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その夜、風が強く吹いていた。
海は黒く光り、空の底に沈んだ鏡のようだった。
僕は眠れず、アパートのベランダに出て煙草を吸った。潮の香りが濃く、どこか遠い場所の記憶を呼び起こすようだった。
ふと、下を見ると、灰色の猫がいた。
「行く?」
猫が言った。
「どこへ?」
「向こう側へ」
僕は少し考えてからうなずいた。考えることが正しいとは思えなかった。
むしろ、考えないことが唯一の通貨のように思えた。
浜辺までの道を、猫は音もなく歩いた。
街灯の光は淡く、波の音だけが確かだった。
海辺に着くと、猫は立ち止まって僕を見上げた。
「ここから先は、思い出を持ったままでは進めない」
「どうすればいい?」
「名前を置いていくの」
僕は黙って、自分の名前を心の中で繰り返した。
それは今まで何度も名乗り、何度も聞かされてきた音の連なりだったが、その瞬間、奇妙に薄まっていくのを感じた。
まるで水に溶ける砂糖のように、僕の名前は形を失っていった。
「いいわ」と猫が言った。
「もう歩ける」
足を踏み出すと、波がひやりと足首を撫でた。
それから、沈まなかった。
水の上に、僕の影が揺れていた。猫は先を行く。僕はそのあとを追った。
夜の海は静かで、しかし完全な静寂ではなかった。
どこか遠くで、鐘の音が鳴っていた。
音のたびに、海面がわずかに震え、光が揺れた。
歩いているうちに、岸の灯りは見えなくなった。
かわりに、水平線の向こうから柔らかい光が滲み出ていた。
それは月ではなかった。
むしろ、月の影のような光だった。
「向こうには、何がある?」僕は猫に尋ねた。
猫は少しだけ振り向いた。
「思い出したものたちの街」
「僕の知っている人も?」
「ええ。忘れようとした人もね」
そのとき、風が吹いた。
水面に波紋が走り、遠くに白い影が浮かび上がった。
白いワンピースを着た女性。
彼女は僕のほうを見て、微笑んだように見えた。
思わず名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
名前を置いてきたことを思い出した。
だから、彼女も名を呼ばなかった。
ただ、海の上で、互いに立ち尽くしていた。
波も風も、時間さえも、すべてが息を潜めていた。
猫だけが静かに言った。
「行くなら今よ」
僕は一歩、前へ出た。
足の下で水が柔らかく光り、世界がひとつ息を吸ったように感じられた。
そして、すべてが静かに反転した。
海は黒く光り、空の底に沈んだ鏡のようだった。
僕は眠れず、アパートのベランダに出て煙草を吸った。潮の香りが濃く、どこか遠い場所の記憶を呼び起こすようだった。
ふと、下を見ると、灰色の猫がいた。
「行く?」
猫が言った。
「どこへ?」
「向こう側へ」
僕は少し考えてからうなずいた。考えることが正しいとは思えなかった。
むしろ、考えないことが唯一の通貨のように思えた。
浜辺までの道を、猫は音もなく歩いた。
街灯の光は淡く、波の音だけが確かだった。
海辺に着くと、猫は立ち止まって僕を見上げた。
「ここから先は、思い出を持ったままでは進めない」
「どうすればいい?」
「名前を置いていくの」
僕は黙って、自分の名前を心の中で繰り返した。
それは今まで何度も名乗り、何度も聞かされてきた音の連なりだったが、その瞬間、奇妙に薄まっていくのを感じた。
まるで水に溶ける砂糖のように、僕の名前は形を失っていった。
「いいわ」と猫が言った。
「もう歩ける」
足を踏み出すと、波がひやりと足首を撫でた。
それから、沈まなかった。
水の上に、僕の影が揺れていた。猫は先を行く。僕はそのあとを追った。
夜の海は静かで、しかし完全な静寂ではなかった。
どこか遠くで、鐘の音が鳴っていた。
音のたびに、海面がわずかに震え、光が揺れた。
歩いているうちに、岸の灯りは見えなくなった。
かわりに、水平線の向こうから柔らかい光が滲み出ていた。
それは月ではなかった。
むしろ、月の影のような光だった。
「向こうには、何がある?」僕は猫に尋ねた。
猫は少しだけ振り向いた。
「思い出したものたちの街」
「僕の知っている人も?」
「ええ。忘れようとした人もね」
そのとき、風が吹いた。
水面に波紋が走り、遠くに白い影が浮かび上がった。
白いワンピースを着た女性。
彼女は僕のほうを見て、微笑んだように見えた。
思わず名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
名前を置いてきたことを思い出した。
だから、彼女も名を呼ばなかった。
ただ、海の上で、互いに立ち尽くしていた。
波も風も、時間さえも、すべてが息を潜めていた。
猫だけが静かに言った。
「行くなら今よ」
僕は一歩、前へ出た。
足の下で水が柔らかく光り、世界がひとつ息を吸ったように感じられた。
そして、すべてが静かに反転した。
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