4 / 5
4
しおりを挟む
四度目の地下道は、これまででいちばん静かだった。通路には足音が吸い込まれ、照明は必要以上に柔らかい。僕はもう驚かなかった。ここが現れる理由も、消える条件も、理解しようとするのをやめていた。
角を曲がったところで、彼女がいた。
ベンチに腰かけ、古い革のバッグを膝に置いている。僕より一回りは年上だろう。髪には白いものが混じっているが、疲れた印象はない。時間を自分の速度で消費してきた人の顔をしていた。
「こんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」と僕も返した。
それだけで、しばらく沈黙が続いた。気まずさはない。沈黙が自然に座る場所を見つけた、という感じだった。
「あなたも探し物?」と彼女が訊いた。
「ええ。半分だけ形のあるものを」
彼女は少し笑った。「それ、私もよく言われる」
彼女が探しているのは、「使わなかった時間」だという。仕事でも家庭でもなく、ただ自分のために使えたはずの時間。その輪郭だけが、夜になると浮かび上がってくるらしい。
「取り戻したいわけじゃないの」と彼女は言った。「あったことを、確認したいだけ」
その言い方が、僕にはとても正確に思えた。
二人で歩き始めると、地下道は自然に二人用の幅になった。扉も、これまでより少ない。それぞれの扉の前で、彼女は立ち止まり、必ず僕の方を見た。
「先にどうぞ」
「一緒に入りましょう」
そうして入った「午後」と書かれた部屋では、窓から傾いた光が差し込んでいた。机の上には、途中まで編まれたセーターが置かれている。彼女はそれを手に取り、指先で糸をなぞった。
「完成させなかったものって、不思議ね」と彼女は言った。「完成しなかったからこそ、まだ可能性が残っている」
僕は何も言わなかったが、その言葉が、これまでの探索すべてと静かにつながるのを感じていた。
次の部屋では、何も起こらなかった。ただ、二人で同じ椅子に並んで座り、しばらく呼吸を合わせていた。彼女の呼吸は少しゆっくりで、それに合わせると、時間が伸びた。
「年が離れてると、変に気を遣うでしょう」と彼女が言った。
「いいえ」
それは事実だった。彼女といると、年齢という情報が、意味を持たなくなる。
地下道の終わりが近づくと、彼女は立ち止まった。
「私はここまでみたい」
「探し物は?」
「半分くらい、見つかった」
彼女はバッグから、小さな何かを取り出した。それは形を持たない。だが、確かに「あった」と言える重さだけがある。
「あなたは?」
「僕も、同じくらいです」
彼女は微笑んだ。その表情には、期待も後悔もなかった。ただ、共有した時間への満足があった。
別れ際、彼女はこう言った。
「たぶん、またどこかで同じ場所を探すわ」
「ええ。そのときは、また一緒に」
地下道を出ると、夕方だった。空の色が、午前とも夜ともつかない中間にある。僕は歩きながら、彼女の探していた時間と、自分の探していた未確定な何かが、同じ層に存在していたことを考えていた。
いい雰囲気というのは、何かが始まる予感ではない。何も始めなくても、すでに十分であるという感覚だ。
そのことを、彼女は僕より少しだけ先に知っていた。
角を曲がったところで、彼女がいた。
ベンチに腰かけ、古い革のバッグを膝に置いている。僕より一回りは年上だろう。髪には白いものが混じっているが、疲れた印象はない。時間を自分の速度で消費してきた人の顔をしていた。
「こんにちは」と彼女は言った。
「こんにちは」と僕も返した。
それだけで、しばらく沈黙が続いた。気まずさはない。沈黙が自然に座る場所を見つけた、という感じだった。
「あなたも探し物?」と彼女が訊いた。
「ええ。半分だけ形のあるものを」
彼女は少し笑った。「それ、私もよく言われる」
彼女が探しているのは、「使わなかった時間」だという。仕事でも家庭でもなく、ただ自分のために使えたはずの時間。その輪郭だけが、夜になると浮かび上がってくるらしい。
「取り戻したいわけじゃないの」と彼女は言った。「あったことを、確認したいだけ」
その言い方が、僕にはとても正確に思えた。
二人で歩き始めると、地下道は自然に二人用の幅になった。扉も、これまでより少ない。それぞれの扉の前で、彼女は立ち止まり、必ず僕の方を見た。
「先にどうぞ」
「一緒に入りましょう」
そうして入った「午後」と書かれた部屋では、窓から傾いた光が差し込んでいた。机の上には、途中まで編まれたセーターが置かれている。彼女はそれを手に取り、指先で糸をなぞった。
「完成させなかったものって、不思議ね」と彼女は言った。「完成しなかったからこそ、まだ可能性が残っている」
僕は何も言わなかったが、その言葉が、これまでの探索すべてと静かにつながるのを感じていた。
次の部屋では、何も起こらなかった。ただ、二人で同じ椅子に並んで座り、しばらく呼吸を合わせていた。彼女の呼吸は少しゆっくりで、それに合わせると、時間が伸びた。
「年が離れてると、変に気を遣うでしょう」と彼女が言った。
「いいえ」
それは事実だった。彼女といると、年齢という情報が、意味を持たなくなる。
地下道の終わりが近づくと、彼女は立ち止まった。
「私はここまでみたい」
「探し物は?」
「半分くらい、見つかった」
彼女はバッグから、小さな何かを取り出した。それは形を持たない。だが、確かに「あった」と言える重さだけがある。
「あなたは?」
「僕も、同じくらいです」
彼女は微笑んだ。その表情には、期待も後悔もなかった。ただ、共有した時間への満足があった。
別れ際、彼女はこう言った。
「たぶん、またどこかで同じ場所を探すわ」
「ええ。そのときは、また一緒に」
地下道を出ると、夕方だった。空の色が、午前とも夜ともつかない中間にある。僕は歩きながら、彼女の探していた時間と、自分の探していた未確定な何かが、同じ層に存在していたことを考えていた。
いい雰囲気というのは、何かが始まる予感ではない。何も始めなくても、すでに十分であるという感覚だ。
そのことを、彼女は僕より少しだけ先に知っていた。
0
あなたにおすすめの小説
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚
ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。
五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。
ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。
年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。
慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。
二人の恋の行方は……
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる