ラジオとレコード

ドルドレオン

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冬の終わり、僕は近くの古書店で一冊の本を見つけた。

それは、表紙に色褪せた夜の街並みが描かれた、小さな詩集だった。タイトルは『水のように眠る』。著者の名前は見覚えがなかったけれど、不思議とその言葉に惹かれた。ページをめくると、インクの滲んだ行がぽつぽつと並び、どこか懐かしい匂いがした。紙が少し湿っていたのかもしれない。あるいは、僕の記憶の中の湿気がページの間に染みこんでいたのかもしれない。

その中に、彼女の声とそっくりな言葉を見つけた。

「雨の音を聞くと、私は言葉を失う。
それは愛よりも深く、別れよりも優しいから」

僕はページの上にそっと指を置き、しばらくの間、動けなくなった。
彼女の声が、確かにそこにいた。何も言わず、ただ、そこに。

本を買って帰り、彼女が座っていたあのソファの端に、そっと腰を下ろした。
窓の外では、小さな雪が混じった雨が降っていた。春が近づくと、雨は雪を連れてくる。彼女が教えてくれたことのひとつだ。

レコードプレーヤーに針を落とす。静かに、ジャズピアノが流れはじめる。ビル・エヴァンスの「Peace Piece」。まるで雨のために作られた音楽みたいだった。音の間に静寂が挟まっていて、その沈黙がまるで、誰かの記憶を包み込んでいるようだった。

その夜、久しぶりに夢を見た。

夢の中で、僕は彼女と電車に乗っていた。
車窓からは知らない街が流れていて、知らない言語の看板がぼんやりとにじんでいた。彼女は窓の外を眺めながら、小さな声で鼻歌を歌っていた。まるで、何かを思い出そうとしているかのように。

「ここ、どこだろう?」と僕が聞くと、彼女は少し笑って言った。

「どこでもいいんだよ。大切なのは、いま、ここにいるってこと」

目が覚めた時、部屋は薄明るくなっていて、雨の匂いがまだ空気の中に残っていた。
時計の針は午前5時を指していた。カーテン越しの空は青と灰色のあいだをさまよっていて、あの夢の街と少し似ていた。

僕はベッドから起き出し、窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってきて、肌を撫でた。遠くで電車の音がした。始発列車の音だった。

そして、ふと、思った。

彼女はきっと、今もどこかで雨を見ているのだろう。
白いワンピースを着て、傘を持たずに歩いているかもしれない。
それとも、僕の知らない誰かの部屋で、ソファに座り、静かにコーヒーを飲んでいるのかもしれない。

けれどそれが、僕にとって重要なことなのかは分からなかった。

大切なのは、あの時間が確かにあったということだ。
金曜日の午後に降る雨と、ラジオの音と、古いレコードと、
そして、彼女と過ごした、静かで名前のない時間。

それは、今も僕の部屋のどこかに残っている。
窓の曇りガラスの向こう、コーヒーの香りの中、
あるいは、沈黙の隙間に流れるピアノの音のなかに。

もう会えないとしても、僕はきっと、大丈夫だ。
彼女が残してくれたものは、失うことができない場所にあるから。
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