雨の匂いを覚えている

ドルドレオン

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東京の夜は、思った以上に音を含んでいる。
それは日常の断片だったり、記憶の亡霊だったり、あるいはただの風の音かもしれない。
けれどその夜、僕の部屋の前の廊下に響いた足音は、どこか現実の輪郭を持っていた。

僕はそっと立ち上がり、ドアに耳を当てた。
乾いた、細い足音が階段を上ってくる。五階の踊り場でいったん止まり、それから、こちらへゆっくりと近づいてきて——止んだ。

ノックはなかった。

代わりに、ドアの向こうから静かな声がした。
「……ジントニック、まだ残ってる?」

一瞬、僕は息が詰まった。
その声は、明らかに夏帆のものだった。
間違いようがない。
彼女の声は、あらゆる音の中から容易にすくい上げることができる。
それは、夜の底に沈んだピアノの音みたいに、耳の奥にやさしく沈み込んでくるのだ。

僕はドアを開けた。
そこに、夏帆が立っていた。
傘もささず、髪は濡れて、まるで時間をひとつ飛び越えてきたような顔をして。
彼女は、まるで五年間の空白などなかったかのように、ごく自然に微笑んだ。

「まさか——本当に来るとは思ってなかった」
僕はそれだけ言った。

「私も、来るとは思ってなかった」
彼女は部屋に入ると、いつものように靴を脱いで、勝手にソファに腰を下ろした。
赤い傘を見つけて、にやりとする。

「まだ取ってたんだ、それ」

「処分する理由もなかったし」

「傘ってさ、自分より先にいなくなるものじゃん。電車に忘れたり、風に飛ばされたり。だからこれは……特別な存在ってことになるね」

「たぶん君だけが、傘を人格化できると思うよ」

彼女は黙って笑った。
それからグラスに残ったジントニックを手に取ると、ひとくちだけ飲んだ。

「相変わらず、薄いね。アルコールって、嫌われたくないからすぐ控えめになるんだよ。ね、覚えてる?」

「覚えてる」
「っていうか、それ、君が言ったセリフだろ」

「そうだっけ?」
彼女はわざとらしく首を傾げた。
「私って、わりと良いこと言うのね」

沈黙が部屋を包んだ。
エアコンの送風音が、静かに壁を撫でている。
僕はその間に、どうして彼女がここにいるのか、どうやってこの時間に戻ってきたのか、それを考えるべきだったのかもしれない。
でも、できなかった。

「……どこに行ってたの?」

僕は訊いた。

彼女は少しだけ口元を動かし、言った。
「地図にない町」

「本気で言ってる?」

「うん。本気で言ってる。地図にも、グーグルにも、誰の記憶にも存在しない町。
でも私、その町でしばらく暮らしてたの。あのジャズバーの跡地みたいな店で、週に一度ピアノを弾いて。誰も名前を呼ばない。誰も話しかけてこない。音だけがちゃんと生きてる場所」

「それは……幻だったのか?」

彼女は答えなかった。
その代わり、立ち上がって部屋の隅に置かれた赤い傘を手に取った。

「これ、持って帰っていい?」

「もちろん」

「ありがとう。でもね——たぶん、また置いてくと思う」

「どうして?」

「私がいなくなったあと、この傘がここにあると、あなたはまた私のことを思い出すでしょ?
そういう風に存在するのって、いいなって思ったの」

「君は、まだいなくなるつもりなのか?」

夏帆は、まっすぐに僕の目を見た。
彼女の瞳の中には、いくつもの知らない空があった。
そして彼女は、静かに言った。

「いなくなるっていうか……私は、どこにも“いる”ことができないの。たぶん、ずっと前から」
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