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六月の手前、雨の季節が始まろうとしていた。
天気予報は曇りと小雨を繰り返し、傘を持つかどうか迷わせる日が続いていた。
川沿いの道も少しぬかるみ、空はどこか濁っていた。
けれど彼は、その季節を嫌いではなかった。
雨音の奥には、いつも心の輪郭がくっきりと現れるような気がしていたからだ。
ある日、彼と夏海は、駅の近くの古いギャラリーで開かれた現代音楽と詩の即興イベントに出かけた。
舞台の上では、朗読とピアノが交互に交わりながら、不安定な調子で言葉を泳がせていた。
帰り道、雨がぽつぽつと降り始めた。
彼女は傘を持っていなかったので、彼の傘にふたりで入った。
彼女は無言のまま歩き続けたが、左手はずっと五線譜の紙袋を握りしめていた。
「……音が、すごく胸にくる夜でしたね」
そう言った彼に、彼女はふと立ち止まって、少し首を傾けた。
「ねえ、あなたは、夜が怖かったことってありますか?」
雨音の中で、その声だけがやけに静かだった。
「……あると思う。昔」
彼女はゆっくりと頷いた。
「私も、夜がずっと怖かったんです。……今も、少し」
彼女は空を仰いでから、小さな声で言った。
その数日後、彼は初めて、彼女の部屋を訪ねた。
部屋は想像していたよりずっと広く、白を基調とした静かな空間だった。
本棚の半分は楽譜とエッセイ、そして残りは詩集。
机の上にはオルゴールの分解模型と、音叉が丁寧に並べられていた。
「ここだけ、音がきれいに響くんです」
そう言って、夏海は部屋の一角のクッションに腰を下ろした。
「……でも昔は、この音すら、怖くて仕方なかった」
彼は黙って、彼女の言葉を待った。
「中学生のとき、母が……ずっと塞ぎ込んでて。
夜になると、誰かに話しかけるみたいに、ひとりごとを言ってたの。
『誰かが見てる』『声がする』『私が悪い』って。
……最初は、私がふざけてるのかと思った」
彼女の言葉は淡々としていたが、瞳の奥には沈んだ湖のような静けさがあった。
「それからしばらくして、父は家を出ていった。
で、母は……ある日、自分のレコードプレーヤーに水をかけて壊しちゃった。
“音が、頭の中に入ってくる”って言ってた」
彼はただ頷きながら聞いていた。
言葉は、解決ではない。ただの灯りにすぎない。
それを彼はよく知っていた。
「それ以来、音楽ってね……私にとって、
“癒し”じゃなくて、“逃げ場”だったの。
母の気配がない場所、声が届かない場所。
そういう場所を、私は音でつくってきた」
彼女は言いながら、手元の音叉をそっと鳴らした。
その響きは、小さくて、けれど耳の奥で静かに広がっていった。
「でも、あなたといる時の沈黙は、怖くなかった。
音がないのに、息ができた。
それって、すごく変なことなんだけど……」
「変じゃないよ」と、彼は初めて言葉を挟んだ。
「俺も、ミオといたときの沈黙を、ずっと抱えて生きてた。
でも最近ようやく、それを“終わった時間”じゃなく、“続いている何か”だと思えるようになって。
……そして、あなたと会って、また違う“沈黙”を知った気がする」
夏海はゆっくりと目を閉じた。
「あなたが、静けさを怖がらないからだね。
だから、私は少しずつ、夜を手のひらで触れるようになってきたんだと思う」
その言葉は、まるで音楽そのものだった。
夜が深まり、雨の音が窓を叩く頃。
彼女はピアノの前に座り、静かにひとつの旋律を弾いた。
それは、以前彼に渡した五線譜の“続き”だった。
彼女は言った。
「この音に、あなたの言葉が重なったら、きっと新しい歌になると思う」
彼はピアノの横に腰を下ろし、詩集をめくりながら、小さな声で言葉を紡ぎ始めた。
言葉と音が交わる場所で、
彼らはそれぞれの暗い夜を、そっと差し出していた。
それは、救いではなく、共鳴だった。
沈黙と孤独の、あたたかく湿った余韻だった。
天気予報は曇りと小雨を繰り返し、傘を持つかどうか迷わせる日が続いていた。
川沿いの道も少しぬかるみ、空はどこか濁っていた。
けれど彼は、その季節を嫌いではなかった。
雨音の奥には、いつも心の輪郭がくっきりと現れるような気がしていたからだ。
ある日、彼と夏海は、駅の近くの古いギャラリーで開かれた現代音楽と詩の即興イベントに出かけた。
舞台の上では、朗読とピアノが交互に交わりながら、不安定な調子で言葉を泳がせていた。
帰り道、雨がぽつぽつと降り始めた。
彼女は傘を持っていなかったので、彼の傘にふたりで入った。
彼女は無言のまま歩き続けたが、左手はずっと五線譜の紙袋を握りしめていた。
「……音が、すごく胸にくる夜でしたね」
そう言った彼に、彼女はふと立ち止まって、少し首を傾けた。
「ねえ、あなたは、夜が怖かったことってありますか?」
雨音の中で、その声だけがやけに静かだった。
「……あると思う。昔」
彼女はゆっくりと頷いた。
「私も、夜がずっと怖かったんです。……今も、少し」
彼女は空を仰いでから、小さな声で言った。
その数日後、彼は初めて、彼女の部屋を訪ねた。
部屋は想像していたよりずっと広く、白を基調とした静かな空間だった。
本棚の半分は楽譜とエッセイ、そして残りは詩集。
机の上にはオルゴールの分解模型と、音叉が丁寧に並べられていた。
「ここだけ、音がきれいに響くんです」
そう言って、夏海は部屋の一角のクッションに腰を下ろした。
「……でも昔は、この音すら、怖くて仕方なかった」
彼は黙って、彼女の言葉を待った。
「中学生のとき、母が……ずっと塞ぎ込んでて。
夜になると、誰かに話しかけるみたいに、ひとりごとを言ってたの。
『誰かが見てる』『声がする』『私が悪い』って。
……最初は、私がふざけてるのかと思った」
彼女の言葉は淡々としていたが、瞳の奥には沈んだ湖のような静けさがあった。
「それからしばらくして、父は家を出ていった。
で、母は……ある日、自分のレコードプレーヤーに水をかけて壊しちゃった。
“音が、頭の中に入ってくる”って言ってた」
彼はただ頷きながら聞いていた。
言葉は、解決ではない。ただの灯りにすぎない。
それを彼はよく知っていた。
「それ以来、音楽ってね……私にとって、
“癒し”じゃなくて、“逃げ場”だったの。
母の気配がない場所、声が届かない場所。
そういう場所を、私は音でつくってきた」
彼女は言いながら、手元の音叉をそっと鳴らした。
その響きは、小さくて、けれど耳の奥で静かに広がっていった。
「でも、あなたといる時の沈黙は、怖くなかった。
音がないのに、息ができた。
それって、すごく変なことなんだけど……」
「変じゃないよ」と、彼は初めて言葉を挟んだ。
「俺も、ミオといたときの沈黙を、ずっと抱えて生きてた。
でも最近ようやく、それを“終わった時間”じゃなく、“続いている何か”だと思えるようになって。
……そして、あなたと会って、また違う“沈黙”を知った気がする」
夏海はゆっくりと目を閉じた。
「あなたが、静けさを怖がらないからだね。
だから、私は少しずつ、夜を手のひらで触れるようになってきたんだと思う」
その言葉は、まるで音楽そのものだった。
夜が深まり、雨の音が窓を叩く頃。
彼女はピアノの前に座り、静かにひとつの旋律を弾いた。
それは、以前彼に渡した五線譜の“続き”だった。
彼女は言った。
「この音に、あなたの言葉が重なったら、きっと新しい歌になると思う」
彼はピアノの横に腰を下ろし、詩集をめくりながら、小さな声で言葉を紡ぎ始めた。
言葉と音が交わる場所で、
彼らはそれぞれの暗い夜を、そっと差し出していた。
それは、救いではなく、共鳴だった。
沈黙と孤独の、あたたかく湿った余韻だった。
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