2 / 4
2
しおりを挟む
僕はその紙片をしばらくのあいだ眺めていた。
「名前を探して。あの音楽の先に」
文字はどこか震えていた。まるで書いた本人の手が、何かを恐れていたかのように。
ポストには何もなかった。廊下には足音も残っていなかった。風だけが、小さな笛のように階段を吹き抜けていった。
部屋に戻り、もう一度レコードに針を落とした。
同じ音楽が流れ始めた——少し古びたピアノ、淡々とした旋律、そして奥の方でほんのかすかに、誰かの呼吸のようなノイズ。
今度はそのノイズが、まるで誰かの囁きのように聞こえた。
僕はヘッドフォンをかけ、目を閉じた。
その瞬間、世界がすうっと滑り落ちた。
音の向こう側に引き込まれるような感覚。
ピアノの音が波のように打ち寄せてきて、意識が遠ざかっていった。
気づくと僕は、見知らぬ街の歩道を歩いていた。
薄い霧が街を覆い、街灯の光はぼんやりと溶けていた。
時計はどれも止まっていて、誰も歩いていなかった。
遠くで小さなジャズの音が聞こえた。サックスが、知らない旋律を吹いていた。
僕は音に導かれるように、角を曲がった。
するとそこに、古びたバーがあった。看板には「Nocturne」と書かれていた。
扉を開けると、カウンターの奥にあの女性がいた。夢で見た、あの赤いワンピースの彼女。
「来たのね」
彼女は僕を見て、静かに微笑んだ。
「ここはどこだ?」
「あなたの音楽の中。あなたの忘れたものたちが、音になって漂ってる場所」
「君の名前を……探しに来た」
僕は言った。
彼女はグラスを拭く手を止めて、僕を見た。
「じゃあ、一曲踊ってくれる?」
「踊る?」
「そう。名前は、ワルツの中にあるの。ずっと昔から」
彼女がカウンターから出てくると、レコードがひとりでに回り出した。
あのピアノの旋律がまた流れはじめた。
でも今度は、ほんの少しだけ違っていた。間にサックスが加わっていた。
それは、まるで彼女の声のようだった。
僕たちは静かにステップを踏んだ。誰もいないバーの中で。
彼女の手は少しだけ冷たくて、でも確かにそこにあった。
ワルツは終わらず、空間がぐるぐると回り続けた。
記憶と音と、失われた言葉たちが、ゆっくりと溶け合っていった。
「思い出した?」
彼女が耳元で囁いた。
僕はうなずいた。
口に出せなかったけれど、確かに知っていた。
その名前は、僕の心の底で何年も凍っていたものだった。
そしてその瞬間——
僕はベッドの上で目を覚ました。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
テーブルの上には、レコードが静かに止まっていた。
ターンテーブルの針は、ちょうど最後の音を過ぎたところで止まっていた。
コーヒーを淹れようとキッチンに向かうと、床に一枚の紙が落ちていた。
それは昨夜の紙だった。
でも、文字がひとつだけ増えていた。
「名前を探して。あの音楽の先に」
— アヤ
「名前を探して。あの音楽の先に」
文字はどこか震えていた。まるで書いた本人の手が、何かを恐れていたかのように。
ポストには何もなかった。廊下には足音も残っていなかった。風だけが、小さな笛のように階段を吹き抜けていった。
部屋に戻り、もう一度レコードに針を落とした。
同じ音楽が流れ始めた——少し古びたピアノ、淡々とした旋律、そして奥の方でほんのかすかに、誰かの呼吸のようなノイズ。
今度はそのノイズが、まるで誰かの囁きのように聞こえた。
僕はヘッドフォンをかけ、目を閉じた。
その瞬間、世界がすうっと滑り落ちた。
音の向こう側に引き込まれるような感覚。
ピアノの音が波のように打ち寄せてきて、意識が遠ざかっていった。
気づくと僕は、見知らぬ街の歩道を歩いていた。
薄い霧が街を覆い、街灯の光はぼんやりと溶けていた。
時計はどれも止まっていて、誰も歩いていなかった。
遠くで小さなジャズの音が聞こえた。サックスが、知らない旋律を吹いていた。
僕は音に導かれるように、角を曲がった。
するとそこに、古びたバーがあった。看板には「Nocturne」と書かれていた。
扉を開けると、カウンターの奥にあの女性がいた。夢で見た、あの赤いワンピースの彼女。
「来たのね」
彼女は僕を見て、静かに微笑んだ。
「ここはどこだ?」
「あなたの音楽の中。あなたの忘れたものたちが、音になって漂ってる場所」
「君の名前を……探しに来た」
僕は言った。
彼女はグラスを拭く手を止めて、僕を見た。
「じゃあ、一曲踊ってくれる?」
「踊る?」
「そう。名前は、ワルツの中にあるの。ずっと昔から」
彼女がカウンターから出てくると、レコードがひとりでに回り出した。
あのピアノの旋律がまた流れはじめた。
でも今度は、ほんの少しだけ違っていた。間にサックスが加わっていた。
それは、まるで彼女の声のようだった。
僕たちは静かにステップを踏んだ。誰もいないバーの中で。
彼女の手は少しだけ冷たくて、でも確かにそこにあった。
ワルツは終わらず、空間がぐるぐると回り続けた。
記憶と音と、失われた言葉たちが、ゆっくりと溶け合っていった。
「思い出した?」
彼女が耳元で囁いた。
僕はうなずいた。
口に出せなかったけれど、確かに知っていた。
その名前は、僕の心の底で何年も凍っていたものだった。
そしてその瞬間——
僕はベッドの上で目を覚ました。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
テーブルの上には、レコードが静かに止まっていた。
ターンテーブルの針は、ちょうど最後の音を過ぎたところで止まっていた。
コーヒーを淹れようとキッチンに向かうと、床に一枚の紙が落ちていた。
それは昨夜の紙だった。
でも、文字がひとつだけ増えていた。
「名前を探して。あの音楽の先に」
— アヤ
2
あなたにおすすめの小説
好きって伝えたかったんだ。
まいるん
恋愛
ごめんなさい。
あの時伝えてれば。素直になれていたら。
未来は変わったのだろうか。
ずっと後悔してる。
もしもう一度君に会えたら。
もしもう一度君と話せたら。
高校1年生のすいは、同い年で幼なじみの蓮のことが好きだけど、告白できずにいた。想いを伝えることはできるのか。2人は結ばれるのか。
幼なじみ同士の少し不思議で切ない物語。
カモフラージュの恋
湖月もか
恋愛
容姿端麗、文武両道、しかも性格までよし。まるで少女漫画の王子様のような幼馴染な彼。
当たり前だが、彼は今年も囲まれている。
そんな集団を早く終わらないかなと、影から見ている私の話。
※あさぎかな様に素敵な表紙を作成していただきました!
encore
優未
恋愛
幼馴染の風雅に思いを寄せる瑠璃。中学生の時に告白をするも、彼は別の女の子と付き合ってしまう。風雅が彼女と破局するたびに思いを伝えても自分だけは恋人になれない。社会人になり、もうこの気持ちは封印しようと決めたところ、今度は風雅のほうからグイグイ迫ってきて―――
“妖精なんていない”と笑った王子を捨てた令嬢、幼馴染と婚約する件
大井町 鶴(おおいまち つる)
恋愛
伯爵令嬢アデリナを誕生日嫌いにしたのは、当時恋していたレアンドロ王子。
彼がくれた“妖精のプレゼント”は、少女の心に深い傷を残した。
(ひどいわ……!)
それ以来、誕生日は、苦い記憶がよみがえる日となった。
幼馴染のマテオは、そんな彼女を放っておけず、毎年ささやかな贈り物を届け続けている。
心の中ではずっと、アデリナが誕生日を笑って迎えられる日を願って。
そして今、アデリナが見つけたのは──幼い頃に書いた日記。
そこには、祖母から聞いた“妖精の森”の話と、秘密の地図が残されていた。
かつての記憶と、埋もれていた小さな願い。
2人は、妖精の秘密を確かめるため、もう一度“あの場所”へ向かう。
切なさと幸せ、そして、王子へのささやかな反撃も絡めた、癒しのハッピーエンド・ストーリー。
Short stories
美希みなみ
恋愛
「咲き誇る花のように恋したい」幼馴染の光輝の事がずっと好きな麻衣だったが、光輝は麻衣の妹の結衣と付き合っている。その事実に、麻衣はいつも笑顔で自分の思いを封じ込めてきたけど……?
切なくて、泣ける短編です。
君に何度でも恋をする
明日葉
恋愛
いろいろ訳ありの花音は、大好きな彼から別れを告げられる。別れを告げられた後でわかった現実に、花音は非常識とは思いつつ、かつて一度だけあったことのある翔に依頼をした。
「仕事の依頼です。個人的な依頼を受けるのかは分かりませんが、婚約者を演じてくれませんか」
「ふりなんて言わず、本当に婚約してもいいけど?」
そう答えた翔の真意が分からないまま、婚約者の演技が始まる。騙す相手は、花音の家族。期間は、残り少ない時間を生きている花音の祖父が生きている間。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる