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八月の終わりに、僕は海辺の町へ引っ越した。
引っ越した理由は、特にない。いや、理由はあったのかもしれないが、思い出そうとすると水の底に沈んでしまうように、輪郭を失ってしまうのだ。
町は眠たげで、空気に潮と麦茶のにおいが混じっていた。夕方になると、遠くの漁港から錆びた鐘の音が響く。人は少なく、猫が多かった。
僕の部屋は海沿いのアパートの二階で、夜になると波の音が床下からしみ出してくる。
その音を聞きながら、僕は眠れない夜をよく過ごした。眠れないというより、「眠りに行く方向が見つからない」と言ったほうが近い。
そんなある晩、ベランダに猫が現れた。
灰色の、目の青い猫だった。毛並みが異様に整っていて、まるで丁寧に手入れされた記憶の断片のようだった。
猫は僕を見ると、小さく「ミャ」と鳴いた。それは音というより、ほとんど言葉だった。
「ついてきて」と猫は言った。
僕はためらったが、なぜか靴を履き、猫のあとを追った。
夜の町は驚くほど静かで、海のほうから風が吹いていた。
猫は砂浜へ出て、そしてためらいもなく水の上を歩き出した。
僕は立ち尽くした。
波は穏やかで、月明かりが白く広がっていた。猫の足元だけが、わずかに水を拒んでいるように見えた。
「どうしてそんなことができるんだ?」と僕は訊いた。
猫は振り向かずに言った。
「誰かを思い出すことをやめた人間は、水面を歩けるの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かにひび割れたような気がした。
僕は誰を思い出そうとしていたのだろう。
あるいは、誰を思い出さないようにしていたのだろう。
気づくと猫の姿は消えていて、足元には波の跡だけが残っていた。
遠くで鐘が鳴った。三度、間をおいて、もう一度。
僕はその音の数を数えながら、自分が今どこに立っているのか確かめようとした。
だが、足元の砂はいつの間にか冷たく湿っていて、まるで記憶そのもののようだった。
引っ越した理由は、特にない。いや、理由はあったのかもしれないが、思い出そうとすると水の底に沈んでしまうように、輪郭を失ってしまうのだ。
町は眠たげで、空気に潮と麦茶のにおいが混じっていた。夕方になると、遠くの漁港から錆びた鐘の音が響く。人は少なく、猫が多かった。
僕の部屋は海沿いのアパートの二階で、夜になると波の音が床下からしみ出してくる。
その音を聞きながら、僕は眠れない夜をよく過ごした。眠れないというより、「眠りに行く方向が見つからない」と言ったほうが近い。
そんなある晩、ベランダに猫が現れた。
灰色の、目の青い猫だった。毛並みが異様に整っていて、まるで丁寧に手入れされた記憶の断片のようだった。
猫は僕を見ると、小さく「ミャ」と鳴いた。それは音というより、ほとんど言葉だった。
「ついてきて」と猫は言った。
僕はためらったが、なぜか靴を履き、猫のあとを追った。
夜の町は驚くほど静かで、海のほうから風が吹いていた。
猫は砂浜へ出て、そしてためらいもなく水の上を歩き出した。
僕は立ち尽くした。
波は穏やかで、月明かりが白く広がっていた。猫の足元だけが、わずかに水を拒んでいるように見えた。
「どうしてそんなことができるんだ?」と僕は訊いた。
猫は振り向かずに言った。
「誰かを思い出すことをやめた人間は、水面を歩けるの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かにひび割れたような気がした。
僕は誰を思い出そうとしていたのだろう。
あるいは、誰を思い出さないようにしていたのだろう。
気づくと猫の姿は消えていて、足元には波の跡だけが残っていた。
遠くで鐘が鳴った。三度、間をおいて、もう一度。
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だが、足元の砂はいつの間にか冷たく湿っていて、まるで記憶そのもののようだった。
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