煙草と雨音

ドルドレオン

文字の大きさ
4 / 10

しおりを挟む
ロビーのソファは少し硬かったけれど、座っていると気持ちがゆっくりと解けていく感じがした。壁にかかった安っぽい風景画と、時計の針の音が、無言の空間を埋めていた。

しばらくして、彼女がトレイにマグカップを二つ乗せて戻ってきた。

「ミルクと砂糖、なしでよかったよね?」

「うん、覚えててくれたんだな」

「そういうのって、忘れないの。不思議と」

僕はコーヒーをひと口飲んだ。苦くて熱かった。でもそれが妙に懐かしかった。まるであの部屋でふたりで過ごしていた頃の空気を、そのまま飲み込んだような気がした。

「ここでの暮らしは、悪くない?」

彼女は少しだけ考えてから、頷いた。

「悪くないよ。海の音って、ちゃんと聞こうとしないと聞こえないの。最初はそれがもどかしかった。でも慣れてくると、それがいいの。自分の中のノイズが、少しずつ減っていく感じ」

「東京はノイズばっかりだったもんな」

「うん。いろんな音が重なりすぎて、何が大事なのか、よくわからなくなる」

彼女はカップを両手で包むように持って、黙った。窓の外では、雲が海の向こうへ流れていくのが見えた。風は止んでいた。

「なんで、あのとき黙っていなくなったんだ?」

僕はそれを言ってしまってから、少しだけ後悔した。でも、ここまで来て何も聞かないのは、やっぱり嘘だった。

彼女は視線をカップの中に落としたまま、しばらく動かなかった。言葉を選んでいるというより、何かを沈めているように見えた。

「怖かったの」

「何が?」

「自分が、このまま何も変わらずに、あなたの隣で時間だけを過ごしていくことが。毎日が少しずつ擦り減っていく感じがして、それがね、私には……苦しかった」

「でも、それを言えばよかったじゃないか」

「言ったら、きっとあなたは引き止めたでしょ?」

僕は何も言えなかった。彼女の声には、確信のような静けさがあった。

「あなたは、優しいから。ちゃんと話したら、きっと私、行けなかった」

「それは——」

「ううん。わかってる。私の勝手だった。だけど、あの時の私は、それしかできなかったの」

ロビーに、電話の内線が一瞬だけ鳴って止んだ。誰かが遠くで階段を上る足音がして、それもやがて消えた。

僕たちは、しばらく何も言わずに座っていた。沈黙は重くなかった。ただ、海の底にじっと沈んでいるような感じだった。

やがて彼女が立ち上がった。

「今日は、空いてる部屋あるから。よかったら泊まっていって。海、明日の朝がいちばんきれい」

「ありがとう」

それしか言えなかった。でも、それで十分だったような気もした。

彼女は僕に部屋の鍵を渡すと、柔らかく微笑んだ。その笑顔には、春にいなくなったあの日の影が、少しだけ混ざっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

悪役令嬢に相応しいエンディング

無色
恋愛
 月の光のように美しく気高い、公爵令嬢ルナティア=ミューラー。  ある日彼女は卒業パーティーで、王子アイベックに国外追放を告げられる。  さらには平民上がりの令嬢ナージャと婚約を宣言した。  ナージャはルナティアの悪い評判をアイベックに吹聴し、彼女を貶めたのだ。  だが彼らは愚かにも知らなかった。  ルナティアには、ミューラー家には、貴族の令嬢たちしか知らない裏の顔があるということを。  そして、待ち受けるエンディングを。

侯爵令嬢の置き土産

ひろたひかる
恋愛
侯爵令嬢マリエは婚約者であるドナルドから婚約を解消すると告げられた。マリエは動揺しつつも了承し、「私は忘れません」と言い置いて去っていった。***婚約破棄ネタですが、悪役令嬢とか転生、乙女ゲーとかの要素は皆無です。***今のところ本編を一話、別視点で一話の二話の投稿を予定しています。さくっと終わります。 「小説家になろう」でも同一の内容で投稿しております。

ナイスミドルな国王に生まれ変わったことを利用してヒロインを成敗する

ぴぴみ
恋愛
少し前まで普通のアラサーOLだった莉乃。ある時目を覚ますとなんだか身体が重いことに気がついて…。声は低いバリトン。鏡に写るはナイスミドルなおじ様。 皆畏れるような眼差しで私を陛下と呼ぶ。 ヒロインが悪役令嬢からの被害を訴える。元女として前世の記憶持ちとしてこの状況違和感しかないのですが…。 なんとか成敗してみたい。

【短編】その婚約破棄、本当に大丈夫ですか?

佐倉穂波
恋愛
「僕は“真実の愛”を見つけたんだ。意地悪をするような君との婚約は破棄する!」  テンプレートのような婚約破棄のセリフを聞いたフェリスの反応は?  よくある「婚約破棄」のお話。  勢いのまま書いた短い物語です。  カテゴリーを児童書にしていたのですが、投稿ガイドラインを確認したら「婚約破棄」はカテゴリーエラーと記載されていたので、恋愛に変更しました。

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

【短編】誰も幸せになんかなれない~悪役令嬢の終末~

真辺わ人
恋愛
私は前世の記憶を持つ悪役令嬢。 自分が愛する人に裏切られて殺される未来を知っている。 回避したいけれど回避できなかったらどうしたらいいの? *後編投稿済み。これにて完結です。 *ハピエンではないので注意。

婚約破棄ですか。ゲームみたいに上手くはいきませんよ?

ゆるり
恋愛
公爵令嬢スカーレットは婚約者を紹介された時に前世を思い出した。そして、この世界が前世での乙女ゲームの世界に似ていることに気付く。シナリオなんて気にせず生きていくことを決めたが、学園にヒロイン気取りの少女が入学してきたことで、スカーレットの運命が変わっていく。全6話予定

処理中です...