図書館と象

ドルドレオン

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図書館を出ると、外の光は少しばかり黄金色に傾いていた。
八月の終わり。夏が呼吸を整えながら、秋にその身を少しずつ預けていく季節だ。

彼女は黙ったまま並んで歩いた。僕も無理に話そうとはしなかった。
十年の空白は、言葉で埋めるには長すぎたし、象を探すには静寂のほうが都合がいい。

「どこに行けば、象はいると思う?」僕が訊いたのは、信号待ちのときだった。

彼女は少し考えてから、ポケットから折りたたんだ地図のような紙を取り出した。
古びた、クリーム色の紙。裏には「1972年 東京都 象の保護地」と印字されていた。

「この地図、夢の中で拾ったの」
「夢の中で?」
「ええ。今朝の四時三十三分、ちょうど雨が止んだ直後に」

彼女はその時間を、まるで歴史の中のある特定の瞬間のように正確に言った。

地図には、存在しないはずの場所がいくつか記されていた。
たとえば、「記憶の窪地」「時間のない丘」「笛を吹く庭師の駅」——そんな場所が、まるで当然のように書き込まれていた。

「この場所に行けば、象に会える気がする。あるいは……私が置き忘れた“何か”がある」

彼女はそう言って、信号が青になると同時に歩き出した。
まるでその青信号こそが、冒険の開始を許可したかのように。

僕たちはバスに乗り、終点まで行った。
そこからさらに、人通りの少ない路地を抜け、商店街の裏の薄暗い公園を横切り、小さな川沿いの遊歩道を歩いた。

やがて、地図に記されていた「時間のない丘」と呼ばれる場所に着いた。
もちろん、本当の地名ではない。看板も、道しるべもなかった。でも、なぜか僕はすぐにそこだとわかった。

丘のてっぺんには、小さなベンチが一つだけ置かれていた。誰も座っていなかった。
ただ、風が少しだけ甘い香りを運んでいた。記憶の中の、古いレコードみたいな香りだった。

彼女はそのベンチにそっと腰を下ろした。そしてポケットから、もう一つのものを取り出した。

赤いカセットテープ。

「これ、覚えてる?」と彼女は訊いた。

僕は一瞬で、そのカセットの正体を思い出した。
十年前、僕が彼女に録音して渡したものだ。ビル・エヴァンス、ジョアン・ジルベルト、ちょっとだけビーチ・ボーイズ……そして、最後のトラックには、僕の声で一言。

「象が消えたとき、君にこれを聴いてほしい」

彼女は再生ボタンを押した。イヤホンを片方、僕に渡して。

音が、風の中に溶けていった。

そして、その瞬間だった。
丘の向こうに、白い象がゆっくりと現れた。まるでカセットテープの音に導かれるように。

まったく音を立てず、まばたきのように、象はそこに「いた」。

僕たちは何も言わずに、しばらくその象を見つめた。
それはもしかすると、記憶の化身だったのかもしれないし、誰かの失くした過去だったのかもしれない。

あるいは、ただの風のいたずらだったのかもしれない。

でもその時、僕たちは確かにそこにいて、同じものを見ていた。

それで、十分だった。
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