煙草と雨音

ドルドレオン

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季節はもう冬に入っていた。
昼の光は淡く、夕方の影は早すぎた。通りを歩く人々は皆、うつむき加減で足早だった。

その日、僕は午前中で仕事を切り上げて、近所の古いジャズ喫茶で時間を潰していた。
スピーカーからはビル・エヴァンスの《Peace Piece》が流れていて、ミルクなしのホットコーヒーが冷めてゆく時間を、ただ静かに見送っていた。

そして午後三時過ぎ、部屋に戻った。

鍵を開け、ドアを押し、靴を脱ぐ。
変わらないはずの部屋が、ほんのわずかに、何か違って感じられた。

それは香りだった。
ほんのりとした、カモミールとミントの残り香。

僕は一瞬、足を止めた。

リビングの扉を開けると、彼女がいた。

何も言わず、ソファに座っていた。
窓の外には低く雲が垂れ込めていて、冬の街が灰色の毛布のように静かに眠っていた。

彼女は僕を見上げ、ほんの少し首を傾げて、まるで一度もいなくなったことがなかったように言った。

「ストーブ、勝手につけた。寒かったから」

僕は頷き、コートを脱いで、壁のフックにかけた。
そして、そのまま彼女の隣に腰を下ろした。

「戻ってきたのか?」

「ううん、たぶん違う。ただ……寄っただけ。ちょっと思い出したくなったの、この部屋の匂いと、あなたの沈黙」

「僕の沈黙?」

「うん。あなたの沈黙って、変に優しい。何かを押し付けてこない。それが、好きだったの。前も、今も」

僕は言葉を探したけれど、うまく見つからなかった。
かわりに、目の前のテーブルに置かれたカップに気づいた。彼女が淹れた紅茶が、もう少しで冷めきろうとしていた。

彼女が立ち上がり、キッチンに向かった。

「また淹れようか? 今度は温かいうちに、ちゃんと飲んでほしいから」

「うん、頼むよ」

そのやりとりの間に、外の雲が少しだけ割れて、午後の光が淡く部屋に差し込んできた。
その光の中で、彼女の横顔がほんの一瞬、まるで昔の夢の中で見た誰かのように見えた。

彼女は湯を沸かしながら、ふと振り返った。

「あなたは、変わってないね」

「変わらないのが、僕の取り柄だから」

彼女は笑った。短く、でも確かに。
その笑顔を見て、僕は自分の心のどこかが、すこしだけ音を立てて動いたのを感じた。

そして思った。

――たぶん、人生はこういうふうに続いていくんだ。
劇的な何かが起こるのではなくて、静かに、戻ってくるものがあって、それを受け入れるだけ。

ただ、それだけでいいのだと。
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