星のない惑星で珈琲を

ドルドレオン

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 再び目を開けたとき、世界は変わっていた。
 僕はあの部屋を離れ、白い平原に立っていた。
 空には星はなかったけれど、どこか懐かしい匂いがした。――石鹸と、本棚の埃。
 それは、地球の匂いだった。

 「ここが“記憶の地球”よ」と彼女の声が言った。

 僕は振り返った。
 彼女はもう、あの姿ではなかった。彼女は“風”になっていた。形はない。けれど確かにそこにいた。声のような、想いのような、記憶のような存在。

「これは地球の複製なのか?」

「いいえ」と風は答えた。
「これは、“地球が忘れたまま残していた自分の面影”。
 誰かに気づかれるのをずっと待っていた、もう一つの地球よ。」

 僕は歩いた。見覚えのある街角、何気なく通り過ぎた公園、閉店したままの古書店。
 それらはすべて、曖昧で、色を失いかけていた。まるで夢の中の世界のように。
 そして、僕は一つのドアの前で立ち止まった。

 そのドアは、僕が生まれ育った家の玄関だった。
 鍵もないのに、僕が手を伸ばすと音もなく開いた。
 そこには、母の影があった。
 けれど、彼女は僕を見なかった。まるで、そこに“いるはずだった何か”を待っているように。
 僕は静かに部屋を横切り、机の上のノートを見た。
 そこには、こんな言葉が綴られていた。

「この世界には、誰にも語られなかった“やさしさ”が、静かに積もっている。
それに気づく者だけが、未来に進める。」

 僕は気づいた。
 この惑星も、記憶の地球も、すべては「語られなかったもの」たちの避難所なのだと。
 人が言葉にできなかった痛み、名前を与えられなかった愛、選ばれなかった選択肢。
 そのすべてがここで静かに息をしていた。

「君はここで何をする?」

 それは、かつての“彼”――スーツの男の声だった。
 彼はもう僕ではなかった。過去でも、未来でもない。
 “観測されることをやめた、ただの存在”だった。

「見届ける」と僕は言った。
「語らずに、でも忘れずに。ここにあったすべてを、ただ“目に留める”。」

 彼は微笑み、頷いた。
「それができるなら、君はもう“観測者”ではない。君は、語られなかった真実そのものになる。」

 空がわずかに明るくなった。
 どこか遠くで、新しい言葉が生まれる気配がした。
 それは僕の言葉ではなかった。でも、確かに僕の“記憶”が宿っていた。

 ――誰かが、どこかで語ろうとしている。
 この星のことを。この沈黙の世界のことを。
 それは、未来のどこかにいる語り手の声だった。

「もう、戻るのか?」と風が尋ねた。

「戻るんじゃない」と僕は答えた。
「“選ぶ”んだ。沈黙の中で、語らないことを。
 でも、ただ一つだけ――“存在していた”という証だけは、残していこうと思う。」

 風は静かに笑った。その音は、まるでコーヒーに差すミルクの音のようだった。
 やさしくて、少し切なくて、どこか懐かしかった。

 僕は歩き出した。誰もいない街の通りを、色あせた記憶の中を。
 星のない空の下で、確かに見たものを胸に抱きながら。
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