雨の匂いと声

ドルドレオン

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第4章:眠らない部屋

ぼくらは、あの部屋に戻った。
駅から少し歩いたところにある、古びた木造アパートの二階。
見た目は変わっていないけれど、どこか、時間の流れだけがやけに正確に積もっていた。

鍵はまだ手元にあった。
というよりも、彼女が前に言っていた“夢の中の鍵”は、どうやら本当に存在していたのだ。

「開けていいの?」と彼女が訊く。

ぼくは無言でうなずいた。

鍵を差し込むと、あっけないほど簡単に扉は開いた。
かすかにホコリと木の匂いが混じった空気が流れ出し、あの日の夜の続きを、どこかから引っ張ってきたようだった。

「懐かしい」と彼女はつぶやいた。
「壁紙、変わってないね。あの染みもまだある」

彼女が指さしたのは、ソファの後ろにあった薄茶色の染みだった。
コーヒーを倒したのは、たしか彼女だった。
たしか、二人で一緒に読んでいた本のページが濡れて、彼女が「これは時間の染みね」なんて言って笑ってた。

「CDプレイヤー、まだあるんだ」と彼女が言う。
棚の下の段には、あの頃聞いていたジャズのアルバムがそのまま並んでいた。
マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、ニーナ・シモン。

彼女はケースから《Kind of Blue》を取り出して、ディスクを差し込んだ。
プレイヤーは少し音を立てて回りはじめ、やがて部屋にはあの静かなイントロが流れ始めた。

「覚えてる?」と彼女が訊いた。
「この曲を初めて聴いた夜、私、泣いたんだよ。理由もわからずに」

「うん、覚えてる。君は『この音楽は、言葉の手前にある』って言ってた」

「そうそう。意味も理由もいらない。ただ、ここにあるって感じ」

ぼくらはしばらく、音楽のなかに身を委ねた。
部屋の窓からはまだ小雨が見えていて、まるで世界が音の中に沈み込んでいくようだった。

「ねえ」彼女がぽつりと言った。
「私たちって、もう一度はじまると思う?」

ぼくはすぐに答えられなかった。
でも、音楽が教えてくれた。
大事なのは、始まりでも終わりでもなく、“今ここにある”ということだ。

「それは、きっと君が決めることだと思う」

彼女はうつむいて、少しだけ笑った。
「ずるいね、そういうところ」

「君が好きだったんじゃなかった?」

「うん。でも、それで何度も迷子になった」

「でも、こうしてまた見つけた」

「……ほんとにね」

部屋の中に、また静けさが戻ってきた。
けれどその静けさは、昔とは少し違っていた。
それはもう、“孤独”ではなかった。
静けさのなかに、かすかな希望の種のようなものが、ゆっくりと芽を出そうとしていた。
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