ラジオとレコード

ドルドレオン

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九月の風は、夏の名残りをほんの少しだけ運びながら、
空に薄い雲を広げていた。
街のカフェの窓辺に、彼と夏海は向かい合って座っていた。

テーブルの上には、冷めかけたコーヒーと、
あの曲を収めたCDが一枚、無造作に置かれている。

「……仕事の話が来たの」

夏海が、カップの縁を見つめながら言った。

「秋から、ヨーロッパの音楽学校で勉強できるチャンス。
 半年間だけど……たぶん、そのあとも、もっと向こうでやっていきたい」

彼は、驚かなかった。
その可能性を、どこかで知っていた。
彼女が音を生きている人であることを、知っていた。

「行くべきだよ」

彼は、ただそれだけ言った。

「本当に?」と夏海が顔を上げる。
「ここを離れて、あなたを置いて行っても?」

「置いて行く、じゃないよ。
 ……きっと、君の音の一部に、俺は残るから」

夏海は、その言葉に小さく笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ひりひりする痛みが見えた。

「私……この曲をあなたと完成させたこと、ずっと忘れない。
 あの音の中で、怖かった夜も、ちゃんと生き返ったから」

彼も微笑んで、CDケースを指先で回した。

「俺も、あの旋律を聴くたびに、
 君の声と、この静けさを思い出すと思う」

しばらく、ふたりは黙ってコーヒーを飲んだ。
言葉は、もう必要なかった。

外は淡い光に包まれていて、
風がガラス窓を揺らし、小さな音を立てていた。

出発の日、駅のホーム。

夏海は、黒いケースに入れた楽譜と、手荷物だけを持って立っていた。
髪をひとつに束ね、薄いグレーのコートを着ている。

彼は小さなトートバッグにレコードを一枚だけ入れて、彼女に手渡した。

「これ、君があの家で初めて弾いてくれた曲のオリジナル。
 向こうで聴きたくなったら」

夏海は目を細めて笑った。
そして、自分のバッグから一枚の紙を取り出した。

「これは、あなたに」

五線譜の上に、彼女が最後に書いたフレーズと、
小さな文字で書かれた言葉。

“静けさの向こうに、また会えるように”

列車のドアが開き、短いチャイムが鳴った。

「行ってきます」と夏海が言った。

「いってらっしゃい」と彼が答えた。

彼女は振り返らず、列車に乗った。
窓越しに見える彼女の横顔は、どこか穏やかで、
目の奥に確かな光を宿していた。

列車がゆっくりと動き出す。
彼はその場に立ったまま、遠ざかっていく車両を見送った。

手を振ることも、叫ぶこともしなかった。
ただ、胸の奥でひとつの旋律が流れていた。
ふたりでつくった、あの歌だった。

その夜、彼はひとりで部屋に戻った。
雨は降っていなかった。
けれど、窓を開けると、遠くで雷のような音が小さく響いた。

彼は机の上に置かれた五線譜を取り、
静かにピアノの前に座った。
鍵盤に触れる指先は、もう震えていなかった。

ゆっくりと、彼はあの旋律を弾きはじめた。
夏海の声の記憶と、自分の書いた言葉が、
音の中でゆっくりと重なっていく。

曲の最後の和音を弾き終えると、部屋の中はしんと静まった。
けれどその沈黙は、もう孤独ではなかった。
胸の奥に広がるのは、しみじみとした温もりだった。

彼は窓の外を見た。
街灯の光が、静かに路地を照らしていた。
遠くから、誰かが口笛を吹いているような音が微かに聞こえた。

「……ありがとう」

彼は誰にともなく呟き、目を閉じた。

その瞬間、まるで風が部屋の奥まで届いたような感覚がした。
夏海の声が、あの旋律の奥で、確かに響いている気がした。

音楽は、もう終わっていた。
けれど、その余韻の中で、
彼は初めて、自分の時間をしっかりと歩き出そうとしていた。

この別れは、悲劇ではない。
ふたりが互いの孤独と静けさを受けとめ、
それぞれの未来に向かって歩き出すための“余韻”だった。

そして、彼の部屋の片隅で、
ラジオから小さなジャズが流れはじめた。

その音は、確かに“つづき”のように響いていた。
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