雨の匂いを覚えている

ドルドレオン

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夏帆は再び赤い傘を壁際に立てかけると、ふっと小さく息を吐いた。
それはため息というより、何かを置いていくための呼吸だった。
彼女の視線は、部屋の隅に置かれた小さな電子ピアノへと向かう。

「……まだ、弾いてる?」

「いや、最近は全然」

「音、出る?」

「出るとは思うけど。埃はかぶってる」

夏帆は立ち上がり、迷いなくその電子ピアノの前に座った。
白い鍵盤をひとつだけ軽く押す。
音が鳴った。
それは乾いていて、どこか遠くの空気を伝ってやってきたような音だった。

「ねえ、この部屋って……少し、形が変わってない?」

彼女が不意に言った。

「形?」

「ほら、あの窓。前より少し狭くなってる気がする。あと天井、こんなに低かった?」

僕は部屋を見回した。
たしかに、どこか変だ。
家具はすべて同じ場所にある。照明も、壁紙も変わっていない。
けれど、部屋そのものの“重心”が、わずかにずれているような気がする。

「気のせいじゃないと思う」
彼女は言った。
「さっき階段を上ってくる途中、壁の色が変わった瞬間があった。
一段ごとに、記憶のなかにしかない匂いがした。
それから、ドアに手をかけたとき、少し迷ったの。これは本当に“あなたの部屋”なのか、それとも私の記憶の中の部屋なのかって」

僕は言葉を失った。
現実が、彼女の言葉に合わせて少しずつ形を変えていくのを感じた。

「どういうことなんだ?」

「たぶんね」
彼女はピアノの鍵盤に両手を置いた。
「この場所は、現実の端っこなの。夢と現のあいだにある、わずかな隙間。
人がふとしたときに落ちる場所。
音楽がまだ生きていて、雨の匂いが時間より先に届くような場所。
そして、私が今、存在できる場所」

「じゃあ、君は——」

「私は、もうずっとあっち側の人間なの。
現実の名前も、住民票も、銀行口座も、なくなってしまった人間。
でも音があれば、こうして一瞬だけ戻ってこられる。
音ってすごいよ。時間を超えるし、空間も、意識も、境界も全部壊すから」

彼女の指が、静かに鍵盤を叩いた。
《My Foolish Heart》。
雨の夜にふさわしい、ゆっくりと溶けていくような旋律。
それは現実の空気を少しずつ柔らかくし、壁の色を変え、天井の高ささえ曖昧にした。

僕は、少しめまいを覚えた。
それでも言った。

「もし、君がもう“こっち”にいないなら……なんで戻ってきた?」

演奏を止めずに、夏帆は答えた。

「一度だけ、“こっち”を選びたくなったの。
最後のジントニックが、ちゃんと薄いかどうか、確認したくて」

僕は苦笑した。
彼女の言葉には、常に答えがなかった。
でも、なぜか腑に落ちてしまう。

彼女は曲の最後の和音を押すと、手を膝の上に置いて僕を見た。

「ねえ、もし、あなたがこっちの世界に飽きたなら——
そっち側じゃなくて、こっち側に来ることもできるよ。
記憶の中の町で、生きるっていうのも、悪くない」

「君と一緒に?」

「うん。
でもその代わり、現実の全部を少しずつ手放す必要がある。
名前も、未来も、時計も、全部。
残るのは音と匂いと、曖昧な会話と、静かな雨だけ」

僕は少しだけ考えて、それから訊いた。

「それって、つまり——死ぬってことか?」

彼女は、否定もしなければ肯定もしなかった。
ただ、小さく微笑んだ。

「違うよ」と彼女は静かに言った。
「“選ぶ”ってこと。
死ぬんじゃなくて、“在り方を選ぶ”っていうこと」
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