雨の匂いを覚えている

ドルドレオン

文字の大きさ
2 / 5

しおりを挟む
彼女が残していった赤い傘は、今も僕の部屋の片隅に立てかけてある。
細身の骨組みに、ビロードのような手触りの布地。
開くと、まるで落ち着きのない鳥が翼を広げるような形をしている。
正直、傘としての機能はお世辞にも優れているとは言えなかった。
けれど、夏帆にはそれが妙に似合っていた。まるで彼女の影が、その傘の形に変換されたかのように。

彼女がそれを初めて持ってきた夜のことを、僕は今でもよく覚えている。

「赤ってさ、実は一番寂しい色だと思わない?」
彼女はそう言いながら、カウンターに腰掛けた。

「どうして?」と僕は訊いた。
「むしろ赤って、情熱とか活力とか、そういうイメージがあると思うけど」

「うん、それは“赤を見てる人”の意見でしょ」
彼女はグラスの氷を音も立てずに回しながら言った。
「赤そのものになったらわかるよ。あれは常に誰かに注目されてる色。ずっと見られてる。求められてる。でも誰にも近づけない。ほら、信号もそう。赤は止まれ、でしょ?」

僕は黙ってグラスを磨いていた。
彼女の言葉には、いつも僅かな温度差があった。
真夏に少しだけ混ざった夜風のように、どこか正気じゃないが、心地よい。

「それで、なんで今日は赤い傘なんだ?」

「夢に出てきたの」
彼女はさらりと言った。
「朝方、雨の中を歩いてる夢。私は何かを探してるんだけど、ぜんぜん見つからない。で、ふと気づいたら、私が差してる傘が赤くて。ああ、これかって思った」

「何が“これか”なのか、わかんないけどね」と僕は笑った。

「私もわかんない。夢だからさ。でも、目が覚めてすぐネットで“赤い傘”って検索したら、これが出てきた。ヴィンテージで、1980年代のパリ製。届いたとき、ちょっとドキドキした」

「夢で見た傘を買う人って、そういないと思う」

「ふつうはね。でも、私ふつうじゃないし」

会話はそこまでだった。
彼女はその後すぐにピアノを弾き始めた。
バド・パウエルの《I'll Keep Loving You》。
あれほど寂しさをたたえた演奏は、あの夜が最初で最後だった。

夜はますます深くなっていた。
窓の外の雨は細くなり、代わりに風が吹き始めていた。
僕は無意識に、部屋の隅に置いた赤い傘に視線を向けた。

ふと、妙なことに気づいた。
傘の柄が、以前よりも少し右に傾いている。
誰かが触れたような痕跡。けれど部屋に他の人間はいない。
僕は少しのあいだ、呼吸を止めた。

雨の音が、少しだけ変わった。
まるで、誰かが階段を上ってくるようなリズムを刻んでいる。

まさか、と思った。
いや、まさかでもなかった。
夏帆という存在は、いつだって「まさか」の直前で立ち止まるような女だったから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる

椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。 その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。 ──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。 全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。 だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。 「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」 その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。 裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

処理中です...