夜の水面を歩く猫

ドルドレオン

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光がやわらかく広がっていた。
 それは朝の光ではなく、夜の奥から滲み出るような、記憶の温度を帯びた光だった。
 僕は気がつくと、海の上に立っていた。
 だが、そこはもう海ではなかった。
 波も潮の匂いも消えていて、代わりに水面の下に家々が沈んでいた。
 窓の中には灯りがともり、人々の影がゆっくり動いている。
 彼らは皆、何かを繰り返していた。
 笑う、抱きしめる、歩く、振り向く――
 まるで失われた時間を丁寧に再演しているようだった。

 猫は僕のそばを歩きながら言った。
 「ここは“思い出したものたちの街”。あなたが忘れた人も、忘れた日々も、ここで生きている」

 「僕は……戻れるのか?」
 猫は目を細めて、少し笑ったように見えた。
 「戻る? それはどういう意味で?」

 僕は答えられなかった。
 言葉を探すたびに、水面が揺れて、言葉が溶けていった。

 そのとき、遠くに白い影が見えた。
 ゆっくりとこちらに向かってくる。
 白いワンピースを着た女性――昨夜、波間に見た人だった。
 彼女は微笑んでいた。
 懐かしさというより、どこか穏やかな受容の笑みだった。

 「あなた、やっと来たのね」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥に何かが流れ込んだ。
 それは言葉ではなく、音のない記憶だった。
 潮風の匂い、午後の陽射し、駅のホーム、冷えた麦茶、そして彼女の笑い声。
 そのすべてが、突然、同じ場所に重なった。

 「君は……」と僕は言った。
 「言わなくていいの」と彼女は首を振った。
 「名前はここにはいらないの。思い出せば、それで充分」

 彼女は僕の手を取った。
 その手は冷たくも温かくもなかった。ただ、確かだった。
 指先が触れた瞬間、水面の下の街が一斉に光を放った。

 猫がこちらを見ていた。
 その青い目は、どこか遠くを見つめていた。
 「もう行くのね」

 「君は?」僕は訊いた。
 猫は小さく尻尾を振った。
 「私はただ、境を歩くだけ。誰かが思い出すたび、ここを渡る」

 風が吹いた。
 光が揺れ、街がゆっくりと遠ざかっていった。
 僕と彼女は静かに立っていた。

 「帰ろう」と彼女が言った。
 「どこへ?」
 「まだ“あなた”が続いている場所へ」

 その言葉が終わると同時に、世界がひっくり返った。
 光が闇に沈み、波の音が戻ってきた。
 僕は目を開けた。

 そこは、いつものアパートの部屋だった。
 ベランダの外では、朝の海がきらめいていた。
 床の隅に、小さな水たまりができている。
 そこに、灰色の毛が一本だけ落ちていた。

 僕はゆっくりとそれを拾い、掌の上で見つめた。
 そして不思議なことに、涙がひとしずく、頬を伝った。
 理由はわからなかった。
 ただ、海の向こうで誰かが微笑んでいるような気がした。

― 終 ―
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