狗神村

夜舞しずく

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第一章

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 思考を巡らせながら保育園内を挨拶しながら歩いていた。

「おはようございます」

娘は担任の先生の前に着くなり、むくれた顔をしていた。さっきまでは上機嫌だったのに。

「莉子、ごあいさつするとき、なんて言うんだっけ?」

わたしの後ろに隠れて、保育園からそっぽを向いている。やっぱり、機嫌が戻ってなかったのか。保育園性だもんね。すぐに気持ちを切り替えられるほどが、おかしいのかもしれない。

「嫌だ。行きたくない」

莉子が大泣きして、地団駄を踏み始めてしまった。最近はずっと気分がコロコロ変わる状態だ。行く前は嫌がっていても、いざ迎えに行ったら楽しそうにしている。

それどころか、家に帰りたくない、ずっと保育園にいる、とまで言い出す次第だ。

「何かあった? お友達もできたんでしょう。莉子がいないと寂しがるよ」

娘の顔が鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。話を聞いていないのか、何も言わずにいる。わたしはジーンズのポケットからハンカチを取り出した。

「嫌だ!」

いざ拭こうとすると、跳ねのけられてしまった。見かねた保育士さんが手をつないで、暴れて泣き叫ぶ娘を園内に引き連れようとしている。

「大丈夫ですから。お母さんはお仕事に行ってください」

こんなに泣かれたことがないから、かなり戸惑っていた。年配の保育士さんが中から園児と出てきてしまった。

素早く慣れた手つきで脇を抱え込むようにして連れて行った。まだ莉子は、わたしを呼んで泣きつづけている。

もしかして預けずに、ずっと一緒にいてあげたほうがいいのかな。仕事を辞めたら、生活していけなくなってしまう。

「一度は登園を渋る時期があるんですよ。お母さんがいなくなったら泣き止みます。大丈夫です。わたしたちに任せてください」

頼もしいことを言ってもらった。大丈夫だよね。面倒が見きれない分、子育てのプロに預けてるんだもんね。自分に言い聞かせていた。保育士さんにお礼をして、職場に向かった。

いつもの時間に出てしまったから、時間がギリギリに迫っていた。朝礼が始まるまで、あと五分しかない。スマホで仕事先にメールを送信した。自転車をかっ飛ばしていた。

途中で大きな池の横にある、柳の細長い葉っぱを避けながら猛スピードを維持している。わたしのスピードに驚いたのか、白鳥の親子が慌てふためいている。

水しぶきが飛んできそうなところを何とか避けて、なりふり構わず、ペダルを漕ぎ続ける。

ようやく職場が見えてきた。何てことない公務員の事業所だ。三階建てのガラス張りの資料館がそびえたっている。綺麗な花壇で水やりをしている清掃員のおばさんに挨拶をして、裏口まで回り込んだ。

小さなスペースに所狭しと自転車を停めると、警備員さんが中に入ろうとしていた。

「ちょっと待ってください」

パーカーのチャックを開けて、首に掛けている社員証を取り出した。許可を得て、汗だくのまま、室内に入った。冷房の効いた部屋でも、まだ汗が滴っている。

エレベーターがなかなかやって来きそうにない。横に設置されている非常用階段を登ると、二階にオフィスがある。息を切らしながら、一段飛ばしで登り続けた。

入り口前で落ち着きながら、腕時計を見ると三分過ぎている。やばい。もう既に始まってるじゃん。勢いよくドアを開けると、社内の視線が一斉に飛んできた。

「すみません。遅れました」

及び腰でオフィスに足を踏み入れると、予想通り、もう朝礼が始まっていた。急いで、自分の机に立っていると、上司があきれ顔をしていた。

「秋月さん、また遅刻ですか? せめて連絡ぐらいはしてください」

朝礼を中断して、わたしの方に一気に視線がやってくる。思わず、言い訳が口から出てきてしまった。

「メールは送ったと思うのですが」

「急な場合は電話でお願いします」

なぜか怒られずに注意のみで終わった。

「はい、すみません」

ただ謝るしかなかった。朝礼では、いつも通りの内容が続く。わたし以外の人は遅刻や早退を滅多にしない。注意事項を言われて、わたしへの朝礼は終わった。

「この書類なんですけれど、いつ頃に終わりそうですか?」

「今日中に提出する予定です」

「昨日までって連絡したはずなんですが。あと秋月さんだけなので、今すぐ書いてください」

「分かりました」

横につきっきりになって、書き終わるまで見守られていた。離婚してから莉子にかかりっきりになっていて、早退が多くなっていたからかもしれない。

自分で選んだけれど、満足に仕事ができない状況に悔しさを感じずにはいられなかった。

事務作業を終わらせて、新しい展示会の企画に参加している人たちの会議を横目で見ていた。単純作業やコピー取りだけしかさせてもらえず、昼休みになった。

食べ終わって再びPCに向かっていると、仕事途中で声をかけられたのだ。

「秋月さん、部長が205の会議室に来てって言ってたよ」

あくまでも和やかな感じで、言ってきた。予定が組み込まれているわけでもないのに、急に言われたものだから驚いてしまった。あくまでも平静を装って、わたしは椅子から立ち上がっていた。

「分かりました。ありがとうございます」

別室に呼びだされたかと思ったら、広い会議室に部長と人事部の男性二人が待ち構えていた。長い真っ白なテーブルと二人のお偉いさん、奥にはブラインド越しに倉敷一番の高層ビルが聳えている。大した会話もなく、人事部の佐藤さんは話しかけてきた。

「秋月さん、部署異動をしませんか?」

あまりにも淡々とした口調で言われたものだから、何も言えなかった。わたしの返答を待たずに、説明を続けてくる。部長の顔を見ても、しんと黙りこくっている。

「明日から歴史資料部門に配属が決定しています。あとは、秋月さんが了承すればよいところまで話が進んでるんです。娘さんの通っている保育園からも近いですし、あなたにとっても悪い条件じゃないと思いますよ」

言い返えせなかった。クビにならなかっただけマシなのかな。実質、左遷で一般的には解雇同然の話なんじゃない? 重苦しい感情は喉の奥に飲み込んで、会社モードの自分を引っ張り出してきた。

「そんな、急に言われても困ります。まだ担当業務が残っていますし、せめて引き継ぎの時間をください」

理由を交えてみても、無駄かもしれない。でも、何も言わず了承するのは、もっと嫌なことだった。部長が何かを言いかけると、佐藤さんが睨みつけていた。

ああ、何もできないんだな。わたしは悟って、諦めた。もし子供がいたとしても、男性なら、無下に扱われることはないのかもしれない。悲しい状況でも、わたしには選べない。

あなたたちみたいな、役職持ちには一生縁がないのだ。いつものように、女性らしく、生きていけば、何ともない。今以上の悲劇は起きない。

「こちらで何とかするので大丈夫です。引継ぎも必要であれば、メールで執り行う予定です」

「分かりました」

あくまでも最後まで笑顔で受け答えをする。自分から選んだと、思わせるようにしたい。

「本日の業務が終わったら、荷物は運んでおいてくださいね。場所は地下のB-1号室です」

構内図を渡されて、ご丁寧に赤い丸が付けられていた。独り、無駄に広い会議室に取り残された。寂しい。デスクに戻って、荷物を段ボールに詰め込んでいた。
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