煙草と雨音

ドルドレオン

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部屋に入ると、最初に感じたのは匂いだった。古い木材と洗い立てのシーツの匂いが混ざり合って、どこか懐かしい、名前のない記憶を呼び起こすような香りだった。

荷物をベッドの横に置いて、カーテンをそっと開けた。

その瞬間、海がすべてを覆った。

大きな窓の向こうに、墨を流したような灰青色の海が、ほとんど音もなく広がっていた。日が沈みきった後の空は、まるで時間を溶かしたような色をしていた。藍と紫が交じり合い、遠くの雲は淡く光っていた。まるで誰かが筆で空に夢を描いたかのようだった。

波は静かに岸を撫でていた。ひとつひとつの波が、遠い記憶をそっと運んでくるようだった。昔、ふたりで夜の浜辺を歩いたこと。沈黙の中で指先が触れ合ったこと。誰にも言えなかった言葉が、波にさらわれていったこと。

窓を少しだけ開けると、潮の匂いが部屋に流れ込んできた。その匂いは、まるで目に見えない精霊のように、部屋の壁や天井をゆっくりと撫でていった。

僕はソファに身を沈め、グラスに水を注いだ。氷はない。ただの水。でも、それを飲むたびに、身体の中からゆっくりと現実が削がれていくような気がした。

目の前の海は、まるで巨大な鏡のようだった。空と心が映り込み、どこまでが外で、どこからが自分なのか、わからなくなっていく。

たぶん、これは夢なんだろう。そんなふうに思った。
でももしこれが夢だとしても、僕は目覚めなくてもいいと思った。

遠く、漁火がひとつ、またひとつと灯りはじめた。まるで夜空から零れた星が、海に降りてきたみたいだった。

僕はそっと目を閉じた。耳の奥で、波と風と、彼女の声が混じり合って、ひとつの音楽のように流れていた。現実と夢の境目が、ぼんやりと溶けていった。

そのまま眠ってしまってもよかった。けれど、なぜだか今夜は、眠るのが惜しかった。

そういう夜が、人生にはたまに訪れる。静かで、何も起きないのに、何か大切なものが確かに存在しているような夜。

僕は煙草に手を伸ばし、思いとどまり、また海を見た。

その海は、相変わらず何も語らず、ただそこに在り続けていた。
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