ラジオとレコード

ドルドレオン

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出会いは、音から始まった。

それは金曜日の午後、駅から少し離れた路地裏のカフェでのことだった。
彼はその日、久しぶりに予定のない休日を手に入れていて、気まぐれにスマートフォンで「近くの静かなカフェ」を検索した。
目に留まったのは、小さな写真。木製の看板と、開け放たれた窓から風に揺れるレースのカーテン。

彼はその店に足を運び、ドアを開けた瞬間、ふわりと漂う焙煎豆と木の香りに包まれた。
店内は静かだった。ゆるやかなジャズの音楽。数人の客がそれぞれの時間を過ごしていた。
そして、奥のスピーカーの前に座っていた女性が、目に留まった。

彼女は髪を一つにまとめ、グレーのニットと黒のスカートという、シンプルな装いをしていた。
左耳には、銀色のイヤーカフ。テーブルには、開かれた五線譜と鉛筆。
彼がレジでコーヒーを注文している間、彼女は何度か鼻歌のように、短く音を紡いでいた。

(作曲家?)

そんな言葉がふと浮かんだが、彼はただ静かに席についた。
窓際の席。木漏れ日がガラス越しに差し込み、テーブルの上に葉の影を落としていた。
彼はバッグから本を取り出し、読みはじめる。
けれど、なぜだろう。目の前の文章がうまく頭に入ってこない。

代わりに、さっきの小さな鼻歌が、ふと耳の奥で繰り返されていた。
どこかで聴いたような、でも初めて出会うような旋律。
それは音というより「気配」に近かった。何かが始まる予感のようなもの。

ふと視線を上げると、彼女と目が合った。

彼女は少し驚いたように目を細め、それから、遠慮がちに微笑んだ。
その笑顔には、何かを強く主張しない控えめさがあったが、それが彼には心地よかった。

彼も軽く会釈を返す。

それだけの、ほんの短い接点。
けれど、それがこの日の午後を、まったく違うものに変えてしまった。

数週間後、彼はまた同じカフェを訪れた。
同じ時間、同じ席。そして――彼女もまた、そこにいた。

今度は、彼女の方から話しかけた。

「その本、詩集ですよね? 柊ミオって、あの、最近展示されてた方ですか?」

彼は驚いて本を見下ろし、頷いた。

「はい。あなたも、ご存じなんですか?」

「ええ、偶然……というか、展示の写真を撮ってたのが、私の知り合いで。少しだけ、その人の詩にも興味を持って」

それが、彼と**夏海(なつみ)**との会話の始まりだった。

彼女は音楽教師で、休日にはこうして小さなカフェに来て、自分の作品をノートに書き留めているのだという。
クラシックだけでなく、ジャズや現代音楽にも興味があり、時には詩と音を組み合わせて作品をつくることもあると話した。

「音楽は、言葉のない手紙みたいなものだから」と彼女は言った。
「何を伝えたいのか自分でも分からない時こそ、音にしてみたくなるんです」

彼はその言葉に、妙に救われた気がした。

言葉にできないもの。
自分の中にある、まだ名前のない感情。
かつてミオと過ごした時間も、まさにそうだったのだ。

それから数回、彼と夏海は偶然を装うように同じ時間に同じカフェに現れた。
音楽の話、好きな作家、子どものころの話、沈黙の間。
会話は穏やかで、波のように揺れながら続いた。

ある日、彼女がふと訊いた。

「大切な人がいたんですね」

彼は少しだけ驚いたが、否定はしなかった。

「ええ。もう、会えないけれど」

彼女は静かに頷き、マグカップの縁を指でなぞった。

「私は……まだそういう人には出会えてないです。けれど、誰かの『大切だった』って言葉を、ちゃんと聞けることも、悪くないなって思うんです」

その言葉に、彼はほんの少しだけ心を許した。
過去が許されるような、そんな感覚だった。

四月の終わり、風はやや強くなり、街路樹の若葉が音を立てて揺れていた。

彼はその日、夏海から小さな封筒を受け取った。
中には、五線譜に手書きで書かれた短いメロディ。
その下に、こんな言葉が添えられていた。

まだ言葉にならない気持ちを、
音にしてみました。
いつか、続きを一緒に書いてくれたら嬉しいです。

彼は封筒を胸ポケットに入れ、顔を上げた。

「ありがとう」と言った。

そして、それ以上何も言わずに、ただ、風の吹く音をふたりで聞いた。
沈黙が、もう痛みではなく、ただの静けさに変わっていた。

心は、誰にも気づかれないうちに、すこしずつ形を変える。

ミオとの記憶は、何かを閉じるためではなく、
この新しい出会いをやさしく迎えるためにそこにあったのだと思えた。

彼の部屋には、相変わらずレコードとラジオがあり、雨が降る日は静かだった。
けれどそこにはもう、風が通っていた。

その風が、彼の心に何かを芽吹かせようとしている。
ゆっくりと、音もなく。
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