8 / 10
8
しおりを挟む
彼女が出ていったドアの音が消えてから、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋には、彼女が淹れたままの紅茶の香りが、まだほのかに残っていた。
窓の外では、朝の海が光を受けてゆっくりと波を返していた。冷たいけれど、どこかやわらかい、そんな色だった。
僕はゆっくりとシャワーを浴び、白いシャツに着替えた。
鏡を見ると、どこか顔が変わったように感じた。眠っていないのに、目の奥はやけに澄んでいた。
チェックアウトの時間にはまだ早かったけれど、僕はフロントに鍵を返すことにした。ロビーは無人だった。カウンターに鍵をそっと置くと、備え付けのメモパッドに一言だけ書いた。
また来ます。
部屋と海に、よろしく。
それから僕は、旅館を出た。
海岸まで歩いて五分ほどだった。
砂浜は昨夜の雨のせいでしっとりと濡れていた。足元を少しだけ波がかすめて、靴の底に冷たさが染みた。けれど不思議と、不快ではなかった。
僕は海を見た。どこまでも広がる、青と灰の境界線。
その向こうに彼女がいる気がした。もう手は届かないかもしれないけれど、それでも彼女がこの世界のどこかでちゃんと生きている、それだけで十分な気がした。
ポケットの中には、さっきまでの鍵の重さがまだ残っていた。
代わりにそこに残っていたのは、小さな紙切れだった。
彼女の字で、こう書いてあった。
「私も、もし帰る場所を持てるなら——たぶん、そこだと思う。」
僕はそれを読み、深く息を吐いた。
煙草を取り出し、火をつけた。風が少し強くて、ライターの火がなかなかつかなかったが、ようやく煙が肺に入ったとき、なぜかほんの少し、笑ってしまった。
人生というのは奇妙なものだ。
誰かが去って、何も変わらないように見えて、でも確実に何かが変わっている。
東京に帰ろう。
部屋は少し埃をかぶっているかもしれない。けれど、それも悪くない。
海を背に、僕は駅へ向かって歩き出した。
肩に朝の風を受けながら、自分が今、ほんのわずかに“まっすぐ”歩いていることに気づいた。
そしてそのことが、今の僕にとっては、十分すぎるほどかっこよかった。
部屋には、彼女が淹れたままの紅茶の香りが、まだほのかに残っていた。
窓の外では、朝の海が光を受けてゆっくりと波を返していた。冷たいけれど、どこかやわらかい、そんな色だった。
僕はゆっくりとシャワーを浴び、白いシャツに着替えた。
鏡を見ると、どこか顔が変わったように感じた。眠っていないのに、目の奥はやけに澄んでいた。
チェックアウトの時間にはまだ早かったけれど、僕はフロントに鍵を返すことにした。ロビーは無人だった。カウンターに鍵をそっと置くと、備え付けのメモパッドに一言だけ書いた。
また来ます。
部屋と海に、よろしく。
それから僕は、旅館を出た。
海岸まで歩いて五分ほどだった。
砂浜は昨夜の雨のせいでしっとりと濡れていた。足元を少しだけ波がかすめて、靴の底に冷たさが染みた。けれど不思議と、不快ではなかった。
僕は海を見た。どこまでも広がる、青と灰の境界線。
その向こうに彼女がいる気がした。もう手は届かないかもしれないけれど、それでも彼女がこの世界のどこかでちゃんと生きている、それだけで十分な気がした。
ポケットの中には、さっきまでの鍵の重さがまだ残っていた。
代わりにそこに残っていたのは、小さな紙切れだった。
彼女の字で、こう書いてあった。
「私も、もし帰る場所を持てるなら——たぶん、そこだと思う。」
僕はそれを読み、深く息を吐いた。
煙草を取り出し、火をつけた。風が少し強くて、ライターの火がなかなかつかなかったが、ようやく煙が肺に入ったとき、なぜかほんの少し、笑ってしまった。
人生というのは奇妙なものだ。
誰かが去って、何も変わらないように見えて、でも確実に何かが変わっている。
東京に帰ろう。
部屋は少し埃をかぶっているかもしれない。けれど、それも悪くない。
海を背に、僕は駅へ向かって歩き出した。
肩に朝の風を受けながら、自分が今、ほんのわずかに“まっすぐ”歩いていることに気づいた。
そしてそのことが、今の僕にとっては、十分すぎるほどかっこよかった。
0
あなたにおすすめの小説
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
最近のよくある乙女ゲームの結末
叶 望
恋愛
なぜか行うことすべてが裏目に出てしまい呪われているのではないかと王妃に相談する。実はこの世界は乙女ゲームの世界だが、ヒロイン以外はその事を知らない。
※小説家になろうにも投稿しています
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
悪役令嬢と言われ冤罪で追放されたけど、実力でざまぁしてしまった。
三谷朱花
恋愛
レナ・フルサールは元公爵令嬢。何もしていないはずなのに、気が付けば悪役令嬢と呼ばれ、公爵家を追放されるはめに。それまで高スペックと魔力の強さから王太子妃として望まれたはずなのに、スペックも低い魔力もほとんどないマリアンヌ・ゴッセ男爵令嬢が、王太子妃になることに。
何度も断罪を回避しようとしたのに!
では、こんな国など出ていきます!
【完結】悪役令嬢は婚約者を差し上げたい
三谷朱花
恋愛
アリス・デッセ侯爵令嬢と婚約者であるハース・マーヴィン侯爵令息の出会いは最悪だった。
そして、学園の食堂で、アリスは、「ハース様を解放して欲しい」というメルル・アーディン侯爵令嬢の言葉に、頷こうとした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる