猫とバーボン

ドルドレオン

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三月の終わり、僕は仕事を辞めた。
理由は特にない。強いて言えば、朝が冷たすぎたせいだ。春のくせに妙に冷え込んで、通勤電車の窓ガラスが曇っていた。誰もがスマートフォンの画面を見つめていて、誰一人として窓の外を見ていなかった。僕はふいに立ち上がって、次の駅で降りた。それっきり会社には戻っていない。

部屋に戻ると、猫がストーブの前で丸くなっていた。名前は「ナカタ」。特に意味はない。かつて一度だけ喋ったことがある猫の名前から取っただけだ。

「仕事やめたのか?」とナカタが言った気がしたが、それはきっと錯覚だった。



その日の午後、レコード店で1979年のビル・エヴァンスのライブ盤を見つけた。ジャケットには小さなカフェと雨の夜が写っていた。僕はそれを買い、部屋でターンテーブルにかけた。ナカタがゆっくりと尻尾を動かした。

スコッチが切れていたので、近くの酒屋にバーボンを買いに行った。棚の奥にひっそりと「ワイルドターキー101」があった。迷わずそれを選んだ。バーボンには孤独がよく似合う。あるいは、孤独にはバーボンがよく似合う。

帰り道で、赤い傘をさした女の子に出会った。細身で、耳に小さな真珠のピアスをしていた。

「すみません、このあたりに猫を見ませんでしたか?」
「たくさん見たけど、君の猫かどうかは分からないな」
「その猫は人の言葉を話すんです」

僕は頷いた。言葉を話す猫を探している人と話すときは、とりあえず頷くのがいい。



女の子の名前はユリコだった。
彼女は僕の部屋に上がり、ナカタとしばらく見つめ合っていた。ナカタは何も言わなかった。彼はもう、そういうことをしなくなったのかもしれない。

ビル・エヴァンスのピアノが静かに流れる部屋で、僕たちはバーボンを飲んだ。
ユリコは昔、チェロを弾いていたらしい。

「チェロの音って、夜の海みたいなんです」
「夜の海に溺れたことがあるの?」
「ううん。でも、夢では何度も」

ナカタがふいに、僕の足元に頭をこすりつけた。
それが「それでいいんだ」と言っているような気がした。
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