ラジオとレコード

ドルドレオン

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八月の終わり、蝉の声がやっと遠のいた午後。

夏海の部屋は、窓を開け放つとやわらかな風が通り抜け、
カーテンの白い布が音もなくふわりと膨らんだ。
彼は、部屋の隅に置かれた古い電子ピアノの前に座っていた。

テーブルには例の五線譜。
ふたりで形を探し続けてきた、あの未完成の旋律。

紙にはまだ音が並んでいるだけだった。
けれどそのひとつひとつには、確かに記憶と気配が宿っていた。

「……この旋律さ、もともとは“逃げ場”だったのかもしれないけど、
もう“ただの旋律”じゃなくなったよね」

彼が言うと、夏海は頷いた。

「うん。
 今はもう、“ここ”に戻ってこれる音って感じ。
 私たちふたりが、どこかで沈んでも、またここから始められる……そんな気がする」

彼女はそう言って、隣に腰を下ろした。
ふたりのあいだには、言葉のいらない静けさが流れた。

やがて彼は、そっと鍵盤に指を置いた。
最初の一音――静けさを切り裂くのではなく、そっと寄り添うような音だった。

夏海が目を閉じる。
彼の奏でる音に、呼吸を合わせるように、
彼女が旋律の続きを歌いはじめた。

声は囁くように低く、そして高く、
ときに震えながら、ひとつずつ音に感情を重ねていった。

歌詞は、彼が綴っていた詩の断片だった。

**夜の中に落ちた声を
君はそのまま拾ってくれた

静けさのなかで聴いた鼓動

忘れていた名前を
音が教えてくれた**

彼女の声が、最後の音とともに消えていくと、
部屋の中はしんと静まり返った。
それは不思議な沈黙だった。

寂しさでも、終わりでもない。
満たされた静けさ。

「……できた、ね」

彼がそっと言うと、夏海は少し笑って目を伏せた。

「まるで、この旋律のために私たちが出会ったみたい」

彼は首を横に振った。

「出会ったから、旋律になったんだよ。
 言葉にならなかったものが、やっと音になった」

五線譜の上には、もう空白はなかった。
だけどそこには、聴く人の心に沈んでいく余白が残されていた。
詰め込まれた言葉じゃない。
語りすぎない優しさが、そこにあった。

その日の夜、彼と夏海は完成した曲を録音した。
何の編集もエフェクトもかけずに、
ただ、部屋の空気と一緒に閉じ込めた。

録音が終わると、夏海はイヤフォンをひとつ彼に手渡した。

「最初に聴くの、いっしょがいい」

ふたりで片耳ずつイヤフォンを分け合い、
彼女がスマートフォンの再生ボタンを押す。

スピーカーの中から流れてくるのは、
もう逃げ場所ではなくなった旋律。
ふたりが向き合い、乗り越え、やがて重ねた音だった。

録音の最後、ほんのかすかに、窓の外から蝉の声が混じっていた。
それがまるで、夏の記憶そのもののようだった。

曲が終わったあと、しばらくふたりは無言だった。
そして、彼がぽつりと呟いた。

「きっと、音楽って……“答え”じゃないんだね。
 でも、どこかに“手紙”みたいに届いてく。
 自分自身にも、過去にも、そして……誰かにも」

夏海はそれに小さく頷いて、
彼の肩にもたれた。

「この曲が、いつか
 誰かの“静かな夜”を照らせたらいいな」

部屋の中には、レコードのような静けさが流れていた。

それは音のない旋律。
けれど、確かに心を震わせる“完成されたひとつの歌”だった。

🕯️

音楽が完成するということは、
終わりではない。
ふたりが過去と向き合い、今を抱きしめ、
これからを歩いていくための始まりだ。

傷のある静けさから、
あたたかい旋律が生まれたように。

そして、雨の日のラジオのように――
どこかで、誰かの胸に、
この旋律がそっと流れつくことを、
ふたりはどこかで願っていた。
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