名前のない夜のワルツ

ドルドレオン

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僕はその紙片をしばらくのあいだ眺めていた。
「名前を探して。あの音楽の先に」
文字はどこか震えていた。まるで書いた本人の手が、何かを恐れていたかのように。

ポストには何もなかった。廊下には足音も残っていなかった。風だけが、小さな笛のように階段を吹き抜けていった。

部屋に戻り、もう一度レコードに針を落とした。
同じ音楽が流れ始めた——少し古びたピアノ、淡々とした旋律、そして奥の方でほんのかすかに、誰かの呼吸のようなノイズ。

今度はそのノイズが、まるで誰かの囁きのように聞こえた。
僕はヘッドフォンをかけ、目を閉じた。

その瞬間、世界がすうっと滑り落ちた。
音の向こう側に引き込まれるような感覚。
ピアノの音が波のように打ち寄せてきて、意識が遠ざかっていった。

気づくと僕は、見知らぬ街の歩道を歩いていた。
薄い霧が街を覆い、街灯の光はぼんやりと溶けていた。
時計はどれも止まっていて、誰も歩いていなかった。

遠くで小さなジャズの音が聞こえた。サックスが、知らない旋律を吹いていた。
僕は音に導かれるように、角を曲がった。

するとそこに、古びたバーがあった。看板には「Nocturne」と書かれていた。
扉を開けると、カウンターの奥にあの女性がいた。夢で見た、あの赤いワンピースの彼女。

「来たのね」
彼女は僕を見て、静かに微笑んだ。

「ここはどこだ?」
「あなたの音楽の中。あなたの忘れたものたちが、音になって漂ってる場所」

「君の名前を……探しに来た」
僕は言った。

彼女はグラスを拭く手を止めて、僕を見た。

「じゃあ、一曲踊ってくれる?」
「踊る?」
「そう。名前は、ワルツの中にあるの。ずっと昔から」

彼女がカウンターから出てくると、レコードがひとりでに回り出した。
あのピアノの旋律がまた流れはじめた。
でも今度は、ほんの少しだけ違っていた。間にサックスが加わっていた。
それは、まるで彼女の声のようだった。

僕たちは静かにステップを踏んだ。誰もいないバーの中で。
彼女の手は少しだけ冷たくて、でも確かにそこにあった。
ワルツは終わらず、空間がぐるぐると回り続けた。
記憶と音と、失われた言葉たちが、ゆっくりと溶け合っていった。

「思い出した?」
彼女が耳元で囁いた。

僕はうなずいた。
口に出せなかったけれど、確かに知っていた。
その名前は、僕の心の底で何年も凍っていたものだった。

そしてその瞬間——

僕はベッドの上で目を覚ました。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

テーブルの上には、レコードが静かに止まっていた。
ターンテーブルの針は、ちょうど最後の音を過ぎたところで止まっていた。

コーヒーを淹れようとキッチンに向かうと、床に一枚の紙が落ちていた。

それは昨夜の紙だった。
でも、文字がひとつだけ増えていた。

「名前を探して。あの音楽の先に」
— アヤ
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