2 / 11
2
しおりを挟む
冬の終わり、僕は近くの古書店で一冊の本を見つけた。
それは、表紙に色褪せた夜の街並みが描かれた、小さな詩集だった。タイトルは『水のように眠る』。著者の名前は見覚えがなかったけれど、不思議とその言葉に惹かれた。ページをめくると、インクの滲んだ行がぽつぽつと並び、どこか懐かしい匂いがした。紙が少し湿っていたのかもしれない。あるいは、僕の記憶の中の湿気がページの間に染みこんでいたのかもしれない。
その中に、彼女の声とそっくりな言葉を見つけた。
「雨の音を聞くと、私は言葉を失う。
それは愛よりも深く、別れよりも優しいから」
僕はページの上にそっと指を置き、しばらくの間、動けなくなった。
彼女の声が、確かにそこにいた。何も言わず、ただ、そこに。
本を買って帰り、彼女が座っていたあのソファの端に、そっと腰を下ろした。
窓の外では、小さな雪が混じった雨が降っていた。春が近づくと、雨は雪を連れてくる。彼女が教えてくれたことのひとつだ。
レコードプレーヤーに針を落とす。静かに、ジャズピアノが流れはじめる。ビル・エヴァンスの「Peace Piece」。まるで雨のために作られた音楽みたいだった。音の間に静寂が挟まっていて、その沈黙がまるで、誰かの記憶を包み込んでいるようだった。
その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕は彼女と電車に乗っていた。
車窓からは知らない街が流れていて、知らない言語の看板がぼんやりとにじんでいた。彼女は窓の外を眺めながら、小さな声で鼻歌を歌っていた。まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
「ここ、どこだろう?」と僕が聞くと、彼女は少し笑って言った。
「どこでもいいんだよ。大切なのは、いま、ここにいるってこと」
目が覚めた時、部屋は薄明るくなっていて、雨の匂いがまだ空気の中に残っていた。
時計の針は午前5時を指していた。カーテン越しの空は青と灰色のあいだをさまよっていて、あの夢の街と少し似ていた。
僕はベッドから起き出し、窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってきて、肌を撫でた。遠くで電車の音がした。始発列車の音だった。
そして、ふと、思った。
彼女はきっと、今もどこかで雨を見ているのだろう。
白いワンピースを着て、傘を持たずに歩いているかもしれない。
それとも、僕の知らない誰かの部屋で、ソファに座り、静かにコーヒーを飲んでいるのかもしれない。
けれどそれが、僕にとって重要なことなのかは分からなかった。
大切なのは、あの時間が確かにあったということだ。
金曜日の午後に降る雨と、ラジオの音と、古いレコードと、
そして、彼女と過ごした、静かで名前のない時間。
それは、今も僕の部屋のどこかに残っている。
窓の曇りガラスの向こう、コーヒーの香りの中、
あるいは、沈黙の隙間に流れるピアノの音のなかに。
もう会えないとしても、僕はきっと、大丈夫だ。
彼女が残してくれたものは、失うことができない場所にあるから。
それは、表紙に色褪せた夜の街並みが描かれた、小さな詩集だった。タイトルは『水のように眠る』。著者の名前は見覚えがなかったけれど、不思議とその言葉に惹かれた。ページをめくると、インクの滲んだ行がぽつぽつと並び、どこか懐かしい匂いがした。紙が少し湿っていたのかもしれない。あるいは、僕の記憶の中の湿気がページの間に染みこんでいたのかもしれない。
その中に、彼女の声とそっくりな言葉を見つけた。
「雨の音を聞くと、私は言葉を失う。
それは愛よりも深く、別れよりも優しいから」
僕はページの上にそっと指を置き、しばらくの間、動けなくなった。
彼女の声が、確かにそこにいた。何も言わず、ただ、そこに。
本を買って帰り、彼女が座っていたあのソファの端に、そっと腰を下ろした。
窓の外では、小さな雪が混じった雨が降っていた。春が近づくと、雨は雪を連れてくる。彼女が教えてくれたことのひとつだ。
レコードプレーヤーに針を落とす。静かに、ジャズピアノが流れはじめる。ビル・エヴァンスの「Peace Piece」。まるで雨のために作られた音楽みたいだった。音の間に静寂が挟まっていて、その沈黙がまるで、誰かの記憶を包み込んでいるようだった。
その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中で、僕は彼女と電車に乗っていた。
車窓からは知らない街が流れていて、知らない言語の看板がぼんやりとにじんでいた。彼女は窓の外を眺めながら、小さな声で鼻歌を歌っていた。まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
「ここ、どこだろう?」と僕が聞くと、彼女は少し笑って言った。
「どこでもいいんだよ。大切なのは、いま、ここにいるってこと」
目が覚めた時、部屋は薄明るくなっていて、雨の匂いがまだ空気の中に残っていた。
時計の針は午前5時を指していた。カーテン越しの空は青と灰色のあいだをさまよっていて、あの夢の街と少し似ていた。
僕はベッドから起き出し、窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってきて、肌を撫でた。遠くで電車の音がした。始発列車の音だった。
そして、ふと、思った。
彼女はきっと、今もどこかで雨を見ているのだろう。
白いワンピースを着て、傘を持たずに歩いているかもしれない。
それとも、僕の知らない誰かの部屋で、ソファに座り、静かにコーヒーを飲んでいるのかもしれない。
けれどそれが、僕にとって重要なことなのかは分からなかった。
大切なのは、あの時間が確かにあったということだ。
金曜日の午後に降る雨と、ラジオの音と、古いレコードと、
そして、彼女と過ごした、静かで名前のない時間。
それは、今も僕の部屋のどこかに残っている。
窓の曇りガラスの向こう、コーヒーの香りの中、
あるいは、沈黙の隙間に流れるピアノの音のなかに。
もう会えないとしても、僕はきっと、大丈夫だ。
彼女が残してくれたものは、失うことができない場所にあるから。
0
あなたにおすすめの小説
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
逃げたい悪役令嬢と、逃がさない王子
ねむたん
恋愛
セレスティーナ・エヴァンジェリンは今日も王宮の廊下を静かに歩きながら、ちらりと視線を横に流した。白いドレスを揺らし、愛らしく微笑むアリシア・ローゼンベルクの姿を目にするたび、彼女の胸はわずかに弾む。
(その調子よ、アリシア。もっと頑張って! あなたがしっかり王子を誘惑してくれれば、私は自由になれるのだから!)
期待に満ちた瞳で、影からこっそり彼女の奮闘を見守る。今日こそレオナルトがアリシアの魅力に落ちるかもしれない——いや、落ちてほしい。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
実在しないのかもしれない
真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・?
※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。
※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。
※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。
望まない相手と一緒にいたくありませんので
毬禾
恋愛
どのような理由を付けられようとも私の心は変わらない。
一緒にいようが私の気持ちを変えることはできない。
私が一緒にいたいのはあなたではないのだから。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
逆ハーレムエンド? 現実を見て下さいませ
朝霞 花純@電子書籍発売中
恋愛
エリザベート・ラガルド公爵令嬢は溜息を吐く。
理由はとある男爵令嬢による逆ハーレム。
逆ハーレムのメンバーは彼女の婚約者のアレックス王太子殿下とその側近一同だ。
エリザベートは男爵令嬢に注意する為に逆ハーレムの元へ向かう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる