インラグドシィル(ニシンの酢漬け)

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第1話 シベリウスとインラグドシィル(ニシンの酢漬け)

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プロローグ



「インラグドシィルってね、ニシンの酢漬けなんです。

私の国、スウェーデンでは、クリスマスやイースターなどお祝い事の日に、

グレッドフィールというクリームと一緒にニシンの酢漬けを食べる習慣があるの。

マリネにしたり、パンに挟んだりしてね。でも、

この子はちょっとかわってる。ニシンしか食べない。

それもこの3か月、毎日、朝昼夜、ニシンだけ。


まるで水族園のペンギンみたいでしょ」

そう言って、サラはとても上品に微笑んだ。サラは微笑むと右のほほに、とてもチャーミングなえくぼができた。






第一章 1991年の12月。


俺は小西ユウキ。22歳の大学生だ。

その日俺は、友人の佐伯豊に呼び出されて、行きつけのバー「木馬」にいた。

アンティークなつくりの落ち着いたバーだ。

たしか季節は12月だったと思う。雪こそ降らないが、身体の芯まで凍えるような寒い夜だった。

1991年の12月。日付なんて大した意味もない。




豊は俺の方を見て言った。

「ユウキ、旅にでも行かないか?」

そう言い終わると、新しいビールを一気に飲み干した。

「どこに行くんだ?」

俺は答えた。

「どっか遠いとこがいいな」

「念のため聞くけど、その旅行、今さっき思いついたのだろ」

豊は答えなかった。

その後、俺たちは黙ったまま、ビールを飲んだ。






ふと美しいクラシック音楽の旋律が聞こえてきた。

振り返ると、

店の入り口近くに据え付けられたテレビに、音楽にのせて、美しい緑の森の映像が流れていた。

「フィンランドの国民的作曲家、シベリウスの交響曲第二番」

豊は呟いた。俺たちしばらく映像を見ていた。静かな良い曲だ。

俺にはそれくらいしかわからない。

「ユウキ、フィンランドはどうだろうか」

豊は静かに言った。

「いいよ、フィンランド」

俺は、フィンランドの事もシベリウスにこともよく知らないまま頷いた。





フィンランドは、西にスウェーデン、北にノルウェー、東にロシア連邦、

海を挟んで南にエストニアと国境を接する共和制国家で、

シベリウスは、フィンランドの国民的作曲家。

日本ではムーミンの作者、児童文学家トーベ・ヤンソンの国、

そしてサンタクロースの村、ロヴァニエミ村があることで知られている。




豊と俺はビールを飲んでいた。

店にいる客は豊と俺だけだ。

豊はさっきからクロスワードパズルの本を開いている。

俺はポテトサラダをつまみながらテレビを見ていた。

テレビはずっと海外のニュースを流している。

冬季オリンピック、湾岸戦争、レーシングカーの有望な新人・・。

どれも遠い国の話で自分には関係ないから安心して見ていられる。


 

豊は真夏でも真冬でも必ずビールだ。

「今からこの店に知り合いが来る。

俺だけでは不安だから、ユウキ一緒にいて欲しい」

オーケストラでコントラバスを弾いている、背の高いがっちりとした体格の佐伯豊は、

いつに無く弱気なことを言った。





豊は大阪出身の大学生で、

俺より1学年上だけど年齢は22歳で俺と同じという男だ。

高校は大阪では知られた進学校に通っていた。

高校時代から成績優秀、身なりも清潔で、クラシック音楽に詳しい、とにかく非の打ち所のない男、

と言うのが本人の弁だ。






逆に俺は、高校時代からどのグループにも属さず、大学には入学してからも、

ファーストフード店でアルバイトする以外は部屋で本を読んだり、音楽を聞いたりする、

どちらかと言えば内向的な人間だ。昔から人と話すのが苦手だった。




俺と豊は同じ大学に通っている。

豊は現役で大学に行き、俺は1年間余計に勉強して大学生になり、

どうゆう成り行きか大学のキャンパスではなく、この「木馬」のカウンターで知り合ったのだ。

豊と俺は交友関係も、性格も全く違うのだが、俺はなぜか、

この店で豊とビールを飲んでる時だけは、素直にいろんな事を話すことができた。




不意に店に電話のベルがなった。

女将が電話をとり短いやりとりの後、受話器を置いた。

そして豊の方を見て口を開いた。

「豊さん、お連れ様、今夜は用事でこれなくなったそうです」

豊は脱力した。

俺はなんとなくほっとした。

女将は何も言わず、俺と豊の前に新しいビールを置いた。




第二章 1992年2月3日 
 
私は清水カヨ、25歳。

1992年2月3日のお昼前に、

私の乗った飛行機は、フィンランドの首都、ヘルシンキの空港に到着した。

その日、ヘルシンキは雪だった。




ホテルオリンピアのカーテンを開けると真下にスケートリンクが見える。

色とりどりのウエアを着た子供がアイスホッケーをして遊んでいる。

私は、足にぴったりのブルージーンズを履いて、Tシャツの上から厚手のパーカーをかぶった。

机にはホテルの備え付けの手紙の便箋。昨夜から一行も書けていない。

しかしそれでいい。

自分の中身を空っぽにするために、ここまで来たのだから。

私は万年筆を片付けて鏡を見た。





鏡に映った無表情の自分の顔に幻滅する。

無理して口角を上げて笑顔を作ってみるが、さして変わらない。

それでも笑顔の方がいいに決まっている。

心を空っぽにして本当に笑える日は来るのだろうか。





朝食のために一階のレストランに行くと、ドアの向こうから歓声が聞こえてくる。

テレビの前に人だかりができていて、

五輪が描かれたジャンプ台でジャンプ競技の選手がスタートを待っている。

選手がジャンプ台を踏み切り、空に舞い上がると、大きな歓声が上がった。

オリンピックが開催中だなんてちっとも知らなかった。





レストランでは、パンや魚などが、大きなお皿に置いてあって、

どうやら食べ物を自分でお皿に取り分けて自由に食べるシステムらしい。

日本で言う、“バイキングスタイル”だ。



 
このドロリとした魚は、きっとガイドブックに書いてあったニシンの酢漬けだろう。

苦手な魚はパスだ。野菜や果物はあまり置いてない。

パンや、卵など好き嫌いの多い私でも食べることができる、お馴染みの食べ物を取り分ける。




私は、トレーを手に取り、綺麗に並べられたお皿をそこに置いて、食べ物を乗せていった。

小さなパンを一切れ、スクランブルエッグを少し。




10人は座れるであろう、大きな、ぶ厚い木製のテーブルに料理を置いて、

私は席に座ったけれど、あまり食欲はない。

この量でも食べ切れるか心配なくらいだ。




スクランブルエッグをフォークに乗せて口に入れ、ゆっくりと噛んでみる。

まるで味がしない。このところ食べ物がまるで美味しく感じない。

これは食べ物のせいではなくて、私のせいだ。




ふと顔を上げると大きな透明なポットに紫色のぶどうジュースが用意されているのに気がついた。

ずっと食欲がなかったのに、思いがけず喉の奥がごくりと鳴った。

紫の色彩がとても美しくて自分の舌や喉、そして細胞までがそれを確かに求めていることに気がついた。

遠い子供時代に飲んだ、ぶどうジュースの幸せな甘い舌触りが思い出された。




よく磨かれた透明なグラスを一つ手に取って、ぶどうジュースをグラスになみなみと注いだあと、

背筋をぴんと伸ばして、こぼれないように両手でしっかりと持って、慎重に席まで戻った。





テレビを見ている人たちから、わっと歓声が上がる。

きっとフィンランドの選手が出ているだろと想像しながら、ちらりとテレビに視線を移してみると、

テレビではオリンピックのジャンプ競技が続いていた。

おじさんたちのすごい熱気をしりめに、

ようやく私はテーブルにグラスを置いて静かに座について、無事にグラスを運べたことに安堵した。





私は恭しく、両手でグラスを持ち、目の高さまで上げてグラスに入ったぶどうジュースを眺めてみた。

グラスに反射している歪んだ自分の姿の向こうに過ぎてしまった懐かしい時間が見えるような気がした。

私は、一気にぶどうジュースのグラスに口をつけた。

こぼれ落ちた冷たいぶどうジュースが首をつたって胸の中にまで入り込んでくるけれど、

構わず私は最後一滴までぶどうジュースを飲み干した。





ちょうど高校時代の真夏の日、運動クラブが終わった後、

からからの喉に一気にジュースを流し込んだ時みたいに。

懐かしい気持ちと寂しい気持ちが半分ずつ湧き上がってきて、

やがて懐かしい思い出は、苦しい記憶に繋がっていき、

気がつくと私はうずくまって思い切り咳き込んでいた。





咳が止まっても、とても長い時間、私はうずくまっていた。

まだ生々しく切り裂かれた心の傷口が、それ以上開かないようにするには、

ただうずくまって動かないでいるしか私には方法が見当たらなかったから。






しばらくして、私は、背中を優しくさすってくれている、あたたかい手の平の感触を感じた。

「大丈夫ですか?」

後ろから女性の声がした。

ちょっとむせただけですから」

ようやく落ち着きを取り戻して振り返ると、

輝くような金色の髪をした若い女性が、心配そうに私の背中をさすってくれていた。





女性の足下に天使のように美しい小さな男の子が、少し緊張した表情で女性の手を一生懸命掴んでいる。

男の子もやっぱり金色の髪をしていた。

年齢は4歳くらいだろうか、

きっとお母さんと旅行か何かでこのホテルに泊まったのだろう。





「ありがとうございます。助かりました」

 私はナプキンで口元のぶどうジュースを拭いてからテーブルに行儀良く座破り直してから礼を言った。

「どういたしまして」

彼女は私の顔を覗き込みながら、綺麗な日本語で言った。





女性の深いみず色の瞳と目があった瞬間、自分の心臓がどきりと音を立てるのが聴こえた気がした。

「お隣の席、座っても良いですか?」

私よりずっと美しい日本語だ。

「はい、いいですよ、どうぞ」

私は、精一杯の笑顔をこしらえて答えた。

ガイドブックの会話例のような返事をした自分に少し笑えた。





彼女の日本語はとても上手だったけれど、それ以上に彼女はとても美しい声をしていた。

私は彼女の声の響きに魅了された。

「ありがとう。わたしはサラ、この子は息子のレニです。

私、スウェーデンの大学で日本語の学科にいたので、少しだけ日本語、話せるのです」

サラはそう言った。

「私は、清水カヨです」

私も自己紹介をした。





サラは、息子のレニを、私のすぐ隣の席に座らせてから、朝食をとりに立ち上がった。

レニは、ポケットから緑色をしたレーシングカーのおもちゃを出して、

短い金髪をゆらしながら一人遊びをしている。

とても可愛いい。まるで天使のよう。

この年齢の子供はみんな特別な何か、神秘的な力を持っているように思う。

大人が思いつきもしない突飛なことを始めたり、どきりとするような核心を突く事を言ったり。

しかしごく一部の子をのぞき、その力はやがて失われていく。

私の息子もかつてそうだった。





しばらくして、サラが、ドロリとした食べ物をお皿に乗せてやってきた。

「レニ」

サラが声をかけると、レニはレーシングカーをポケットにしまい、

両手をテーブルについて、跳ねるようにに立ち上がった。

「インラグドシィル!」

「?」

思わず私が聞き返すと、

サラは、私を見てインラグドシィルの説明をしてくれた。




「インラグドシィルってね、ニシンの酢漬けなんです。

私の国、スウェーデンでは、クリスマスやイースターなどお祝い事の日に、

グレッドフィールというクリームと一緒にニシンの酢漬けを食べる習慣があるの。

マリネにしたり、パンに挟んだりしてね。でも、

この子はちょっとかわってる。ニシンしか食べない。

それもこの3か月、毎日、朝昼夜、ニシンだけ。まるで水族園のペンギンみたいでしょ」

そう言って、サラはとても上品に微笑んだ。サラは微笑むと右のほほに、とてもチャーミングなえくぼができた。





私が、レニが食べる様子をじっと見ていると、

レニはニシンの酢漬けを一枚、私の皿にくれた。


「ごめんなさい・・」

サラは、なぜか申し訳なさそうに言った。

「大丈夫です。ありがとう」

私はニシンを口に入れた。酸っぱい。

酸っぱいし、口あたりはドロドロだし、正直吐きそうだ。






私は、ぶどうジュースでニシンの酢漬けを喉に流し込んだ。

そもそも私は、魚そのものが苦手なたちなのだ。

「ごめんなさいね・・」

サラは私に謝った。


そして、慌ててコーヒーコーナーに行き、

コーヒーポットからコーヒーをカップに注いで、私の前に置いてくれた。

ほんのりとコーヒの香がする。しかし私はコーヒーも飲めなかった。





「コーヒー苦手なんです・・」

私はにこやかに言ったつもりだったけれど、今度はうまく笑えなかった。

そもそも、たとえコーヒーが苦手だったとしても

そんなこと言う必要はないじゃないか、我慢して飲めばいいだけの話だ。

私は、自分の無神経さが嫌になった。

「ごめんなさい・・」

サラはもう一度謝った。

サラにかえって気を使わせてしまったことが悔やまれた。




レニはずっとニシンの酢漬けを食べている。

私の口にはまだニシンの味が残っている。

サラは少し困った顔つきで私をみた。






「ごめんなさい、迷惑だったよね」

私は慌てて否定した。

「そんなことないです」

「私はね、いつもこうなの。一つのことがうまくいったら、

どこかでもっと大きな失敗をしでかす。

生まれてからそんな事ばっかり、話しかけてごめんなさい」

「いいえ、初めての海外旅行でとても心細かった。日本語で話しかけられてすごく嬉しかったです」






オリンピック観戦をしているおじさんたちから歓声が上がる。

今度は私から話を始めた。

「昨日、ヘルシンキの空港に着いたばかりですけれど、

フィンランドはとても心地よい国ですね」



「そうね、私も学生の時、フィンランドを旅行したことがあって、

子供が生まれてからまた来たくなったの。

学生時代バイオリンを弾いていて・・ここは作曲家シベリウスの国だから」




サラはにっこり微笑んだ。頬に可愛らしいえくぼができる。

「あなたはどうしてフィンランドに来たの?」

サラの質問に、私は少し困った。

「私は、特に理由なんてないんです。ちょっと旅に出たかっただけ・・」





私は嘘をついた。





「そう。まるでムーミンに出てくる、スナフキンみたいね。

あなたと会えたのは、幸運。ワンス、イン、ア、ライフタイム、チャンス」

サラは、日本でもよく知られたムーミンの登場人物、

旅を続けるスナフキンに私に喩えた。

スナフキンは私も好きなキャラクターだ。

しかし私はその名前にふさわしい人間ではない、私は否定したい気分になった。






またおじさんたちから歓声が上がった。

振り返ってテレビを見てみると日本人の選手がスキーを履いて一生懸命森の中を走っている。

こぶしを握って私の知らない言葉で日本人の選手に声援を送っているおじさんたちを見て、


私はなんだか嬉しかった。





そのうち、レニの食事が終わった。

「私たちは、今から列車で北のロヴァニエミという村に行きます。

サンタクロースに会いにいくの。

この子に本物のサンタクロースに会わせてあげたくて。

もうわたしはサンタクロースを信じることができないから・・

あなたと話せてよかった。良いご旅行を」

サラは、小さくお辞儀をした。






私が、お腹の前あたりで小さく手を振ると、

レニは振っている私の人差し指を小さな手で捕まえてぎゅっと掴んだ。




なんだかとても懐かしい暖かさがレニの手から伝わってくる。

レニが、サラの耳元に顔を近づけて何か言っているのを、サラが通訳してくれた。




「『お姉ちゃんが幸せでありますように』だって、おしゃまさんねえ」

ようやくレニが私の指から手を離したので、サラは私に手を振りながら、

レニの手を引いてレストランを出て行った。




オリンピック中継も一区切りついたようだ。

おじさんたちが次々に席を立ち上がりレストランを出ていく。おそらく家に帰るのだろう。

おじさんの一人が、笑顔で私に近づいてきてテレビの方を指で差しながら、

私にウインクをして言った。

「いちばーん」

 テレビの画面をみると表彰台の中央に日本の国旗をつけた選手がメダルを、

掛けられている映像が流れている。気がつくと私は自然と微笑んでいた。






サラとレニが行ってしまい、おじさん達が帰った後の静まりかえったレストランで、

私は再びきちんとテーブルに座ってスクランブルエッグをくちに運んだ。

さっきまでの出来事がまるでまぼろしみたいに思えてきた。た

だ、コーヒーの香りだけが、魔法のように残っていた。








第3章 1992年2月1日



俺は小西ユウキ。1992年2月1日。

俺は友達の佐伯豊とフィンランド行きの飛行機の中にいた。

豊は隣でぐっすり眠っていたが、

俺は初めての海外旅行で、

パスポートとトラベラーズチェックを握りしめて一睡もできないでいた。

時々後ろの座席の人が俺のシートを足で踏みつける。

俺はその度、緊張で身体が強張る。もちろん後ろを見る勇気はない。







時々横を通る客室乗務員はエプロン姿の大柄のおばちゃんばかりで、若い女性はいない。

しかし、今の俺には、おばちゃんの方が不思議と安心に思えた。

3分ごとに右手に巻いた腕時計を確認して、少しでも早く地上に戻りたいと願った。

やっと十時間は経っただろうか。

「時差があるから、時計七時間戻しとけよ」

隣で豊が言った。時計の針を七時間もどす。





機長の落ち着いた声で、英語のアナウンスが聞こえてきた。

もちろん意味はわからない。

それでも、もうすぐ目的地、ヘルシンキにつく。それはなんとなくわかった。

飛行機が高度を下げ始め。目の前のモニターに目的地の地図が出た。

窓を覗くと、はるか下に霧のかかった真っ白な大地が少しずつ輪郭をあらわしてきた。

日本とはまるで違う雪に覆われた白い土地だ。





客室乗務員が通路を歩いて客のシートベルトを確認してまわっている。

着陸を迎えてさらにガチガチに緊張している俺の隣に客室乗務員の一人がやって来て言った。

「ハロー、おはようございます。あと20分でヘルシンキ空港に到着します。大丈夫ですよ」

笑顔が嬉しかった。

その言葉通り、飛行機は特に劇的なこと何もなく、

長い滑走路に、ほとんどいつ着陸したか分からないくらいスムーズに降りて、

あっという間に停止した。窓から見える景色は霧と雪で遮られて良く見えないけれど、

B M Wの巨大な看板が見えて少し安心した。





シートベルトのサインが消えて、機内の電灯がつくと皆が席を立ち上がり飛行機から降りる準備を始め出した。

気がつくと豊はとても手慣れた様子で頭上の手荷物ボックスを開けて荷物を引っ張り出している。

荷物を取り出すのに手間取っている七十代くらいのご夫婦に、

豊は笑いながら英語で話しかけて当たり前の様に渡して

いる。

その場に笑顔が溢れて俺は気分が幾分和らいできた。

俺は座席を立って、ちらりと後ろの席を見てみると、

俺のシートを蹴っていたのはグレーのニット帽を深くかぶった小柄な女性だとわかった。

俺が自分のシートをうしろに深く倒していたので、彼女は狭い空間に閉じこめられるように座っていたのだ。

俺は謝ることもできないで、なんだかきまりが悪くて、手荷物を抱えて逃げるように飛行機の外に出た。





税関を通り、大きなリュックを担いで、俺は生まれて初めて知らない国に立っていた。

低い雲から冷たい雪が絶え間なく降っている。

寒さで皮膚が痛い。今まで経験したどんな種類の寒さとも違う寒さだった。

本当に身体が芯から凍るとはこの事だと思った。

しかし旅は始まったばかりだ。今から俺たちは、予約しているホテルを探さないといけない。





第四章 ホテルオリンピア 


私は清水カヨ。

遅めの朝食を終えて部屋に戻った私は、

急いでパスポート、財布、列車のパス、帰りの飛行機チケットを確認してから、

スーツケースの中に手当たり次第荷物を放り込んで、

ハンガーに掛けていた緑の分厚いジャケットの袖を通してボタンをぴっちりと閉めて鏡の前に立った。

「とりあえずこれだけ無事ならなんとかなる」

私は急に行きたい場所を思いついたのだ。

そう思うとじっとなんてしていれなくなった。一歩前に進もうと思った。






すっかり荷づくりを終え、がらんとした部屋を見渡して、

フィンランドについた最初の夜を無事に過ごせたことに感謝した。

実際ホテルは申し分なかった。

ホテルオリンピアに宿泊して、特に嬉しかったことを2つあげるなら、

2番目に気に入ったのは良い香りのする石鹸で、1番目がフカフカの分厚いタオルだった。

何気なくシャワーを浴びて、ちょっとスパイシーな石鹸の香りにすごく気持ちがゆったりしたのだが、

その後、手にとったタオルがすごく生地が分厚くてフカフカだったのだ。

そのタオルで顔を拭いたときの感触の良さと言ったら!

石鹸の香りは忘れてしまったが、フカフカのタオルの感触はいつまでも覚えていた。

便箋の手紙は結局書けなかったけれど、

その代わり同じ便箋に日本語で“素敵なお部屋ありがとうございました”と書いて、

小額だが比較的綺麗そうなお札を添えてテーブルに置いてから、

スーツケースを抱えて部屋を出た。お手紙見つけてくれると嬉しいな。







エレベーターで一階に降りてフロントに行くと、

長い金髪を後ろで括ったスーツ姿の中年女性が身振りを交えて英語でチェクアウトの説明をしてくれた。

ほとんど英語は理解できなかったけれど、

私はなんとか伝票に書いてある通りの金額のお金を探し出して、宿泊代を支払い、チェックアウトは終了した。

私は今から船に乗るつもりだ、と知っている限りの英語でフロント係の女性に言ってみた。

女性の表情から、どうやらうまく伝わっていないみたいだ。






私は手で船の形を作って女性に見せた。

そうすると女性も手で船を作った。今度は伝わったみたいだ。

女性は微笑みながら、ヘルシンキ発の客船のパンフレット出して渡してくれた。

私は、ポケットからメモを出して昨夜書き出していた、

フィンランド語の挨拶の言葉を探した“じゃあね”という意味らしい言葉を見つけて「モイ」と言ってみた。

女性も笑顔で「モイ」と答えた。

伝わった!私はとてもうれしかった。






私はホテルオリンピアを出て、歩いて港に向かった。


今から船でバルト海を渡るのだ。

しかし天候は不順で、みぞれ混じりの雪が横なぐりに降っている。

足元がぬかるんで一歩踏み出すたびに、靴が水分できゅっと鳴った。

手足が凍えて感覚がなくなっていく。

近くの建物に表示された温度計を見るとマイナス三度だった。

ヘルシンキでは、もしかしたら暖かいくらいなのかもしれないが、

私にとっては体験したことがない寒さだ。しかも横なぐりの雪とぬかるんだ足元のために、

靴も衣服もぐっしょりと濡れている。






ニット帽を深く被り直し、レインコートの襟をしっかりとしめて、

寒さに耐えながら足元だけをみて一歩ずつ前に進んでいくと、

いつしか潮の香りがし始めた。

顔を上げると遠くに海鳥が飛んでいる。海だ。

もう少しで港に到着する。





港に着くと、どんより茶色に濁った海にたくさんの船が浮かんでいるのが見えた。

その中にシリアラインと書かれた、ひときわ大きな客船が浮かんでいる。

寒さで意識は朦朧としていたが、私は今夜あの船に乗るのだ、と思うと

気持ちは前に向いていた。とにかく海を渡るのだ。挫けそうな自分に私はそう言い聞かせた。





第五章 ギリシア料理店


俺は小西ユウキ、

フィンランドの首都ヘルシンキに到着して、日本から予約していたホテルオリンピアにチェックインした。

予約しているホテルは一泊目だけだ。二週間の旅行だというのに無計画極まりない。

ホテルに夕食を頼んでいなかったので、どこかで飯を食わなければならない。

しかもできるだけ安価で。

俺と豊は、コートを着込んでホテルオリンピアを出た。

初めて訪れる国の見知らぬ街で、安くて安全に食事ができる場所を探すのは至難の技だ。

しかも外は太陽が沈み、あたりは真っ暗で、おまけに寒い、というよりは肌が痛い尋常ならざる状況だ。

なのに俺と豊はとても上機嫌だった。こういう気分を“無敵”というのだろうか?

「豊、どこか心当たりはないか?」

「バカやろう、ヘルシンキに行きつけなんてあるか」

 夜のヘルシンキは、果てしなく暗く人通りもない。

アスファルトの地面は凍っていて、とても滑りやすくなっていた。

俺と豊は転ばないように注意しながら、広い道に沿って歩いた。

ひたすら歩けばどこかに何かがが見つかるかもしれない。

きっとこれが大通りなのだ、などと言い合いながら、ふらふら歩いていた。

しかしいつまで歩いても明かりがついている店は見つからなかった。






寒さで口の筋肉が動かくなり、二人とも、無口だった。

ホテルでもらった市内の地図とガイドブックは持っていたが、

残念ながら俺たちは二人とも、地図やガイドブックよりも自分の感覚を優先して、結局迷子になるタイプだった。

とにかくビールが飲みたかった。

後で知った事だが、フィンランドは午後9時をすぎると、酒を飲むことが禁じられているということだ。

特に合図をしたわけでもないのに、少しよろけながらも、俺たちは同時に駆け出した。

少し先に灯りがついている店を見つけたのだ。

とにかく寒かったので、一刻も早く室内で暖まりたいという一心で、

暗いヘルシンキの街を灯りを目指して全力疾走して、ようやく一軒の営業している店にたどり着いた。






店は、壁にギターに似た弦楽器が飾ってあるギリシア料理の店だった。

俺は少しだけマンドリンを触ったことがあったので親近感を持った

ギリシア人の店主は、俺たちが日本人だという事に少し驚いて、

今年は湾岸戦争で石油が燃えて気候が不順だとか、今年は雪が少ないとか、大袈裟なゼスチャーを交えて早口で話し

てくれた。

店のおすすめ料理はエッグプランツという料理で、

ぜひ食べてほしいという店主は、ゆうに30分ほどもかけてゼスチャーで説明してくれたけれど、

結局エッグプランツがどういう料理かわからなかった。






果たしてエッグプランツは、どんな種類の料理だったのか?

出てきた料理は、茄子と挽肉とチーズの層が幾重にも重ねられたラザニアみたいなやつで、

結論を言えばめちゃウマで、

酒も飲んでいないのギリシア人の店主と一緒に大騒ぎして陽気に店を出てホテルに戻った。






食事を終えた俺と豊は、ホテルオリンピアに用意された7階の部屋に戻った。

窓から下を見ると、ライトアップされた真夜中の誰もいないスケートリンクが見える。

俺たちは、床に大きなヨーロッパの地図を広げて、これからのことを話しあった。

この先どこにいくのか俺たちは何も決めていなかった。

逆にいうと何処にだっていけるということだ。

子供のころアニメで知ったラップランドだって、ポーランドだって、スウェーデンだって、

ノルウェーだって、ドイツだって、フランスだってイギリスだって。






豊が部屋にあるテレビを何気なくつけると、

緑色にペイントされたレーシングカーの運転席に座る、

若いフィンランド出身のF1ドライバーが映し出されていた。

豊は急に、俺に向き直って真面目な表情で言った。

「なあ、ユウキ、出発前に親父から言われたんだが・・」

豊は自分のパスポートを取り出して俺に開いて見せた。







「親父が出発前に言ったんだ。

『旅行前にパスポートを読め


“日本国民である本旅券所持人を通路故障なく旅行させ、

かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、

関係の諸管に要請する”


お前たちがどう思おうと、異国の地でお前たちが安全に旅行できるよう守ってくれている人たちがいる事を忘れる

な。

何かトラブルがあれば日本の大使館にいけ。

一人で異国に来たわけではない。良くも悪くもお前たちは日本国籍で、それをこのパスポートが保証してくれる。

お前たちは守られている。助けられるにせよ、疎まれるにせよ、日本人として見られる。

今はわからなくてもそれだけは言っておく、あ、くれぐれも不用意にバカな真似はするなよ』」

俺たちは、遠くに行きたいという理由だけでフィンランドに来た。

もちろん自分たちだけは無理だった。バイト代もかき集めたが、

両親の援助があったからこそフィンランドにくることができたのだ。







テレビ画面では、23歳のフィンランド人ドライバーが、時速240キロでサーキットを巧みに走り抜けている。

 豊はぽそりとつぶやいた。

「浮かれてる場合じゃないよな。こいつ俺たちと歳、1つしか違わないのに、

こんな凄い事している。俺はダメだな・・女の子に好きだと伝える勇気さえない・・」

「豊・・俺はダメかもしれないないけどお前はそうじゃないだろ・・俺には惚れた女さえいない・・」






自分達が、どれほど世間しらずで、親の脛齧りで、世の中を舐めきった、だめだめ人間だとしても、

俺たちの旅は始まってしまっていた。

前に進むしかない。どこかに必ずゴールが見つかるはずだ。

もし見つからなければ、強引にどこかをゴールに決めてしまうしかない。





結論として時間と金が許す限りできるだけ南に、行けるとこまで行こうということに決まった。

フィンランドのヘルシンキ港から明日船に乗ろう。

そしてバルト海を渡りスウェーデンのストックホルムに上陸して鉄道でどんどん南を目指すのだ。

 旅の行き先なんて誰も何も決めてくれない。

たとえ間違っていたとしても旅の全ての工程は、自分達で決めるしかない。

ここにとどまっているわけには行かない。

とにかく明日船に乗るのだ。







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