審な点も有った。
 書籍類は……島の中には紙の本を売っている本屋は無く、これまた社員割引で安く買える電子書籍リーダーによる電子版しか島内では入手出来なかった。紙の新聞や雑誌も売っておらず、どうしても、読みたい新聞・雑誌が有る場合は、その新聞・雑誌のサイトに有料登録するしか無かった。
 そして……「外」に出張した時には、公共交通機関の切符やホテルの予約も全て、会社側で手配してくれて、諸費用は会社のIDを兼ねたクレジット・カードで支払う事になったのだが……後で明細を見て見ると……記憶よりも高い金額が請求されていた。

 やがて……新人研修期間も終り、職場に配属され……季節は夏になった。
「夏休みは取るのか?」
 7月の終りには、課長から、そう聞かれた。
「ええ……実家に帰省するつもりですが……」
「それ……難しいんじゃないかな?」
「えっ?」
 その理由は……帰省の準備を始めてから判った。
 IDカード兼用のクレジットカードの使用可能金額の一部を「外」で使われている「円」として引き出す事は出来る……しかし……極端な「『リアル円』高・『仮想円』安」だったのだ……。
 実家までの交通費、「外」で外食をした場合の食費……それらを計算してみたら……給料の1ヶ月分が吹き飛びかねない。この島では「そこそこの暮しが出来る1ヶ月分の給料」を「外」で使われている「リアル円」に交換したら……「それが1ヶ月分の収入ならば、役所に生活保護申請に行くべき金額」にしかならないのだ。

「例えばさ……円安ドル高だと、輸出産業が儲かる訳だよね」
 課長は、私に、そう説明した。
「ええ、一般的にはそうですね」
「で……日本国内に『円とは違う通貨が使われていて、その通貨が円に比べると安い』地域をわざと作ったら、どうなると思う?」
「えっ……まさか……」
「そう云う事。この島で作った食べ物も……工業製品も……ソフト開発の下請も……『外』から見ると安い値段で『輸出』する事が出来るんだよ」
「そ……そんな……馬鹿な……。じゃあ……この島で仕事をしている人間が『外』に旅行に行ったりすると……」
「うん……物価も安いが収入も低い国に住んでる人間が、物価の高い国に海外旅行に行くようなモノだね」
「な……なんか……おかしいですよ……」
「いや、例えば、水力発電がダムと発電所の間に高低差を電力に変えるモノであるように……『物価が安い代りに住んでる人間の収入も低い地域』と『物価が高い地域』が有れば……その間の『差』を企業の利益に変える事は可能だ。そして、我々は、一見すると収入が低いように見えるけど……物価も安いんで、そこそこの暮しが出来る……」
「そんなビジネス・モデル、いつかは破綻しますよ」
「大丈夫だよ……。この頑丈な『日本社会』と云う『ダム』が『決壊する』事は、そうそう無い」

 そして、5年が過ぎた。
 私が、居住し、仕事をして、生活をおくっている「島」のような地域は、日本各地に生まれていた。
 日本をわざと2つの地域……大都市圏を中心とした、これまで通り「円」を通貨として使う、物価の高い「通常地域」と、仮想円を通貨として使う、物価が安いが、収入もそれなりの「産業特区」に分ける事で、その2つの地域の「経済的エネルギー準位の差」から、まるで無から有を生み出すように、経済的利益を上げ続けられるだろう……この社会状況が大きく変らない限りは……と云う、何かが明らかにおかしいが、どこがおかしいか、経済学の知識が無い私には、巧く指摘出来ないような事を、少なからぬ経済学者が大真面目に主張するようになっていた。
 だが……全ての土台を引っくり返す「大きな社会的変化」は、あっさり起きてしまった。
 富士山の歴史的大噴火によって、「通常地域」の代表である「3大都市圏」の内の2つ……首都圏と名古屋が消え去ったのだ。
 ……そして……この「島」で始まったビジネス・モデルは、人間社会の都合など何も考慮してくれない自然現象のせいで、簡単に崩れ去った。
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