煙草と雨音

ドルドレオン

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時計の針が十時を過ぎた頃、ノックの音がした。
控えめで、でもためらいのない音だった。まるで「私はここにいるよ」とだけ伝えるような。

僕は立ち上がり、扉を開けた。

彼女が立っていた。
薄手のカーディガンを羽織り、片手には小さな保温ポットと二つのカップを持っていた。髪がゆるく肩に落ちていて、海の匂いがそのまま身体に染みついているように見えた。

「眠れなかったの」と、彼女は静かに言った。

「僕も」

彼女は頷き、小さく笑った。
それはかつて東京で、深夜のコンビニ帰りに見せた、あの笑い方だった。

部屋に入ると、彼女はカップにポットから紅茶を注いだ。
湯気が立ちのぼり、その香りが部屋にゆっくり広がった。カモミールとミント。どこか、遠くの森の香りがした。

「なんだか、こうしてると変な感じ」

「変じゃないよ。自然なことだと思う」

「そうかな」

彼女はカップを両手で包みながら、窓際の椅子に腰を下ろした。窓の外では海がまだ、夢の中にいるように眠っていた。漁火が三つ、等間隔に光っていた。

「ねえ」と、彼女が言った。「あの頃、私たちって、何かを待ってたのかな?」

「何かって?」

「わからない。奇跡とか、変化とか。でも、結局何も起きなかった気がしてて。だから、怖くなったんだと思う」

「それは、きっと僕のせいだ」

「違う。そういうことじゃないの。ただ、自分が透明になっていく気がしたの。毎日、何も起きないことで、少しずつ、誰でもなくなっていくような……そんな感じ」

僕は返す言葉が見つからず、ただうなずいた。
彼女の言う“透明になる感覚”を、僕も知っていた。それは都会の朝の満員電車の中で、カフェの窓越しにぼんやりと過ごす午後の中で、僕の中にも静かに染み込んでいた。

「でも今は少しだけ違うの」と、彼女は続けた。「ここにいると、自分の輪郭が戻ってくる感じがする」

「それは、よかった」

彼女はカップをテーブルに置き、しばらく窓の外を見ていた。
波の音が、まるで遠い昔の記憶のように、静かに耳の奥を撫でていく。

「今夜だけ、ここにいていい?」
彼女は振り返らずに言った。声は、とても穏やかだった。

「もちろん」

僕は答えた。短く、でも確かに。

何も特別なことは起こらなかった。
ただ、ふたりで同じ部屋にいて、海を見て、紅茶を飲み、しばらくの間、誰にもならなくていい時間を生きていた。

その夜、僕たちはベッドには入らなかった。
ソファと床に座り込んで、音楽も流さず、話すこともほとんどなく、ただ時の流れに身を任せた。

気づけば、窓の外の空が、ほんのすこし白み始めていた。
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