6 / 11
6
しおりを挟む
出会いは、音から始まった。
それは金曜日の午後、駅から少し離れた路地裏のカフェでのことだった。
彼はその日、久しぶりに予定のない休日を手に入れていて、気まぐれにスマートフォンで「近くの静かなカフェ」を検索した。
目に留まったのは、小さな写真。木製の看板と、開け放たれた窓から風に揺れるレースのカーテン。
彼はその店に足を運び、ドアを開けた瞬間、ふわりと漂う焙煎豆と木の香りに包まれた。
店内は静かだった。ゆるやかなジャズの音楽。数人の客がそれぞれの時間を過ごしていた。
そして、奥のスピーカーの前に座っていた女性が、目に留まった。
彼女は髪を一つにまとめ、グレーのニットと黒のスカートという、シンプルな装いをしていた。
左耳には、銀色のイヤーカフ。テーブルには、開かれた五線譜と鉛筆。
彼がレジでコーヒーを注文している間、彼女は何度か鼻歌のように、短く音を紡いでいた。
(作曲家?)
そんな言葉がふと浮かんだが、彼はただ静かに席についた。
窓際の席。木漏れ日がガラス越しに差し込み、テーブルの上に葉の影を落としていた。
彼はバッグから本を取り出し、読みはじめる。
けれど、なぜだろう。目の前の文章がうまく頭に入ってこない。
代わりに、さっきの小さな鼻歌が、ふと耳の奥で繰り返されていた。
どこかで聴いたような、でも初めて出会うような旋律。
それは音というより「気配」に近かった。何かが始まる予感のようなもの。
ふと視線を上げると、彼女と目が合った。
彼女は少し驚いたように目を細め、それから、遠慮がちに微笑んだ。
その笑顔には、何かを強く主張しない控えめさがあったが、それが彼には心地よかった。
彼も軽く会釈を返す。
それだけの、ほんの短い接点。
けれど、それがこの日の午後を、まったく違うものに変えてしまった。
数週間後、彼はまた同じカフェを訪れた。
同じ時間、同じ席。そして――彼女もまた、そこにいた。
今度は、彼女の方から話しかけた。
「その本、詩集ですよね? 柊ミオって、あの、最近展示されてた方ですか?」
彼は驚いて本を見下ろし、頷いた。
「はい。あなたも、ご存じなんですか?」
「ええ、偶然……というか、展示の写真を撮ってたのが、私の知り合いで。少しだけ、その人の詩にも興味を持って」
それが、彼と**夏海(なつみ)**との会話の始まりだった。
彼女は音楽教師で、休日にはこうして小さなカフェに来て、自分の作品をノートに書き留めているのだという。
クラシックだけでなく、ジャズや現代音楽にも興味があり、時には詩と音を組み合わせて作品をつくることもあると話した。
「音楽は、言葉のない手紙みたいなものだから」と彼女は言った。
「何を伝えたいのか自分でも分からない時こそ、音にしてみたくなるんです」
彼はその言葉に、妙に救われた気がした。
言葉にできないもの。
自分の中にある、まだ名前のない感情。
かつてミオと過ごした時間も、まさにそうだったのだ。
それから数回、彼と夏海は偶然を装うように同じ時間に同じカフェに現れた。
音楽の話、好きな作家、子どものころの話、沈黙の間。
会話は穏やかで、波のように揺れながら続いた。
ある日、彼女がふと訊いた。
「大切な人がいたんですね」
彼は少しだけ驚いたが、否定はしなかった。
「ええ。もう、会えないけれど」
彼女は静かに頷き、マグカップの縁を指でなぞった。
「私は……まだそういう人には出会えてないです。けれど、誰かの『大切だった』って言葉を、ちゃんと聞けることも、悪くないなって思うんです」
その言葉に、彼はほんの少しだけ心を許した。
過去が許されるような、そんな感覚だった。
四月の終わり、風はやや強くなり、街路樹の若葉が音を立てて揺れていた。
彼はその日、夏海から小さな封筒を受け取った。
中には、五線譜に手書きで書かれた短いメロディ。
その下に、こんな言葉が添えられていた。
まだ言葉にならない気持ちを、
音にしてみました。
いつか、続きを一緒に書いてくれたら嬉しいです。
彼は封筒を胸ポケットに入れ、顔を上げた。
「ありがとう」と言った。
そして、それ以上何も言わずに、ただ、風の吹く音をふたりで聞いた。
沈黙が、もう痛みではなく、ただの静けさに変わっていた。
心は、誰にも気づかれないうちに、すこしずつ形を変える。
ミオとの記憶は、何かを閉じるためではなく、
この新しい出会いをやさしく迎えるためにそこにあったのだと思えた。
彼の部屋には、相変わらずレコードとラジオがあり、雨が降る日は静かだった。
けれどそこにはもう、風が通っていた。
その風が、彼の心に何かを芽吹かせようとしている。
ゆっくりと、音もなく。
それは金曜日の午後、駅から少し離れた路地裏のカフェでのことだった。
彼はその日、久しぶりに予定のない休日を手に入れていて、気まぐれにスマートフォンで「近くの静かなカフェ」を検索した。
目に留まったのは、小さな写真。木製の看板と、開け放たれた窓から風に揺れるレースのカーテン。
彼はその店に足を運び、ドアを開けた瞬間、ふわりと漂う焙煎豆と木の香りに包まれた。
店内は静かだった。ゆるやかなジャズの音楽。数人の客がそれぞれの時間を過ごしていた。
そして、奥のスピーカーの前に座っていた女性が、目に留まった。
彼女は髪を一つにまとめ、グレーのニットと黒のスカートという、シンプルな装いをしていた。
左耳には、銀色のイヤーカフ。テーブルには、開かれた五線譜と鉛筆。
彼がレジでコーヒーを注文している間、彼女は何度か鼻歌のように、短く音を紡いでいた。
(作曲家?)
そんな言葉がふと浮かんだが、彼はただ静かに席についた。
窓際の席。木漏れ日がガラス越しに差し込み、テーブルの上に葉の影を落としていた。
彼はバッグから本を取り出し、読みはじめる。
けれど、なぜだろう。目の前の文章がうまく頭に入ってこない。
代わりに、さっきの小さな鼻歌が、ふと耳の奥で繰り返されていた。
どこかで聴いたような、でも初めて出会うような旋律。
それは音というより「気配」に近かった。何かが始まる予感のようなもの。
ふと視線を上げると、彼女と目が合った。
彼女は少し驚いたように目を細め、それから、遠慮がちに微笑んだ。
その笑顔には、何かを強く主張しない控えめさがあったが、それが彼には心地よかった。
彼も軽く会釈を返す。
それだけの、ほんの短い接点。
けれど、それがこの日の午後を、まったく違うものに変えてしまった。
数週間後、彼はまた同じカフェを訪れた。
同じ時間、同じ席。そして――彼女もまた、そこにいた。
今度は、彼女の方から話しかけた。
「その本、詩集ですよね? 柊ミオって、あの、最近展示されてた方ですか?」
彼は驚いて本を見下ろし、頷いた。
「はい。あなたも、ご存じなんですか?」
「ええ、偶然……というか、展示の写真を撮ってたのが、私の知り合いで。少しだけ、その人の詩にも興味を持って」
それが、彼と**夏海(なつみ)**との会話の始まりだった。
彼女は音楽教師で、休日にはこうして小さなカフェに来て、自分の作品をノートに書き留めているのだという。
クラシックだけでなく、ジャズや現代音楽にも興味があり、時には詩と音を組み合わせて作品をつくることもあると話した。
「音楽は、言葉のない手紙みたいなものだから」と彼女は言った。
「何を伝えたいのか自分でも分からない時こそ、音にしてみたくなるんです」
彼はその言葉に、妙に救われた気がした。
言葉にできないもの。
自分の中にある、まだ名前のない感情。
かつてミオと過ごした時間も、まさにそうだったのだ。
それから数回、彼と夏海は偶然を装うように同じ時間に同じカフェに現れた。
音楽の話、好きな作家、子どものころの話、沈黙の間。
会話は穏やかで、波のように揺れながら続いた。
ある日、彼女がふと訊いた。
「大切な人がいたんですね」
彼は少しだけ驚いたが、否定はしなかった。
「ええ。もう、会えないけれど」
彼女は静かに頷き、マグカップの縁を指でなぞった。
「私は……まだそういう人には出会えてないです。けれど、誰かの『大切だった』って言葉を、ちゃんと聞けることも、悪くないなって思うんです」
その言葉に、彼はほんの少しだけ心を許した。
過去が許されるような、そんな感覚だった。
四月の終わり、風はやや強くなり、街路樹の若葉が音を立てて揺れていた。
彼はその日、夏海から小さな封筒を受け取った。
中には、五線譜に手書きで書かれた短いメロディ。
その下に、こんな言葉が添えられていた。
まだ言葉にならない気持ちを、
音にしてみました。
いつか、続きを一緒に書いてくれたら嬉しいです。
彼は封筒を胸ポケットに入れ、顔を上げた。
「ありがとう」と言った。
そして、それ以上何も言わずに、ただ、風の吹く音をふたりで聞いた。
沈黙が、もう痛みではなく、ただの静けさに変わっていた。
心は、誰にも気づかれないうちに、すこしずつ形を変える。
ミオとの記憶は、何かを閉じるためではなく、
この新しい出会いをやさしく迎えるためにそこにあったのだと思えた。
彼の部屋には、相変わらずレコードとラジオがあり、雨が降る日は静かだった。
けれどそこにはもう、風が通っていた。
その風が、彼の心に何かを芽吹かせようとしている。
ゆっくりと、音もなく。
0
あなたにおすすめの小説
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
逃げたい悪役令嬢と、逃がさない王子
ねむたん
恋愛
セレスティーナ・エヴァンジェリンは今日も王宮の廊下を静かに歩きながら、ちらりと視線を横に流した。白いドレスを揺らし、愛らしく微笑むアリシア・ローゼンベルクの姿を目にするたび、彼女の胸はわずかに弾む。
(その調子よ、アリシア。もっと頑張って! あなたがしっかり王子を誘惑してくれれば、私は自由になれるのだから!)
期待に満ちた瞳で、影からこっそり彼女の奮闘を見守る。今日こそレオナルトがアリシアの魅力に落ちるかもしれない——いや、落ちてほしい。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
実在しないのかもしれない
真朱
恋愛
実家の小さい商会を仕切っているロゼリエに、お見合いの話が舞い込んだ。相手は大きな商会を営む伯爵家のご嫡男。が、お見合いの席に相手はいなかった。「極度の人見知りのため、直接顔を見せることが難しい」なんて無茶な理由でいつまでも逃げ回る伯爵家。お見合い相手とやら、もしかして実在しない・・・?
※異世界か不明ですが、中世ヨーロッパ風の架空の国のお話です。
※細かく設定しておりませんので、何でもあり・ご都合主義をご容赦ください。
※内輪でドタバタしてるだけの、高い山も深い谷もない平和なお話です。何かすみません。
望まない相手と一緒にいたくありませんので
毬禾
恋愛
どのような理由を付けられようとも私の心は変わらない。
一緒にいようが私の気持ちを変えることはできない。
私が一緒にいたいのはあなたではないのだから。
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
逆ハーレムエンド? 現実を見て下さいませ
朝霞 花純@電子書籍発売中
恋愛
エリザベート・ラガルド公爵令嬢は溜息を吐く。
理由はとある男爵令嬢による逆ハーレム。
逆ハーレムのメンバーは彼女の婚約者のアレックス王太子殿下とその側近一同だ。
エリザベートは男爵令嬢に注意する為に逆ハーレムの元へ向かう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる