煙草と雨音

ドルドレオン

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彼女が出ていったドアの音が消えてから、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋には、彼女が淹れたままの紅茶の香りが、まだほのかに残っていた。
窓の外では、朝の海が光を受けてゆっくりと波を返していた。冷たいけれど、どこかやわらかい、そんな色だった。

僕はゆっくりとシャワーを浴び、白いシャツに着替えた。
鏡を見ると、どこか顔が変わったように感じた。眠っていないのに、目の奥はやけに澄んでいた。

チェックアウトの時間にはまだ早かったけれど、僕はフロントに鍵を返すことにした。ロビーは無人だった。カウンターに鍵をそっと置くと、備え付けのメモパッドに一言だけ書いた。

また来ます。
部屋と海に、よろしく。

それから僕は、旅館を出た。

海岸まで歩いて五分ほどだった。
砂浜は昨夜の雨のせいでしっとりと濡れていた。足元を少しだけ波がかすめて、靴の底に冷たさが染みた。けれど不思議と、不快ではなかった。

僕は海を見た。どこまでも広がる、青と灰の境界線。
その向こうに彼女がいる気がした。もう手は届かないかもしれないけれど、それでも彼女がこの世界のどこかでちゃんと生きている、それだけで十分な気がした。

ポケットの中には、さっきまでの鍵の重さがまだ残っていた。
代わりにそこに残っていたのは、小さな紙切れだった。

彼女の字で、こう書いてあった。

「私も、もし帰る場所を持てるなら——たぶん、そこだと思う。」

僕はそれを読み、深く息を吐いた。
煙草を取り出し、火をつけた。風が少し強くて、ライターの火がなかなかつかなかったが、ようやく煙が肺に入ったとき、なぜかほんの少し、笑ってしまった。

人生というのは奇妙なものだ。
誰かが去って、何も変わらないように見えて、でも確実に何かが変わっている。

東京に帰ろう。
部屋は少し埃をかぶっているかもしれない。けれど、それも悪くない。

海を背に、僕は駅へ向かって歩き出した。
肩に朝の風を受けながら、自分が今、ほんのわずかに“まっすぐ”歩いていることに気づいた。

そしてそのことが、今の僕にとっては、十分すぎるほどかっこよかった。
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