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第5章:夢のなかの岸辺で
彼女はその夜、ぼくの隣で眠らなかった。
ソファに身体を丸め、外の雨音に耳を澄ませていた。
時計の針が、ひとつずつ夜を削っていく。
「ねえ」と、彼女が唐突に言った。
「海辺の町で、ある少年に出会ったの」
「少年?」
彼女は静かにうなずいた。
「声のない子だった。いや、ほんとうに声が出なかったのか、それとも話さなかったのか、わからない。
でもその子は、毎日決まった時間に、海辺の古いベンチに座って、ずっと空を見てた」
彼女の声は、まるでその町の風景をぼくの目の前に再構築するかのようだった。
夕方の光に濡れた波打ち際、風に揺れるアジサイの茂み、遠くで鳴る貨物列車の音。
そこにはぼくの知らない彼女が、確かに生きていた。
「その子、時々、小さな箱を持ってきたの。
中には、拾った貝殻や、石、風で飛んできた手紙の切れ端とか、そんなものが入ってて。
ひとつずつ、それを私に見せてくれるの。
何も話さずに、ただ手渡して、また閉じて……まるで、夢の断片みたいだった」
「不思議な話だね」
「うん。でも、なぜかその子に会っている時間だけ、私は孤独じゃなかった。
言葉がないぶん、何かがまっすぐに伝わってきた気がした。
……ねえ、わかる? 誰かの中に、自分の存在がそのまま映ってる感じ」
ぼくは少し考えてから言った。
「たぶん、そういうのを“沈黙の会話”って呼ぶんだと思う」
彼女は微笑んだ。
「その言い方、好きかも」
ぼくは訊いた。
「その子、今は?」
彼女は少し黙って、雨の音に耳を傾けた。
「わからない。ある日、突然来なくなったの。
でも、不思議と悲しくはなかった。
ああ、この子はきっと夢の岸辺に戻っていったんだなって、そんな気がしたの。
でも、ある夜、夢の中で──その子があなたの声で話したの」
「僕の?」
「うん。“忘れていいことと、忘れちゃいけないことは、全然別なんだよ”って」
その言葉に、ぼくはなぜか息を呑んだ。
自分が言った覚えはない。けれど、どこかで確かに、そう言いたかった気がした。
「それで、私ここに戻ってきたの」
彼女は小さな声で言った。
「私たちのこと、ずっと夢のなかに閉じ込めたままだった気がして。
でも、あなたにもう一度会って、話して、触れて──
やっと、その夢から抜け出せた」
その瞬間、音楽が止まった。
CDの終わりだった。
ぼくらはしばらく、音のない部屋にじっと座っていた。
そして、誰からも見えない場所で、たしかにひとつの時間が終わり、新しいページが開いた音がした。
彼女はその夜、ぼくの隣で眠らなかった。
ソファに身体を丸め、外の雨音に耳を澄ませていた。
時計の針が、ひとつずつ夜を削っていく。
「ねえ」と、彼女が唐突に言った。
「海辺の町で、ある少年に出会ったの」
「少年?」
彼女は静かにうなずいた。
「声のない子だった。いや、ほんとうに声が出なかったのか、それとも話さなかったのか、わからない。
でもその子は、毎日決まった時間に、海辺の古いベンチに座って、ずっと空を見てた」
彼女の声は、まるでその町の風景をぼくの目の前に再構築するかのようだった。
夕方の光に濡れた波打ち際、風に揺れるアジサイの茂み、遠くで鳴る貨物列車の音。
そこにはぼくの知らない彼女が、確かに生きていた。
「その子、時々、小さな箱を持ってきたの。
中には、拾った貝殻や、石、風で飛んできた手紙の切れ端とか、そんなものが入ってて。
ひとつずつ、それを私に見せてくれるの。
何も話さずに、ただ手渡して、また閉じて……まるで、夢の断片みたいだった」
「不思議な話だね」
「うん。でも、なぜかその子に会っている時間だけ、私は孤独じゃなかった。
言葉がないぶん、何かがまっすぐに伝わってきた気がした。
……ねえ、わかる? 誰かの中に、自分の存在がそのまま映ってる感じ」
ぼくは少し考えてから言った。
「たぶん、そういうのを“沈黙の会話”って呼ぶんだと思う」
彼女は微笑んだ。
「その言い方、好きかも」
ぼくは訊いた。
「その子、今は?」
彼女は少し黙って、雨の音に耳を傾けた。
「わからない。ある日、突然来なくなったの。
でも、不思議と悲しくはなかった。
ああ、この子はきっと夢の岸辺に戻っていったんだなって、そんな気がしたの。
でも、ある夜、夢の中で──その子があなたの声で話したの」
「僕の?」
「うん。“忘れていいことと、忘れちゃいけないことは、全然別なんだよ”って」
その言葉に、ぼくはなぜか息を呑んだ。
自分が言った覚えはない。けれど、どこかで確かに、そう言いたかった気がした。
「それで、私ここに戻ってきたの」
彼女は小さな声で言った。
「私たちのこと、ずっと夢のなかに閉じ込めたままだった気がして。
でも、あなたにもう一度会って、話して、触れて──
やっと、その夢から抜け出せた」
その瞬間、音楽が止まった。
CDの終わりだった。
ぼくらはしばらく、音のない部屋にじっと座っていた。
そして、誰からも見えない場所で、たしかにひとつの時間が終わり、新しいページが開いた音がした。
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