雨の匂いを覚えている

ドルドレオン

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雨は午前3時を過ぎてから降り始めた。
最初は微かな音だった。部屋の隅で何かがこぼれ落ちるような、そんな気配。
僕はそのとき、古いビルの五階にある狭いワンルームで、バルザックの『ゴリオ爺さん』を読みながら、薄めたジントニックをちびちびと飲んでいた。こんな時間に、そんな本を読む理由は特にない。ただ、そういう夜が時々必要になるだけだ。

外は静まりかえっていた。いや、厳密に言えば“静かすぎた”。
東京の夜はいつだって何かしらの音を含んでいる。車の遠ざかる音、誰かがアパートのドアを閉める音、近くのコンビニの冷蔵庫が鳴らす控えめなブザー音。けれどその夜は、不自然なくらい無音だった。雨の音さえも、何かを包み隠しているように思えた。

僕はページを閉じ、窓の方へ目をやった。
ぼんやりとした街灯の光が、濡れたアスファルトをオレンジ色に照らしている。
人影はなかった。コンビニの看板だけが、寂しげに点滅している。たぶん、誰かがその光を見ている。けれどそれが誰かはわからない。

こんな夜には、かつて僕が知っていた女の子のことを思い出す。
名前は夏帆だった。
彼女は雨の匂いが好きだった。
「この匂いって、世界がひと息ついたみたいで落ち着くよね」と彼女は言った。
「酸素より、雨の匂いのほうが身体に合ってる気がする」とも。

その頃、僕たちは新宿のジャズバーで働いていた。
僕はカウンターでバーボンを注ぎ、彼女は週に三回、客の少ない夜にピアノを弾いた。
ビル・エヴァンスとか、セロニアス・モンクとか。
彼女は一度も譜面を見なかった。
「楽譜って、なんか他人の言葉を読んでるみたいでイヤなんだよね」と彼女は笑った。

彼女はいつも、どこかにいないような目をしていた。
少しだけ身体の外に心が浮かんでいるような、そんな感じだ。
僕は、彼女に恋をしていたかもしれないし、していなかったかもしれない。
少なくとも、あの頃の僕には、それをはっきり確かめる方法がなかった。

ある日、彼女は突然、姿を消した。
鍵を返すでもなく、バーにも何の連絡もせず、部屋に置いていた古いカセットテープと赤い傘だけを残して。
警察にも届けなかった。誰も彼女を本気で探そうとはしなかった。
なぜなら、彼女はどこかに消えていくために、あらかじめそこに現れていたような存在だったからだ。
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