被造物のくせに生意気だ

湯坂青葉

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勧善懲悪

善は急げ 見義不爲無勇也

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 紙の上にまた血が一滴垂れた。
 「天使アサの姿を描いた物の上に、日暮れから夜中まで一滴ずつ血を垂らし続けると、天使アサが現れ、願いを叶えてくれる。」
正吾はこんな噂を信じてはいなかったし、信じるような年齢でもなかった。しかし、正吾が今収監されている独房では特にやることがない。すでに脱獄の計画はたててあるが、その計画を始めるには少なくとも一週間は待たなければいけない。そこで暇つぶしに絵でも描いてみることにしたのだが、紙で指の先を切ってしまった。切ってしまったものは仕方がないが、傷から滴り落ちる血を何にも使わないのは、ケチである正吾の性格からして耐え難いことだった。そこで、正吾は気まぐれにも思い出したこのまじないを行ってみることにしたのだった。
ぴちゃ。また一滴、血が落ちる。かなり深く切ってしまったが、流石にもうそろそろ血も止まりそうだ。明日もどうせ看守どもに朝早くたたき起こされるだろうし、もうそろそろやめようかと正吾が考えたとき、それは正吾の独房の中に現れた。

「天使……。」

時代から取り残された南国の農民のような粗末な服を着た、線の細い少女。その伸ばされた漆黒の髪にも、髪と同じくらい黒い瞳にも、どこかあどけなさを残した一見可愛らしい顔立ちにも、神々しさのようなものは一切含まれていない。だが、正吾にはなぜか、目の前に突如存在したこの少女が、自分が呼び出そうとしていた天使アサであると、誰にも教えられなくとも生まれる前から十分に知っていたように感じられていた。

「(毎度のことながら、神様のおっしゃっていた『ゆとり』の力は実に素晴らしいですね。確かに一々相手に自分の素性を説明する必要がなくて助かります。)……。」

独房の中に降り立った少女は、独り言を呟きながら、自らを呼び出した者を眺めた。囚人服らしきものを着せられた、どこにでもいそうな男。年齢は三十後半くらいだろうか。突然目の前に天使が現れてもあまり驚いてはいないところを見ると、見た目に似合わずかなり肝が据わっているのだろう。

「(名乗らなくてもいいとはいえ、雰囲気のために、一応名乗っておきましょうか。)……。私はアサ。殺戮と復讐の天使アサよ。桐生正吾、私はお前の願いをかなえてやりましょう。」

「……。まさか本当に出てくるとはな……。」

「小世界を覗いていたら、たまたまお前が妙なまじないをやっているのが見えたのよ。さて、桐生正吾、あなたの願いは何?私は神様と違って相手の願いまではわからないから、お前の口から直接聞く必要があるわ。」

「う、うむ、俺の願いはな……、こんな願いを天使に言ったらまずいよなぁ……。」

「……?私は殺戮と復讐の天使よ。殺戮と復讐以外にも、その他諸々の悪徳も大歓迎だわ。お前、まさか私がどんな天使か知らずに呼んだの?」

カミナが善良なる神だとアサの小世界では信じられていたように、アサもこの小世界では善良な天使だと思われている可能性がある。実際、アサが最近行った小世界の中には、アサを「慈愛と融和の天使」として祀って召喚していた所もあった。

「俺はあんまり宗教とかオカルトとか詳しくねえんだ。なんか願いを聞いてくれる天使を呼び出せるって呪いがあったから、それをやってみただけだ。」

「ああそう。で、願いは何なの?まさかこの私に対して、『世界中の人々が幸せになれますように』なんて願うつもりじゃないでしょうね?そんなことを願う奴は、この場で消し炭にしてやります。」

アサは数日前の記憶を思い出す。「慈愛と融和の天使」アサを呼び出した者たちの腸を切り裂き目玉をくり抜いた記憶を。小世界ごと滅ぼさなかったのは、アサの慈愛であり、五臓六腑を見分けがつかないほどにかき混ぜてやったのは、アサの融和精神の発現だった。

「お、天使さんはそういう天使さんだったのかい。なら安心だ。俺も『正義と無欲の天使』みたいなのが来ちまったらどうしようかと思ってたんだよ。」

図らずもお互いの思惑が一致した二人は顔を見合わせた。カミナ直伝の三日月のような哂いを浮かべたアサと、一見親切そうな作り笑いを浮かべた正吾が向き合う。

「さてと、じゃ、お前改め桐生さんの願いを聞きましょうか。やっぱり王宮に爆弾を投げ込んで暴れたりとかしてみたいのかな?」

「いや、それも悪くないかもしれないが、そもそもこの国には王もいなけりゃ王宮も無え。天使さんには悪いんだが、あいにく俺の願いは『殺戮』でも『復讐』でもない。俺がやりてえのは誘拐と脅迫だ。」

「ふ~ん。私的には気に入らない奴がいたら切り刻むのがいいと思うけど、まあそこは個人の好みね。それで、どんな理由で、誰を誘拐して誰を脅迫したいのか聞かせてもらえるかしら。」

それから、正吾は自分の事情を語り始めた。
正吾はこの国ではごく平均的な生まれ育ちで、アサのようになにか事件に巻き込まれたわけでも、ユナのように特に恵まれていたわけでもなかった。地方都市で平均的に育った正吾だったが、小学校高学年くらいの時に、一生の趣味と出会った。その趣味こそ正吾が今独房にいる理由でもあった。窃盗や強盗といった、犯罪と名の付くあらゆるもの、それが正吾が命よりも大事にしている趣味だった。小学校高学年の時、駄菓子屋でアイスを盗んだ。その時に食べたアイスの味を、正吾は今でも覚えている。高校を中退してからは、強盗も始めた。銀行などは狙わずに、個人経営の小さな店を集中的に狙う。以来ずっと正吾は趣味だけで食ってきた。すべては順風満帆だった。
その趣味に水を差したのが、正吾と同い年くらいの一人の捜査官だった。遠野早苗。遠野は実に執念深い女だった。正吾の犯行と思われる事件の資料を片っ端から漁り、正吾の次に狙っている店を予測し、警官を張り込ませる。正吾と遠野の攻防は実に三年以上にもわたったが、最後には遠野の勝利で終わった。
正吾にとって問題なのは、自分が捕まったことではなく、自分の趣味の領域で遠野に根負けしたということであった。この恥辱、必ずリベンジしなければならない。遠野に今度こそ必ず負けを認めさせなければならない。

「へ~、桐生さんは犯罪が趣味なのね。殺人とか強姦はやらないの?」

「いや、俺は犯罪で金や物を手に入れるのが好きでね。金を貰って殺しをするのも考えたことはあるが、それよりも金持ちの家にコソ泥に入ったほうが効率がいい。」

「うーん、まあ、それもそうかもね。それで、今回は誰を誘拐して何を要求するのか教えてくれる?」

「ああ、俺の手に入れた情報だと、遠野には中学生くらいの娘がいるらしい。そいつをさらって、遠野にありえないほどの大金を要求する。天使さんにはこれを手伝ってほしい。あまりスケールの大きくねえ事案だが、天使さんは手伝ってくれるのか?」

「たしかにスケールは大きくないわね。遠野の娘や遠野自身がどうなろうと、この小世界にはほぼ影響はないものね。でも、カミナ様は小世界を丸ごと不幸に陥れるよりも、被造物一人一人が不幸になるほうがお好きですから、そのカミナ様の天使である私も、遠野や娘の苦しみ悲しむ顔をカミナ様にお見せできる機会ということで、手伝います。
あ、もちろん作戦の途中で、私も少々楽しませていただきますよ。まずはこの施設の見張り番たちの目玉からいただきますわ。」

そうと決まれば善は急げですよ、こんなせまっ苦しいところからはとっととおさらばしましょう。アサはそう言いながら、独房の扉を蹴破り、集まってきた看守たちの目玉と腸を味わい始めた。

「こんなに素晴らしい考えを持った桐生さんを閉じ込めておく人たちが死ぬのは当然ですね。」

歳相応の無邪気で可愛らしい笑顔を浮かべるアサの後ろについて、正吾は遠野の娘、遠野湊のもとへ向かう。
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