星のない惑星で珈琲を

ドルドレオン

文字の大きさ
8 / 10

しおりを挟む
 再び目を開けたとき、世界は変わっていた。
 僕はあの部屋を離れ、白い平原に立っていた。
 空には星はなかったけれど、どこか懐かしい匂いがした。――石鹸と、本棚の埃。
 それは、地球の匂いだった。

 「ここが“記憶の地球”よ」と彼女の声が言った。

 僕は振り返った。
 彼女はもう、あの姿ではなかった。彼女は“風”になっていた。形はない。けれど確かにそこにいた。声のような、想いのような、記憶のような存在。

「これは地球の複製なのか?」

「いいえ」と風は答えた。
「これは、“地球が忘れたまま残していた自分の面影”。
 誰かに気づかれるのをずっと待っていた、もう一つの地球よ。」

 僕は歩いた。見覚えのある街角、何気なく通り過ぎた公園、閉店したままの古書店。
 それらはすべて、曖昧で、色を失いかけていた。まるで夢の中の世界のように。
 そして、僕は一つのドアの前で立ち止まった。

 そのドアは、僕が生まれ育った家の玄関だった。
 鍵もないのに、僕が手を伸ばすと音もなく開いた。
 そこには、母の影があった。
 けれど、彼女は僕を見なかった。まるで、そこに“いるはずだった何か”を待っているように。
 僕は静かに部屋を横切り、机の上のノートを見た。
 そこには、こんな言葉が綴られていた。

「この世界には、誰にも語られなかった“やさしさ”が、静かに積もっている。
それに気づく者だけが、未来に進める。」

 僕は気づいた。
 この惑星も、記憶の地球も、すべては「語られなかったもの」たちの避難所なのだと。
 人が言葉にできなかった痛み、名前を与えられなかった愛、選ばれなかった選択肢。
 そのすべてがここで静かに息をしていた。

「君はここで何をする?」

 それは、かつての“彼”――スーツの男の声だった。
 彼はもう僕ではなかった。過去でも、未来でもない。
 “観測されることをやめた、ただの存在”だった。

「見届ける」と僕は言った。
「語らずに、でも忘れずに。ここにあったすべてを、ただ“目に留める”。」

 彼は微笑み、頷いた。
「それができるなら、君はもう“観測者”ではない。君は、語られなかった真実そのものになる。」

 空がわずかに明るくなった。
 どこか遠くで、新しい言葉が生まれる気配がした。
 それは僕の言葉ではなかった。でも、確かに僕の“記憶”が宿っていた。

 ――誰かが、どこかで語ろうとしている。
 この星のことを。この沈黙の世界のことを。
 それは、未来のどこかにいる語り手の声だった。

「もう、戻るのか?」と風が尋ねた。

「戻るんじゃない」と僕は答えた。
「“選ぶ”んだ。沈黙の中で、語らないことを。
 でも、ただ一つだけ――“存在していた”という証だけは、残していこうと思う。」

 風は静かに笑った。その音は、まるでコーヒーに差すミルクの音のようだった。
 やさしくて、少し切なくて、どこか懐かしかった。

 僕は歩き出した。誰もいない街の通りを、色あせた記憶の中を。
 星のない空の下で、確かに見たものを胸に抱きながら。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

冷徹御曹司はただのツンデレでした

柴田はつみ
恋愛
政略結婚をすることになった冷徹な御曹司と平凡な女子のすれ違いの結婚生活

密会~合コン相手はドS社長~

日下奈緒
恋愛
デザイナーとして働く冬佳は、社長である綾斗にこっぴどくしばかれる毎日。そんな中、合コンに行った冬佳の前の席に座ったのは、誰でもない綾斗。誰かどうにかして。

あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~【after story】

けいこ
恋愛
あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~ のafter storyです。 よろしくお願い致しますm(_ _)m

年下幼馴染皇太子が溺愛してくる

由香
恋愛
平民薬師アリアと幼馴染の少年・レオン。 再会した彼は、幼い頃の泣き虫ではなく、世界で最も強く、甘く独占欲に満ちた皇太子になっていた。 「アリア、もう離さない」――身分差を超えた初恋が、宮廷で激しく、甘く、そして切なく燃え上がる。 逃げても逃げられない、溺愛ラブストーリー。

婚約破棄ブームに乗ってみた結果、婚約者様が本性を現しました

ラム猫
恋愛
『最新のトレンドは、婚約破棄!  フィアンセに婚約破棄を提示して、相手の反応で本心を知ってみましょう。これにより、仲が深まったと答えたカップルは大勢います!  ※結果がどうなろうと、我々は責任を負いません』  ……という特設ページを親友から見せられたエレアノールは、なかなか距離の縮まらない婚約者が自分のことをどう思っているのかを知るためにも、この流行に乗ってみることにした。  彼が他の女性と仲良くしているところを目撃した今、彼と婚約破棄して身を引くのが正しいのかもしれないと、そう思いながら。  しかし実際に婚約破棄を提示してみると、彼は豹変して……!? ※『小説家になろう』様、『カクヨム』様にも投稿しています

十五年後、十四のままの君に触れる

有箱
恋愛
十五年前、別れを切り出してきた僕の恋人が言った。 『十年後、まだ私のことを好きでいてくれたら、ここに来て』と。 十年後、約束の場所に行ったが君はいなかった。 それから一年が経っても、さらに一年経っても――五年が経過しても君は現れなかった。 どうしても愛を捨てきれなかった僕は、最後の望みをかけて手紙を送る。 1ヶ月後、公園で待っています、と。 期待と不安の中、迎えた当日。十五年の間、心待ちにしていた君が現れた――顔も格好も、別れた時の姿のままで。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

愛想笑いの課長は甘い俺様

吉生伊織
恋愛
社畜と罵られる 坂井 菜緒 × 愛想笑いが得意の俺様課長 堤 将暉 ********** 「社畜の坂井さんはこんな仕事もできないのかなぁ~?」 「へぇ、社畜でも反抗心あるんだ」 あることがきっかけで社畜と罵られる日々。 私以外には愛想笑いをするのに、私には厳しい。 そんな課長を避けたいのに甘やかしてくるのはどうして?

処理中です...