夜の水面を歩く猫

ドルドレオン

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朝になっても、僕の頭の中には波の音が残っていた。
 ベッドの上で目を開けると、部屋の隅に小さな水たまりができていた。そこに月光が落ちているような気がして、僕は一瞬、まだ夜の中にいるのかと思った。
 だが窓の外には、白い光がゆらいでいた。
 朝の光だ。

 水たまりを拭き取りながら、僕は昨夜のことを反芻した。
 あれは夢だったのか。いや、夢にしては潮の匂いが強く残りすぎている。
 猫の声——「誰かを思い出すことをやめた人間は、水面を歩けるの」——
 あの言葉の余韻が、胸のどこかにまだ残っていた。

 午前十時を過ぎたころ、僕は町を歩いた。
 商店街は半分閉じていて、古びたパン屋だけが開いていた。
 店先でパンを選んでいると、店の奥から年配の女性が出てきた。小柄で、目尻に細い笑い皺がある。
 「あなた、この町の人じゃないわね」
 そう言われて、僕は少し驚いた。
 「ええ、昨日引っ越してきたばかりです」
 「そう。じゃあ、猫に会ったのね」
 彼女は当然のことのように言った。

 「猫?」
 「灰色の目をした子。夜になると人を海に連れていくのよ。もうずいぶん前からね。うちの夫も、あの猫についていって帰ってこなかった」

 僕はパンを手に持ったまま、何も言えなかった。
 「でもね」と彼女は続けた。
 「その猫は悪いわけじゃないの。人が何かを置き去りにしたまま生きていると、迎えに来るだけ。そういうものなのよ」

 帰り道、僕は港へ向かった。
 堤防の先に、小さな灯台があった。風が海を撫でていく。
 水面には、昨夜の月がまだ沈みきらずに漂っているように見えた。

 そのとき、背後から声がした。
 「思い出した?」

 振り返ると、あの灰色の猫がいた。
 昨日と同じ目をして、少しも濡れていなかった。

 「何を?」と僕は訊いた。

 「あなたが、なぜここに来たのか」
 猫の声は波の音に混じって消えた。

 僕はしばらく立ち尽くし、潮風を吸い込んだ。
 そのとき、遠くの波間に、見覚えのある影が一瞬だけ見えた。
 白いワンピースを着た誰か。
 誰なのか思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりと痛んだ。

 そして、猫がもう一度言った。
 「思い出さなければ、あなたも歩ける」
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