夜の水面を歩く猫

ドルドレオン

文字の大きさ
3 / 4

しおりを挟む
その夜、風が強く吹いていた。
 海は黒く光り、空の底に沈んだ鏡のようだった。
 僕は眠れず、アパートのベランダに出て煙草を吸った。潮の香りが濃く、どこか遠い場所の記憶を呼び起こすようだった。
 ふと、下を見ると、灰色の猫がいた。

 「行く?」
 猫が言った。
 「どこへ?」
 「向こう側へ」

 僕は少し考えてからうなずいた。考えることが正しいとは思えなかった。
 むしろ、考えないことが唯一の通貨のように思えた。

 浜辺までの道を、猫は音もなく歩いた。
 街灯の光は淡く、波の音だけが確かだった。
 海辺に着くと、猫は立ち止まって僕を見上げた。
 「ここから先は、思い出を持ったままでは進めない」

 「どうすればいい?」
 「名前を置いていくの」

 僕は黙って、自分の名前を心の中で繰り返した。
 それは今まで何度も名乗り、何度も聞かされてきた音の連なりだったが、その瞬間、奇妙に薄まっていくのを感じた。
 まるで水に溶ける砂糖のように、僕の名前は形を失っていった。

 「いいわ」と猫が言った。
 「もう歩ける」

 足を踏み出すと、波がひやりと足首を撫でた。
 それから、沈まなかった。
 水の上に、僕の影が揺れていた。猫は先を行く。僕はそのあとを追った。

 夜の海は静かで、しかし完全な静寂ではなかった。
 どこか遠くで、鐘の音が鳴っていた。
 音のたびに、海面がわずかに震え、光が揺れた。

 歩いているうちに、岸の灯りは見えなくなった。
 かわりに、水平線の向こうから柔らかい光が滲み出ていた。
 それは月ではなかった。
 むしろ、月の影のような光だった。

 「向こうには、何がある?」僕は猫に尋ねた。
 猫は少しだけ振り向いた。
 「思い出したものたちの街」

 「僕の知っている人も?」
 「ええ。忘れようとした人もね」

 そのとき、風が吹いた。
 水面に波紋が走り、遠くに白い影が浮かび上がった。
 白いワンピースを着た女性。
 彼女は僕のほうを見て、微笑んだように見えた。

 思わず名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
 名前を置いてきたことを思い出した。
 だから、彼女も名を呼ばなかった。

 ただ、海の上で、互いに立ち尽くしていた。
 波も風も、時間さえも、すべてが息を潜めていた。
 猫だけが静かに言った。

 「行くなら今よ」

 僕は一歩、前へ出た。
 足の下で水が柔らかく光り、世界がひとつ息を吸ったように感じられた。
 そして、すべてが静かに反転した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

一夜の男

詩織
恋愛
ドラマとかの出来事かと思ってた。 まさか自分にもこんなことが起きるとは... そして相手の顔を見ることなく逃げたので、知ってる人かも全く知らない人かもわからない。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

処理中です...