ラジオとレコード

ドルドレオン

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三月の風は、どこか甘やかだった。
それは冬の名残をほんの少しだけ引きずりながらも、春の香りをしっかりと含んでいた。駅前の並木道には、つぼみを膨らませた木々が等間隔に並び、その枝先には、まだ見ぬ花の気配が宿っていた。

彼女が部屋を訪れなくなってから、ちょうど一年と一ヶ月が過ぎていた。

あれ以来、僕は毎週金曜日になると、ラジオをつけ、レコードを一枚選び、コーヒーを淹れるという、ある種の儀式のような時間を過ごしていた。そこには誰もいない。けれど、不在であることが何かを確かなものにすることもあるのだと、僕はこの一年で学んだ。

ある金曜日の午後、僕は駅前の小さなギャラリーにふと足を運んだ。

雑誌に載っていた記事でその存在を知ったのだが、展示内容までは覚えていなかった。ただ、何かに導かれるようにそのドアを開けた。

中は静かだった。ほとんど無音に近かった。
壁には、小さな詩と、それに添えられたモノクロームの写真が交互に並んでいた。雨に濡れた街角。空っぽのホーム。夜の信号。曇った窓ガラス。どれも余白が美しく、静寂が写し取られていた。

僕は一枚の写真の前で、思わず足を止めた。

それは、見覚えのあるソファだった。僕の部屋のものと、まったく同じ型。
その上に置かれた白いカップ。窓の外に降る雨。
そして、壁に映る揺れる光。
――僕と彼女が過ごした、あの午後そのままだった。

写真の下には、小さな詩が添えられていた。

「見えない音楽」

あなたがいなくなってから
音はすべて 少しだけ
ガラス越しに聞こえるようになった

それでも私は
あの日の午後に
耳を澄ませてしまう

レコードの針が落ちる音
それを聞く、あなたの横顔

何も言わない沈黙が
今も私の耳の奥で
ひそやかに鳴りつづけている

右下には、やはりあの名前があった。

柊 ミオ

僕は、言葉を失ったまましばらくその場を動けずにいた。
展示スペースの片隅には、来場者の感想ノートが置かれていた。
僕は何気なくそのページをめくる。日付を見ると、つい数日前の書き込みの中に、見覚えのある丸みを帯びた筆跡を見つけた。

「あの日、沈黙の中で伝えられなかった言葉が、
いまようやく形になってきました。
読んでくれた人がいたら、それだけで十分です。
ありがとう」
― M.H.

ミオのイニシャルだった。

彼女はここにいた。
わずかながら、同じ時間の、同じ空間の中に。

それがどうしようもなく嬉しかった。

帰り道、夕暮れの街を歩きながら、僕はずっと空を見上げていた。

空は灰色のままだったけれど、どこかあたたかく感じた。
あの空の下で、彼女も歩いているかもしれない――そんな風に思えたのだ。

部屋に戻ると、いつものようにラジオをつけ、コーヒーを淹れた。
レコードは、あの日彼女と聴いた「Waltz for Debby」。ビル・エヴァンスのピアノが、やさしく部屋に溶けていった。

音が鳴るたびに、彼女の沈黙がそこにいた。
言葉よりも確かなものが、音の隙間に宿っていた。

僕は、ふと、机の上の便箋に手を伸ばした。

今日は、封筒に宛名を書くことにした。

柊ミオ 様
住所は分からない。でも、ギャラリーの名前と日付、
そして感想ノートの言葉が、きっと彼女に届くための地図になる。

便箋にはこう書いた。

**ミオへ。

あの時間は、ただの記憶ではありません。
今も、確かに生きています。

あなたの詩に出会えて、ようやく言葉を返すことができました。
あの日の沈黙に、ありがとう。

― 僕より。**

手紙をポストに投函する時、指先が少し震えた。
けれどそれは、もう迷いではなかった。

それは、ゆっくりとほどけていく孤独の震えだった。
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