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ロビーのソファは少し硬かったけれど、座っていると気持ちがゆっくりと解けていく感じがした。壁にかかった安っぽい風景画と、時計の針の音が、無言の空間を埋めていた。
しばらくして、彼女がトレイにマグカップを二つ乗せて戻ってきた。
「ミルクと砂糖、なしでよかったよね?」
「うん、覚えててくれたんだな」
「そういうのって、忘れないの。不思議と」
僕はコーヒーをひと口飲んだ。苦くて熱かった。でもそれが妙に懐かしかった。まるであの部屋でふたりで過ごしていた頃の空気を、そのまま飲み込んだような気がした。
「ここでの暮らしは、悪くない?」
彼女は少しだけ考えてから、頷いた。
「悪くないよ。海の音って、ちゃんと聞こうとしないと聞こえないの。最初はそれがもどかしかった。でも慣れてくると、それがいいの。自分の中のノイズが、少しずつ減っていく感じ」
「東京はノイズばっかりだったもんな」
「うん。いろんな音が重なりすぎて、何が大事なのか、よくわからなくなる」
彼女はカップを両手で包むように持って、黙った。窓の外では、雲が海の向こうへ流れていくのが見えた。風は止んでいた。
「なんで、あのとき黙っていなくなったんだ?」
僕はそれを言ってしまってから、少しだけ後悔した。でも、ここまで来て何も聞かないのは、やっぱり嘘だった。
彼女は視線をカップの中に落としたまま、しばらく動かなかった。言葉を選んでいるというより、何かを沈めているように見えた。
「怖かったの」
「何が?」
「自分が、このまま何も変わらずに、あなたの隣で時間だけを過ごしていくことが。毎日が少しずつ擦り減っていく感じがして、それがね、私には……苦しかった」
「でも、それを言えばよかったじゃないか」
「言ったら、きっとあなたは引き止めたでしょ?」
僕は何も言えなかった。彼女の声には、確信のような静けさがあった。
「あなたは、優しいから。ちゃんと話したら、きっと私、行けなかった」
「それは——」
「ううん。わかってる。私の勝手だった。だけど、あの時の私は、それしかできなかったの」
ロビーに、電話の内線が一瞬だけ鳴って止んだ。誰かが遠くで階段を上る足音がして、それもやがて消えた。
僕たちは、しばらく何も言わずに座っていた。沈黙は重くなかった。ただ、海の底にじっと沈んでいるような感じだった。
やがて彼女が立ち上がった。
「今日は、空いてる部屋あるから。よかったら泊まっていって。海、明日の朝がいちばんきれい」
「ありがとう」
それしか言えなかった。でも、それで十分だったような気もした。
彼女は僕に部屋の鍵を渡すと、柔らかく微笑んだ。その笑顔には、春にいなくなったあの日の影が、少しだけ混ざっていた。
しばらくして、彼女がトレイにマグカップを二つ乗せて戻ってきた。
「ミルクと砂糖、なしでよかったよね?」
「うん、覚えててくれたんだな」
「そういうのって、忘れないの。不思議と」
僕はコーヒーをひと口飲んだ。苦くて熱かった。でもそれが妙に懐かしかった。まるであの部屋でふたりで過ごしていた頃の空気を、そのまま飲み込んだような気がした。
「ここでの暮らしは、悪くない?」
彼女は少しだけ考えてから、頷いた。
「悪くないよ。海の音って、ちゃんと聞こうとしないと聞こえないの。最初はそれがもどかしかった。でも慣れてくると、それがいいの。自分の中のノイズが、少しずつ減っていく感じ」
「東京はノイズばっかりだったもんな」
「うん。いろんな音が重なりすぎて、何が大事なのか、よくわからなくなる」
彼女はカップを両手で包むように持って、黙った。窓の外では、雲が海の向こうへ流れていくのが見えた。風は止んでいた。
「なんで、あのとき黙っていなくなったんだ?」
僕はそれを言ってしまってから、少しだけ後悔した。でも、ここまで来て何も聞かないのは、やっぱり嘘だった。
彼女は視線をカップの中に落としたまま、しばらく動かなかった。言葉を選んでいるというより、何かを沈めているように見えた。
「怖かったの」
「何が?」
「自分が、このまま何も変わらずに、あなたの隣で時間だけを過ごしていくことが。毎日が少しずつ擦り減っていく感じがして、それがね、私には……苦しかった」
「でも、それを言えばよかったじゃないか」
「言ったら、きっとあなたは引き止めたでしょ?」
僕は何も言えなかった。彼女の声には、確信のような静けさがあった。
「あなたは、優しいから。ちゃんと話したら、きっと私、行けなかった」
「それは——」
「ううん。わかってる。私の勝手だった。だけど、あの時の私は、それしかできなかったの」
ロビーに、電話の内線が一瞬だけ鳴って止んだ。誰かが遠くで階段を上る足音がして、それもやがて消えた。
僕たちは、しばらく何も言わずに座っていた。沈黙は重くなかった。ただ、海の底にじっと沈んでいるような感じだった。
やがて彼女が立ち上がった。
「今日は、空いてる部屋あるから。よかったら泊まっていって。海、明日の朝がいちばんきれい」
「ありがとう」
それしか言えなかった。でも、それで十分だったような気もした。
彼女は僕に部屋の鍵を渡すと、柔らかく微笑んだ。その笑顔には、春にいなくなったあの日の影が、少しだけ混ざっていた。
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