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第2話 海に降る雪
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第六章 海に降る雪
私は清水カヨ。相変わらず強い風が吹いていて、
激しくみぞれのような雪が降り、海は荒れている。
へルシンキの港に停泊するシリアラインという客船に乗った私は、
出港を待つ間、船の甲板に上がって港の景色を見ていた。
海に降った雪は、水面に落ちるとすぐに海水に混じって溶けてしまう。
自分もあんな風に溶けてしまいたいと思った。
私はレインコートを脱ぐ気にもなれず水面に消えていく雪を見ていた。
暖房の効いた船の中にいると、忘れていた日本でのことが思い出されて、息胸が苦しくて辛くなる。
しかし屋外で風や雪にさらされていると、体の感覚が麻痺して、少しだけ心が楽になった。
ホテルオリンピアのレストランで出会ったサラには、
ふと旅に出たくなって・・と言ったが、本当はそんな綺麗な理由じゃない。
同じ会社で、自分がずっと大好きだった人が、自分の目の前で、自分の友達と仲良くなり付き合い始めた。
私は、それを見ているのが辛くなった。
彼とは、ただ仲が良かっただけで別に付き合っていたわけでも、好きと告白したわけでもない。
なのに、笑顔で二人を祝福しようとしたけれどどうしてもできなかった。
いや、少し違うな。仲良くしている二人を見る度に、自分の心の底から、
はげしい怒りや悲しみ、それに嫉妬、ありとあらゆる汚い感情が湧き出てきて、
そのままでいたら、再び、何か決定的な事をやってしまいそうな自分が恐ろしくなったのだ。
だから、逃げた。
私は、かつて結婚していた。
優しい夫と、最愛の子供がいた。
しかし、自分の愚かさのために、血を分けた子供と優しい夫を裏切り、
今まで私を助けてくれた、ありとあらゆる人たちを傷つけて、
その挙句、私の家族は崩壊した。
その後の数年は、もがき苦しみ、やがて孤独になり、
生きることを諦めかけながらも、
結婚に関わる全を消し去って、
私は、自分の過ちを背負って、これから出会うすべての人に、
愛を持って、公平で礼儀正しく関わろうと決意して、
再び生きる道を選んだ。
なのに。
ほんのちょっとしたことで自分の心の中は、もとの
嫌らしい、汚い感情で満ち溢れてくる。
どんなに変わろうとしても自分は所詮そんな人間なのだ。
彼の近くにいる限り、
私は、再び同じあやまちを犯してしまうだろう。
今度こそ私は、湧き上がる汚い感情に支配されて、
寝ても冷めても苦しみの中で生きなければならない。
あるいは、汚い感情に満ち溢れた本当の自分を抱えたまま、闇に沈むしかなくなるだろう。
きっと再び、自分は周りのありとあらゆる人を傷つけ始める。
そう考えると、自分は汚い感情を抱えたまま消えてしまった方が良いのではないかと考えた。
それができないならせめて逃げよう。
誰も汚れた私のことを知らない遠い場所まで。
私は会社に退職願を出して、貯金と退職金全てをかき集めて、
時間が許す限り、お金が続く限り遠くに逃げようと旅に出た。
初めての一人旅だった。
最初は何もかもが新鮮で人は優しく楽しいことばかりだった。
しかし暫くすると、また嫌な自分を思い出してしまう。
逃げても逃げても、私自身の分身である、嫌な私が追いかけてくる。
私は、目を閉じて、耳を塞いでひたすら逃げた。
一度逃げ始めたら止まるわけには行かない。
逃げられるだけ逃げるしかない。
そうして、フィンランドのヘルシンキまでたどり着いた。
いつの間にか船は港から離れていた。
相変わらず波は高くて船は揺れに揺れた。
太陽が西に沈んだかと思うとあっという間に星の見えない夜が訪れて、
体の中にある不安が再び増幅されていった。
私の体はガタガタ震えていた。
恐れのためか、単に寒さのためかわからない。
それを確かめることが怖かった。
寒さで麻痺している心と体が、正気に戻るのが怖かった。
正気に戻れば、否応なく現実の自分を思い知らされる。
次第に雪は激しさを増してきた。
さすがに寒さが限界超えて耐えきれなくなった私は、
旅の楽しさも消えて
日本にいた頃の、すっかり惨めな気持ちで船内に戻った。
船の中はさながら小さな街そのものだった。
それも極上に美しい街だ。
歩いている人は、みんな優雅で社交的で、上品で、優しそう、
ドレスを優雅に着こなして歩いている桁違いの美人がいる。
カジノ、レストラン、洋服店、宝石店、今まで見たことも無い様な煌びやかな世界。
しかし、その明るい光景は、余計に私の気分を沈ませた。
レストランでの夕食を予約していたが、そんな気にもなれず、
私は恥かしくて逃げる様に自分の部屋に駆け込んだ。
それでも、明日の旅に備え、何か食べなくてはと思い、
ルームサービスのメニューを開いて私は絶句した。
英語とフィンランド語らしき文字の2種類で、料理の名前を表記したメニューは、
写真もなければもちろん日本語の説明もなく、
どんな料理が来るのか、全くイメージできない。
当然だ、
料理がわからなければ、注文のしようがない。
外国を旅すると言うことはこう言うことなのだ。
私は、メニューを睨み、何度も見て、ようやく“サンドイッチ”という単語を発見すると、
いちもにもなく電話の受話器をつかみ上げてフロントに電話をかけた。
電話口には上品で穏やかな男性の声で応答があった。
私は、できるだけそれらしいアクセントで“サンドイッチ”と伝えた。
フロントの男性は“サンドイッチ”と聞き取りやすい英語で復唱してすんなり注文は通ったようだった。
電話口の男性が話す英語がとても聞き取りやすかったのは、
フィンランドの人が普段話しているのがフィンランド語やスウェーデン語で、
英語は私たち日本人と同じように学習して話せるようになる外国語だからかもしれない。
とにかく私は注文ができた事に心底ほっとした私は、頭からベットに倒れ込んだ。
私はベッドに倒れ込んだまま、船室に造られた窓からバルト海を眺めた。
バルト海は、スカンジナビア半島とヨーロッパ大陸に挟まれた細長い内海で、
船の窓から街の灯りが見えるくらいの距離に陸地が見える。
しばらくして、誰かがドアをノックする音がした。
慌ててベッドから立ち上がりドアを開けると、
ドアの向こうにはまだ子供っぽい顔つきをした背の高い男性のボーイが、
トレーにルームサービスの食事を乗せて立っていた。
ボーイは、部屋のテーブルに、美しくカットされた具のたくさん挟まったサンドイッチと、
生の人参ステック、ロンケロという、よく冷えた青い缶入りの飲み物と、
ピカピカの空のグラスを丁寧にテーブルに置いた。
私が覚えたてのフィンランド語で「キートス」(ありがとう)」というと、
ボーイは日本式の深いお辞儀をして「アリガトウ」と、日本語で言ってから、
はにかんだ笑顔を浮かべた。
ボーイが行ってしまうと、私は再びベッドに寝そべった。
食欲がないせいでサンドイッチも、生の人参ステックも食べる気がしなかった。
それでも胃に何か入れなければと思い、テーブルに置かれた、
ロンケロという飲み物を手にとり。缶をあけて、ピカピカのグラスに注ぐと、
美しい炭酸の泡がグラスの中にいっぱいに広がり柑橘系の良い香りがした。
私はグラスに唇をつけて一口飲んだ。
「何これ?美味し!」
ロンケロはグレープフルーツの味にすこし似た、初めて体験する種類の不思議な炭酸系のお酒だった。
はっきり言って美味しい。
あっという間に全て飲んでしまうと、ぐうとお腹が鳴った。
自分が大変に空腹だということに気がついた私は、
サーモンの薫製が挟んであるサンドイッチを摘んで口に入れた。うん、とても美味しい。
一口サンドイッチを口に入れると食欲が湧いてきてふた口目に手が伸びた。
結局サンドイッチも人参ステックもぜんぶ残らず食べてしまった。
第七章 4人部屋
俺は小西ユウキ。
俺たちは出発前に日本で買っていたユーレイルパスというヨーロッパの鉄道に乗り放題という切符に
追加料金を払って、ヘルシンキ港発、ストックホルム行きという客船の4人部屋の最安チケットを手に入れて、
意気揚々と船に乗り込んだ。
4人部屋と言っても、そこはユニットバスくらいのスペースに簡素な2段ベッドが、
左右に二つ備えつけられただけの部屋で、船のもっとも底に位置しているので、
波が船底に当たって砕ける音と、動力を動かす機械の振動音が絶え間なく聞こえてきて、
全く気分が落ち着かない。
「ユウキ、なんかあった時は、最初に水浸しになる部屋だな」
豊が不吉な事をいう。
まず、2段式ベッドの上に寝るか下で寝るかで、ひと揉めした。
どちらで寝るかによって、緊急の時、助かるか助からないかの運命が決まるだろ、
なんかあったら真っ先に水浸しになる下のベッドは断然不利だ、
などと豊の想像力は良くない方に突き進んでいく。
俺と豊は、公平を期してジャンケンの3回勝負で決着をつけることにした。
豊がジャンケンにめっぽう弱いのを、俺はよく知っている。
知らないのは豊本人だけだ。
思惑通り、俺が3戦全勝して、俺の権限で豊が下のベッド、
俺が上のベッドに寝ることに決まったので、俺は、簡素な梯子式の階段を登って2段ベッドの上に寝転がった。
上のベッドは、ベッドから天井までの距離が極めて短く、
あぐらをかくことさえできないので寝転がるしか方法がないのだ。
隣を見ると、上段のベッドに美しい金色の長い髪がちらりと見えた。
俺は俄に緊張したけれど髪の毛の間から見えた二の腕はプロレスラーのように太くて逞しく、
すぐに男性だとわかり何故かがっかりした。
下のベッドでは、長い栗色の髪をポニーテールにした男がいた。
男たちは信じられない程の薄着で、
この極寒の海で、オーストラリアのロックバンドAC/DCのロゴがプリントされたTシャツ一枚しか着ていない。
誠にロックだ。
豊は、男が来ているTシャツにプリントされたAC/DCロゴを見て、
自分のリュックにゴソゴソ手を突っ込んで、中からからAC/DCのコンパクトディスクを取り出した。
そしてギターの弾き真似をしながら興奮した様子で、一階の男に話しかけた。
普段、クラシック音楽しか聴かないと、公言している豊が、
AC/DCのファンだったことに俺は驚いたけれど、結果的に豊のおかげで隣のベットの男たちと仲良くなった。
彼らは兄弟で、兄はロキ、弟はシラーという名前だと言うことだ、
アルゼンチンから飛行機でスペインに入り、列車と船で北上してフィンランドでオーロラを見てから、
この船に乗り込んだそうだ、
俺たちは、初対面にもかかわらず、狭いベッドの上に大きな世界地図を広げて、
英語、ゼスチャー、筆談など、あらゆるコミュニケーション手段を用いて、
お互いの旅を讃えあった。
ロキとシラーの兄弟が、リュックから固そうなパンを出して食事を始めたので、
俺と豊も食糧調達のために船底の部屋を出る決心をした。
薄暗い船底の4人部屋から這い出して船内に上がると、
船内は、華やかで豪華な世界が広がっていて、
高級なブランドの洋服やアクセサリを見にまとった人たちが、ふかふかの絨毯の上を優雅に歩いている。
ジーンズとくたびれたジャケットを着た俺たちは、
周りの豪華さに圧倒されて、売店でパンを少しと、
まわりの人が飲んでいたロンケロというブルーの缶入りのお酒を買って、
甲板へと上がった。
外の空気が吸いたかった。
甲板に上がると、そこは漆黒の闇で、船が波を切る音と、エンジンのまわる音が聞こえていた。
雪はやんでいたが空は曇っていて星さえ見えない。
けれど、北欧の厳しい寒さを身体中で感じながら、内心と俺はとても機嫌がよかった
船はゆっくりだけれど、着実に前に進んでいた。
動く船の甲板から、はるか遠くに陸地が見えて、
そこに人の営みを示す灯りがあたたかく輝いている。
相変わらず皮膚に痛いくらいの冷たい風が吹きつけて、凍え死にしそうなくらい寒いけれど気分は悪くない。
ロンケロの缶に口をつけながら、俺は今バルト海にいる、と、自分に言い聞かせるが、
まるで現実感がない。
冬の北欧の大地を、バルト海を航海する船の甲板から見るなんて、そうそう体験できることではない。
俺は10年後も20年後も思い出すくらい、大切な時間を今過ごしているはずなのに。
第七章 サンドイッチと、人参ステックと、ロンロケというお酒
私は、清水カヨ。サンドイッチと、人参ステックと、ロンロケというお酒を飲んだのに、
私はまだ空腹だった。まるで絵本の、はらぺこ青虫みたいに。
ちょっと前まで、あんなに食欲がなかったのに、今は嘘のようにおなかがぺこぺこだ。
スーツケースを開けて、フォーマルな洋服を取り出してから、
鏡に向かい、ボサボサの髪の毛に櫛を入れて、乾燥して荒れた肌に良い香りのするクリームを塗り込んだ。
鏡の前で、お気に入りだけど袖に綻びのあるネイビーブルーのパーカーと、
くたびれたブルージーンズを脱ぐと、細い脚と、きゅっとくびれたウエストが現れた。
私は、スーツケースから取り出した、真っ白のシャツと、
ペイズリーの柄がプリントされた赤いスカートを身につけて、
黒い太めのベルトでウエストを締め上げた。採用はされなかったが自分自身でデザインしたスカートだ。
本当に久しぶりにスカートを履いて、きれいにブラッシングした髪を後ろで束ねて、桜色の口紅を唇に塗った。
きっと、大丈夫、大丈夫だよ。
自分にそう言い聞かせてから、ヒールが高めの黒いブーツを履いて、ゆっくりと部屋の重いドアをひらいた。
背筋をぴんと伸ばして、ふかふかの赤い絨毯の上を、転ばないように注意して歩いた。
少し心の奥が震えていた。
いつもなら気持ちの揺れが鎮まるように、他人に悟られないうちに落ち着かせるのだけれど、
今は心の思うままに震えに身体を任せていた。
感情を抑え、大袈裟に笑うことも叫ぶことも、長いこと抑えていた。
大人になるということはそういうことだと信じていたから。
だが、ここでは違う。 大人であることも、子供であることも誰からも要求されない。
私はただの旅人にすぎないのだ。
私は清水カヨ。相変わらず強い風が吹いていて、
激しくみぞれのような雪が降り、海は荒れている。
へルシンキの港に停泊するシリアラインという客船に乗った私は、
出港を待つ間、船の甲板に上がって港の景色を見ていた。
海に降った雪は、水面に落ちるとすぐに海水に混じって溶けてしまう。
自分もあんな風に溶けてしまいたいと思った。
私はレインコートを脱ぐ気にもなれず水面に消えていく雪を見ていた。
暖房の効いた船の中にいると、忘れていた日本でのことが思い出されて、息胸が苦しくて辛くなる。
しかし屋外で風や雪にさらされていると、体の感覚が麻痺して、少しだけ心が楽になった。
ホテルオリンピアのレストランで出会ったサラには、
ふと旅に出たくなって・・と言ったが、本当はそんな綺麗な理由じゃない。
同じ会社で、自分がずっと大好きだった人が、自分の目の前で、自分の友達と仲良くなり付き合い始めた。
私は、それを見ているのが辛くなった。
彼とは、ただ仲が良かっただけで別に付き合っていたわけでも、好きと告白したわけでもない。
なのに、笑顔で二人を祝福しようとしたけれどどうしてもできなかった。
いや、少し違うな。仲良くしている二人を見る度に、自分の心の底から、
はげしい怒りや悲しみ、それに嫉妬、ありとあらゆる汚い感情が湧き出てきて、
そのままでいたら、再び、何か決定的な事をやってしまいそうな自分が恐ろしくなったのだ。
だから、逃げた。
私は、かつて結婚していた。
優しい夫と、最愛の子供がいた。
しかし、自分の愚かさのために、血を分けた子供と優しい夫を裏切り、
今まで私を助けてくれた、ありとあらゆる人たちを傷つけて、
その挙句、私の家族は崩壊した。
その後の数年は、もがき苦しみ、やがて孤独になり、
生きることを諦めかけながらも、
結婚に関わる全を消し去って、
私は、自分の過ちを背負って、これから出会うすべての人に、
愛を持って、公平で礼儀正しく関わろうと決意して、
再び生きる道を選んだ。
なのに。
ほんのちょっとしたことで自分の心の中は、もとの
嫌らしい、汚い感情で満ち溢れてくる。
どんなに変わろうとしても自分は所詮そんな人間なのだ。
彼の近くにいる限り、
私は、再び同じあやまちを犯してしまうだろう。
今度こそ私は、湧き上がる汚い感情に支配されて、
寝ても冷めても苦しみの中で生きなければならない。
あるいは、汚い感情に満ち溢れた本当の自分を抱えたまま、闇に沈むしかなくなるだろう。
きっと再び、自分は周りのありとあらゆる人を傷つけ始める。
そう考えると、自分は汚い感情を抱えたまま消えてしまった方が良いのではないかと考えた。
それができないならせめて逃げよう。
誰も汚れた私のことを知らない遠い場所まで。
私は会社に退職願を出して、貯金と退職金全てをかき集めて、
時間が許す限り、お金が続く限り遠くに逃げようと旅に出た。
初めての一人旅だった。
最初は何もかもが新鮮で人は優しく楽しいことばかりだった。
しかし暫くすると、また嫌な自分を思い出してしまう。
逃げても逃げても、私自身の分身である、嫌な私が追いかけてくる。
私は、目を閉じて、耳を塞いでひたすら逃げた。
一度逃げ始めたら止まるわけには行かない。
逃げられるだけ逃げるしかない。
そうして、フィンランドのヘルシンキまでたどり着いた。
いつの間にか船は港から離れていた。
相変わらず波は高くて船は揺れに揺れた。
太陽が西に沈んだかと思うとあっという間に星の見えない夜が訪れて、
体の中にある不安が再び増幅されていった。
私の体はガタガタ震えていた。
恐れのためか、単に寒さのためかわからない。
それを確かめることが怖かった。
寒さで麻痺している心と体が、正気に戻るのが怖かった。
正気に戻れば、否応なく現実の自分を思い知らされる。
次第に雪は激しさを増してきた。
さすがに寒さが限界超えて耐えきれなくなった私は、
旅の楽しさも消えて
日本にいた頃の、すっかり惨めな気持ちで船内に戻った。
船の中はさながら小さな街そのものだった。
それも極上に美しい街だ。
歩いている人は、みんな優雅で社交的で、上品で、優しそう、
ドレスを優雅に着こなして歩いている桁違いの美人がいる。
カジノ、レストラン、洋服店、宝石店、今まで見たことも無い様な煌びやかな世界。
しかし、その明るい光景は、余計に私の気分を沈ませた。
レストランでの夕食を予約していたが、そんな気にもなれず、
私は恥かしくて逃げる様に自分の部屋に駆け込んだ。
それでも、明日の旅に備え、何か食べなくてはと思い、
ルームサービスのメニューを開いて私は絶句した。
英語とフィンランド語らしき文字の2種類で、料理の名前を表記したメニューは、
写真もなければもちろん日本語の説明もなく、
どんな料理が来るのか、全くイメージできない。
当然だ、
料理がわからなければ、注文のしようがない。
外国を旅すると言うことはこう言うことなのだ。
私は、メニューを睨み、何度も見て、ようやく“サンドイッチ”という単語を発見すると、
いちもにもなく電話の受話器をつかみ上げてフロントに電話をかけた。
電話口には上品で穏やかな男性の声で応答があった。
私は、できるだけそれらしいアクセントで“サンドイッチ”と伝えた。
フロントの男性は“サンドイッチ”と聞き取りやすい英語で復唱してすんなり注文は通ったようだった。
電話口の男性が話す英語がとても聞き取りやすかったのは、
フィンランドの人が普段話しているのがフィンランド語やスウェーデン語で、
英語は私たち日本人と同じように学習して話せるようになる外国語だからかもしれない。
とにかく私は注文ができた事に心底ほっとした私は、頭からベットに倒れ込んだ。
私はベッドに倒れ込んだまま、船室に造られた窓からバルト海を眺めた。
バルト海は、スカンジナビア半島とヨーロッパ大陸に挟まれた細長い内海で、
船の窓から街の灯りが見えるくらいの距離に陸地が見える。
しばらくして、誰かがドアをノックする音がした。
慌ててベッドから立ち上がりドアを開けると、
ドアの向こうにはまだ子供っぽい顔つきをした背の高い男性のボーイが、
トレーにルームサービスの食事を乗せて立っていた。
ボーイは、部屋のテーブルに、美しくカットされた具のたくさん挟まったサンドイッチと、
生の人参ステック、ロンケロという、よく冷えた青い缶入りの飲み物と、
ピカピカの空のグラスを丁寧にテーブルに置いた。
私が覚えたてのフィンランド語で「キートス」(ありがとう)」というと、
ボーイは日本式の深いお辞儀をして「アリガトウ」と、日本語で言ってから、
はにかんだ笑顔を浮かべた。
ボーイが行ってしまうと、私は再びベッドに寝そべった。
食欲がないせいでサンドイッチも、生の人参ステックも食べる気がしなかった。
それでも胃に何か入れなければと思い、テーブルに置かれた、
ロンケロという飲み物を手にとり。缶をあけて、ピカピカのグラスに注ぐと、
美しい炭酸の泡がグラスの中にいっぱいに広がり柑橘系の良い香りがした。
私はグラスに唇をつけて一口飲んだ。
「何これ?美味し!」
ロンケロはグレープフルーツの味にすこし似た、初めて体験する種類の不思議な炭酸系のお酒だった。
はっきり言って美味しい。
あっという間に全て飲んでしまうと、ぐうとお腹が鳴った。
自分が大変に空腹だということに気がついた私は、
サーモンの薫製が挟んであるサンドイッチを摘んで口に入れた。うん、とても美味しい。
一口サンドイッチを口に入れると食欲が湧いてきてふた口目に手が伸びた。
結局サンドイッチも人参ステックもぜんぶ残らず食べてしまった。
第七章 4人部屋
俺は小西ユウキ。
俺たちは出発前に日本で買っていたユーレイルパスというヨーロッパの鉄道に乗り放題という切符に
追加料金を払って、ヘルシンキ港発、ストックホルム行きという客船の4人部屋の最安チケットを手に入れて、
意気揚々と船に乗り込んだ。
4人部屋と言っても、そこはユニットバスくらいのスペースに簡素な2段ベッドが、
左右に二つ備えつけられただけの部屋で、船のもっとも底に位置しているので、
波が船底に当たって砕ける音と、動力を動かす機械の振動音が絶え間なく聞こえてきて、
全く気分が落ち着かない。
「ユウキ、なんかあった時は、最初に水浸しになる部屋だな」
豊が不吉な事をいう。
まず、2段式ベッドの上に寝るか下で寝るかで、ひと揉めした。
どちらで寝るかによって、緊急の時、助かるか助からないかの運命が決まるだろ、
なんかあったら真っ先に水浸しになる下のベッドは断然不利だ、
などと豊の想像力は良くない方に突き進んでいく。
俺と豊は、公平を期してジャンケンの3回勝負で決着をつけることにした。
豊がジャンケンにめっぽう弱いのを、俺はよく知っている。
知らないのは豊本人だけだ。
思惑通り、俺が3戦全勝して、俺の権限で豊が下のベッド、
俺が上のベッドに寝ることに決まったので、俺は、簡素な梯子式の階段を登って2段ベッドの上に寝転がった。
上のベッドは、ベッドから天井までの距離が極めて短く、
あぐらをかくことさえできないので寝転がるしか方法がないのだ。
隣を見ると、上段のベッドに美しい金色の長い髪がちらりと見えた。
俺は俄に緊張したけれど髪の毛の間から見えた二の腕はプロレスラーのように太くて逞しく、
すぐに男性だとわかり何故かがっかりした。
下のベッドでは、長い栗色の髪をポニーテールにした男がいた。
男たちは信じられない程の薄着で、
この極寒の海で、オーストラリアのロックバンドAC/DCのロゴがプリントされたTシャツ一枚しか着ていない。
誠にロックだ。
豊は、男が来ているTシャツにプリントされたAC/DCロゴを見て、
自分のリュックにゴソゴソ手を突っ込んで、中からからAC/DCのコンパクトディスクを取り出した。
そしてギターの弾き真似をしながら興奮した様子で、一階の男に話しかけた。
普段、クラシック音楽しか聴かないと、公言している豊が、
AC/DCのファンだったことに俺は驚いたけれど、結果的に豊のおかげで隣のベットの男たちと仲良くなった。
彼らは兄弟で、兄はロキ、弟はシラーという名前だと言うことだ、
アルゼンチンから飛行機でスペインに入り、列車と船で北上してフィンランドでオーロラを見てから、
この船に乗り込んだそうだ、
俺たちは、初対面にもかかわらず、狭いベッドの上に大きな世界地図を広げて、
英語、ゼスチャー、筆談など、あらゆるコミュニケーション手段を用いて、
お互いの旅を讃えあった。
ロキとシラーの兄弟が、リュックから固そうなパンを出して食事を始めたので、
俺と豊も食糧調達のために船底の部屋を出る決心をした。
薄暗い船底の4人部屋から這い出して船内に上がると、
船内は、華やかで豪華な世界が広がっていて、
高級なブランドの洋服やアクセサリを見にまとった人たちが、ふかふかの絨毯の上を優雅に歩いている。
ジーンズとくたびれたジャケットを着た俺たちは、
周りの豪華さに圧倒されて、売店でパンを少しと、
まわりの人が飲んでいたロンケロというブルーの缶入りのお酒を買って、
甲板へと上がった。
外の空気が吸いたかった。
甲板に上がると、そこは漆黒の闇で、船が波を切る音と、エンジンのまわる音が聞こえていた。
雪はやんでいたが空は曇っていて星さえ見えない。
けれど、北欧の厳しい寒さを身体中で感じながら、内心と俺はとても機嫌がよかった
船はゆっくりだけれど、着実に前に進んでいた。
動く船の甲板から、はるか遠くに陸地が見えて、
そこに人の営みを示す灯りがあたたかく輝いている。
相変わらず皮膚に痛いくらいの冷たい風が吹きつけて、凍え死にしそうなくらい寒いけれど気分は悪くない。
ロンケロの缶に口をつけながら、俺は今バルト海にいる、と、自分に言い聞かせるが、
まるで現実感がない。
冬の北欧の大地を、バルト海を航海する船の甲板から見るなんて、そうそう体験できることではない。
俺は10年後も20年後も思い出すくらい、大切な時間を今過ごしているはずなのに。
第七章 サンドイッチと、人参ステックと、ロンロケというお酒
私は、清水カヨ。サンドイッチと、人参ステックと、ロンロケというお酒を飲んだのに、
私はまだ空腹だった。まるで絵本の、はらぺこ青虫みたいに。
ちょっと前まで、あんなに食欲がなかったのに、今は嘘のようにおなかがぺこぺこだ。
スーツケースを開けて、フォーマルな洋服を取り出してから、
鏡に向かい、ボサボサの髪の毛に櫛を入れて、乾燥して荒れた肌に良い香りのするクリームを塗り込んだ。
鏡の前で、お気に入りだけど袖に綻びのあるネイビーブルーのパーカーと、
くたびれたブルージーンズを脱ぐと、細い脚と、きゅっとくびれたウエストが現れた。
私は、スーツケースから取り出した、真っ白のシャツと、
ペイズリーの柄がプリントされた赤いスカートを身につけて、
黒い太めのベルトでウエストを締め上げた。採用はされなかったが自分自身でデザインしたスカートだ。
本当に久しぶりにスカートを履いて、きれいにブラッシングした髪を後ろで束ねて、桜色の口紅を唇に塗った。
きっと、大丈夫、大丈夫だよ。
自分にそう言い聞かせてから、ヒールが高めの黒いブーツを履いて、ゆっくりと部屋の重いドアをひらいた。
背筋をぴんと伸ばして、ふかふかの赤い絨毯の上を、転ばないように注意して歩いた。
少し心の奥が震えていた。
いつもなら気持ちの揺れが鎮まるように、他人に悟られないうちに落ち着かせるのだけれど、
今は心の思うままに震えに身体を任せていた。
感情を抑え、大袈裟に笑うことも叫ぶことも、長いこと抑えていた。
大人になるということはそういうことだと信じていたから。
だが、ここでは違う。 大人であることも、子供であることも誰からも要求されない。
私はただの旅人にすぎないのだ。
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perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
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