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彼女が残していった赤い傘は、今も僕の部屋の片隅に立てかけてある。
細身の骨組みに、ビロードのような手触りの布地。
開くと、まるで落ち着きのない鳥が翼を広げるような形をしている。
正直、傘としての機能はお世辞にも優れているとは言えなかった。
けれど、夏帆にはそれが妙に似合っていた。まるで彼女の影が、その傘の形に変換されたかのように。
彼女がそれを初めて持ってきた夜のことを、僕は今でもよく覚えている。
「赤ってさ、実は一番寂しい色だと思わない?」
彼女はそう言いながら、カウンターに腰掛けた。
「どうして?」と僕は訊いた。
「むしろ赤って、情熱とか活力とか、そういうイメージがあると思うけど」
「うん、それは“赤を見てる人”の意見でしょ」
彼女はグラスの氷を音も立てずに回しながら言った。
「赤そのものになったらわかるよ。あれは常に誰かに注目されてる色。ずっと見られてる。求められてる。でも誰にも近づけない。ほら、信号もそう。赤は止まれ、でしょ?」
僕は黙ってグラスを磨いていた。
彼女の言葉には、いつも僅かな温度差があった。
真夏に少しだけ混ざった夜風のように、どこか正気じゃないが、心地よい。
「それで、なんで今日は赤い傘なんだ?」
「夢に出てきたの」
彼女はさらりと言った。
「朝方、雨の中を歩いてる夢。私は何かを探してるんだけど、ぜんぜん見つからない。で、ふと気づいたら、私が差してる傘が赤くて。ああ、これかって思った」
「何が“これか”なのか、わかんないけどね」と僕は笑った。
「私もわかんない。夢だからさ。でも、目が覚めてすぐネットで“赤い傘”って検索したら、これが出てきた。ヴィンテージで、1980年代のパリ製。届いたとき、ちょっとドキドキした」
「夢で見た傘を買う人って、そういないと思う」
「ふつうはね。でも、私ふつうじゃないし」
会話はそこまでだった。
彼女はその後すぐにピアノを弾き始めた。
バド・パウエルの《I'll Keep Loving You》。
あれほど寂しさをたたえた演奏は、あの夜が最初で最後だった。
夜はますます深くなっていた。
窓の外の雨は細くなり、代わりに風が吹き始めていた。
僕は無意識に、部屋の隅に置いた赤い傘に視線を向けた。
ふと、妙なことに気づいた。
傘の柄が、以前よりも少し右に傾いている。
誰かが触れたような痕跡。けれど部屋に他の人間はいない。
僕は少しのあいだ、呼吸を止めた。
雨の音が、少しだけ変わった。
まるで、誰かが階段を上ってくるようなリズムを刻んでいる。
まさか、と思った。
いや、まさかでもなかった。
夏帆という存在は、いつだって「まさか」の直前で立ち止まるような女だったから。
細身の骨組みに、ビロードのような手触りの布地。
開くと、まるで落ち着きのない鳥が翼を広げるような形をしている。
正直、傘としての機能はお世辞にも優れているとは言えなかった。
けれど、夏帆にはそれが妙に似合っていた。まるで彼女の影が、その傘の形に変換されたかのように。
彼女がそれを初めて持ってきた夜のことを、僕は今でもよく覚えている。
「赤ってさ、実は一番寂しい色だと思わない?」
彼女はそう言いながら、カウンターに腰掛けた。
「どうして?」と僕は訊いた。
「むしろ赤って、情熱とか活力とか、そういうイメージがあると思うけど」
「うん、それは“赤を見てる人”の意見でしょ」
彼女はグラスの氷を音も立てずに回しながら言った。
「赤そのものになったらわかるよ。あれは常に誰かに注目されてる色。ずっと見られてる。求められてる。でも誰にも近づけない。ほら、信号もそう。赤は止まれ、でしょ?」
僕は黙ってグラスを磨いていた。
彼女の言葉には、いつも僅かな温度差があった。
真夏に少しだけ混ざった夜風のように、どこか正気じゃないが、心地よい。
「それで、なんで今日は赤い傘なんだ?」
「夢に出てきたの」
彼女はさらりと言った。
「朝方、雨の中を歩いてる夢。私は何かを探してるんだけど、ぜんぜん見つからない。で、ふと気づいたら、私が差してる傘が赤くて。ああ、これかって思った」
「何が“これか”なのか、わかんないけどね」と僕は笑った。
「私もわかんない。夢だからさ。でも、目が覚めてすぐネットで“赤い傘”って検索したら、これが出てきた。ヴィンテージで、1980年代のパリ製。届いたとき、ちょっとドキドキした」
「夢で見た傘を買う人って、そういないと思う」
「ふつうはね。でも、私ふつうじゃないし」
会話はそこまでだった。
彼女はその後すぐにピアノを弾き始めた。
バド・パウエルの《I'll Keep Loving You》。
あれほど寂しさをたたえた演奏は、あの夜が最初で最後だった。
夜はますます深くなっていた。
窓の外の雨は細くなり、代わりに風が吹き始めていた。
僕は無意識に、部屋の隅に置いた赤い傘に視線を向けた。
ふと、妙なことに気づいた。
傘の柄が、以前よりも少し右に傾いている。
誰かが触れたような痕跡。けれど部屋に他の人間はいない。
僕は少しのあいだ、呼吸を止めた。
雨の音が、少しだけ変わった。
まるで、誰かが階段を上ってくるようなリズムを刻んでいる。
まさか、と思った。
いや、まさかでもなかった。
夏帆という存在は、いつだって「まさか」の直前で立ち止まるような女だったから。
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