煙草と雨音

ドルドレオン

文字の大きさ
1 / 10

しおりを挟む
九月の終わり、僕は疲れていた。理由はよくわからなかった。仕事のせいかもしれないし、誰かを失った記憶のせいかもしれない。あるいは、ただ世界の回転速度に身体がついていけなくなっただけかもしれない。

午後七時過ぎ、部屋の明かりをつけずに、薄暗いキッチンの椅子に座って煙草に火をつけた。もう何本目かなんて考えるのも面倒だった。ただ煙を吸って、肺に沈めて、ゆっくりと吐き出す。煙は薄いグレーになって、やがて夜に溶けていった。

窓の外では、静かに雨が降っていた。ぽつ、ぽつ、と規則的に屋根を叩く音が、まるで誰かが遠くで小さなドラムを叩いているみたいに聞こえた。

「なんでこんなに疲れてるんだろうな」

僕は独りごとのように呟いて、灰皿の上で煙草をもみ消した。誰かに答えてほしかったけど、部屋には僕しかいない。あの女の子がいなくなってから、ずっとそうだ。

彼女は春の終わりに、突然いなくなった。置き手紙もなかった。ただ、浴室に彼女の髪の匂いが少し残っていた。その香りだけが、彼女が本当にこの部屋に存在していた証だった。

もう夏も終わってしまった。冷たい風がカーテンをわずかに揺らし、僕はシャツの襟を握りしめた。たぶん、あのとき彼女にもう少しだけ、何かちゃんとした言葉をかけていればよかったのかもしれない。

そんなふうに考えていると、突然、携帯が震えた。

知らない番号だった。でも、どこかで見覚えのある数字の並びだった。

僕は一拍置いて、電話を取った。

「…もしもし」

沈黙の向こうで、雨の音が微かに混じった声が言った。

「久しぶり。まだ煙草、吸ってるの?」

僕は言葉を失ったまま、じっと耳を澄ませた。その声は、確かに彼女のものだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

悪役令嬢に相応しいエンディング

無色
恋愛
 月の光のように美しく気高い、公爵令嬢ルナティア=ミューラー。  ある日彼女は卒業パーティーで、王子アイベックに国外追放を告げられる。  さらには平民上がりの令嬢ナージャと婚約を宣言した。  ナージャはルナティアの悪い評判をアイベックに吹聴し、彼女を貶めたのだ。  だが彼らは愚かにも知らなかった。  ルナティアには、ミューラー家には、貴族の令嬢たちしか知らない裏の顔があるということを。  そして、待ち受けるエンディングを。

侯爵令嬢の置き土産

ひろたひかる
恋愛
侯爵令嬢マリエは婚約者であるドナルドから婚約を解消すると告げられた。マリエは動揺しつつも了承し、「私は忘れません」と言い置いて去っていった。***婚約破棄ネタですが、悪役令嬢とか転生、乙女ゲーとかの要素は皆無です。***今のところ本編を一話、別視点で一話の二話の投稿を予定しています。さくっと終わります。 「小説家になろう」でも同一の内容で投稿しております。

ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する

ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。 皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。 ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。 なんとか成敗してみたい。

【短編】その婚約破棄、本当に大丈夫ですか?

佐倉穂波
恋愛
「僕は“真実の愛”を見つけたんだ。意地悪をするような君との婚約は破棄する!」  テンプレートのような婚約破棄のセリフを聞いたフェリスの反応は?  よくある「婚約破棄」のお話。  勢いのまま書いた短い物語です。  カテゴリーを児童書にしていたのですが、投稿ガイドラインを確認したら「婚約破棄」はカテゴリーエラーと記載されていたので、恋愛に変更しました。

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

【短編】誰も幸せになんかなれない~悪役令嬢の終末~

真辺わ人
恋愛
私は前世の記憶を持つ悪役令嬢。 自分が愛する人に裏切られて殺される未来を知っている。 回避したいけれど回避できなかったらどうしたらいいの? *後編投稿済み。これにて完結です。 *ハピエンではないので注意。

婚約破棄ですか。ゲームみたいに上手くはいきませんよ?

ゆるり
恋愛
公爵令嬢スカーレットは婚約者を紹介された時に前世を思い出した。そして、この世界が前世での乙女ゲームの世界に似ていることに気付く。シナリオなんて気にせず生きていくことを決めたが、学園にヒロイン気取りの少女が入学してきたことで、スカーレットの運命が変わっていく。全6話予定

処理中です...