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彼女がいなくなってから、ちょうど一年が経とうとしていた。
二月の風は相変わらず冷たく、けれどその奥底には微かな春の気配が混じっていた。陽射しの角度が変わってきている。影が以前よりもやわらかく、長く、そして少しだけ、もの悲しい。
この季節になると、部屋の光の入り方が変わる。午後三時頃、南側の窓から斜めに差し込む光が、レコード棚のガラスを通って屈折し、部屋の奥の白い壁にゆらゆらと揺れる模様を映し出す。まるで水面の中にいるような気分になる。その光の中に立つと、僕はまるで過去と現在の境界線にいるような錯覚を覚える。
その日も、僕はいつものように午後の静かな時間にコーヒーを淹れ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
雨は降っていなかった。けれど空気にはまだ湿気が残っていた。朝方に降った霧雨の名残だろう。向かいのアパートの外壁にはまだ水の粒が貼りついており、それが陽の光に照らされて、微かに輝いていた。
ふと、机の隅に置きっぱなしだった詩集を開いた。
あの時、古書店で見つけたもの――『水のように眠る』。
ページをめくるたびに、静かな言葉たちが現れては、すぐに消えていく。
詩というのは、不思議なものだ。言葉は少ないのに、心の中に残す余韻は、時に小説よりも深い。まるで、誰かの声の残響だけが、時間を越えて残っているような感覚。
そして、ある一編の詩の最後に、僕は見覚えのある名前を見つけた。
― 柊 ミオ
彼女の、名前だった。
僕は最初、目を疑った。けれど、間違いなかった。
彼女がこの詩集の一部を書いていたのだ。巻末の著者紹介には、その名前と共に、わずかなプロフィールが載っていた。
柊ミオ(Hiiragi Mio)
都内在住。詩人・翻訳家。
雨と音楽、そして孤独についての詩を中心に活動している。
いくつかの小さな文学誌に作品を発表。現在は休筆中。
手が震えていた。心臓の音が耳の奥で鳴り始めていた。
まるで、一年分の静けさが一気に打ち壊されるような衝撃だった。
彼女は、存在していた。僕の記憶の中だけじゃなく、確かにこの世界のどこかで言葉を紡いでいた。その言葉は、こうして紙の上で生きていた。
それは、再会というにはあまりにもささやかな出来事だった。
けれど僕にとっては、これ以上ないほど、意味のある奇跡だった。
その日、僕は久しぶりに部屋を出た。
コートのポケットに詩集を入れ、駅前のカフェに向かった。
彼女と何度か一緒に来たことのある、小さな店。
カウンターの奥には、彼女が好きだった深煎りの豆がまだメニューに載っていた。
席について、温かいコーヒーをひと口すすると、なぜか目の奥が熱くなった。
彼女と過ごした金曜日の午後が、心の中でゆっくりと再生されていく。
レコードの音。雨の匂い。彼女の笑い声。
そして、何よりも――言葉にできなかった、あの感情。
僕は思った。
彼女は、僕に何かを伝えたかったのかもしれない。
でも言葉にするには、それはあまりにも繊細で、壊れやすかったのだ。
だから彼女は詩を書いた。僕がいない場所で、僕に届くかもしれないと信じながら。
その夜、家に戻った僕は机に向かい、一枚の便箋を取り出した。
ペンを手に取り、しばらく空白を眺めたあと、ゆっくりと書き始めた。
**ミオへ。
あの時間は、確かに僕の中で生きています。
雨の音が今も僕の生活に静かに降り積もり、
あなたの言葉が、僕の沈黙を少しだけあたためてくれています。
あなたに、ありがとうを。
またいつか、どこかで。
― 僕より。**
封筒には宛名も住所も書かず、ただ本棚の片隅にしまった。
この手紙が届くことはないだろう。
けれどそれで良かった。きっと、それで。
それはもう、恋ではなく、祈りに近い何かだったから。
二月の風は相変わらず冷たく、けれどその奥底には微かな春の気配が混じっていた。陽射しの角度が変わってきている。影が以前よりもやわらかく、長く、そして少しだけ、もの悲しい。
この季節になると、部屋の光の入り方が変わる。午後三時頃、南側の窓から斜めに差し込む光が、レコード棚のガラスを通って屈折し、部屋の奥の白い壁にゆらゆらと揺れる模様を映し出す。まるで水面の中にいるような気分になる。その光の中に立つと、僕はまるで過去と現在の境界線にいるような錯覚を覚える。
その日も、僕はいつものように午後の静かな時間にコーヒーを淹れ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
雨は降っていなかった。けれど空気にはまだ湿気が残っていた。朝方に降った霧雨の名残だろう。向かいのアパートの外壁にはまだ水の粒が貼りついており、それが陽の光に照らされて、微かに輝いていた。
ふと、机の隅に置きっぱなしだった詩集を開いた。
あの時、古書店で見つけたもの――『水のように眠る』。
ページをめくるたびに、静かな言葉たちが現れては、すぐに消えていく。
詩というのは、不思議なものだ。言葉は少ないのに、心の中に残す余韻は、時に小説よりも深い。まるで、誰かの声の残響だけが、時間を越えて残っているような感覚。
そして、ある一編の詩の最後に、僕は見覚えのある名前を見つけた。
― 柊 ミオ
彼女の、名前だった。
僕は最初、目を疑った。けれど、間違いなかった。
彼女がこの詩集の一部を書いていたのだ。巻末の著者紹介には、その名前と共に、わずかなプロフィールが載っていた。
柊ミオ(Hiiragi Mio)
都内在住。詩人・翻訳家。
雨と音楽、そして孤独についての詩を中心に活動している。
いくつかの小さな文学誌に作品を発表。現在は休筆中。
手が震えていた。心臓の音が耳の奥で鳴り始めていた。
まるで、一年分の静けさが一気に打ち壊されるような衝撃だった。
彼女は、存在していた。僕の記憶の中だけじゃなく、確かにこの世界のどこかで言葉を紡いでいた。その言葉は、こうして紙の上で生きていた。
それは、再会というにはあまりにもささやかな出来事だった。
けれど僕にとっては、これ以上ないほど、意味のある奇跡だった。
その日、僕は久しぶりに部屋を出た。
コートのポケットに詩集を入れ、駅前のカフェに向かった。
彼女と何度か一緒に来たことのある、小さな店。
カウンターの奥には、彼女が好きだった深煎りの豆がまだメニューに載っていた。
席について、温かいコーヒーをひと口すすると、なぜか目の奥が熱くなった。
彼女と過ごした金曜日の午後が、心の中でゆっくりと再生されていく。
レコードの音。雨の匂い。彼女の笑い声。
そして、何よりも――言葉にできなかった、あの感情。
僕は思った。
彼女は、僕に何かを伝えたかったのかもしれない。
でも言葉にするには、それはあまりにも繊細で、壊れやすかったのだ。
だから彼女は詩を書いた。僕がいない場所で、僕に届くかもしれないと信じながら。
その夜、家に戻った僕は机に向かい、一枚の便箋を取り出した。
ペンを手に取り、しばらく空白を眺めたあと、ゆっくりと書き始めた。
**ミオへ。
あの時間は、確かに僕の中で生きています。
雨の音が今も僕の生活に静かに降り積もり、
あなたの言葉が、僕の沈黙を少しだけあたためてくれています。
あなたに、ありがとうを。
またいつか、どこかで。
― 僕より。**
封筒には宛名も住所も書かず、ただ本棚の片隅にしまった。
この手紙が届くことはないだろう。
けれどそれで良かった。きっと、それで。
それはもう、恋ではなく、祈りに近い何かだったから。
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