猫と雨

ドルドレオン

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それから、数日が過ぎた。

ユカと一緒に温室に植えたアボカドの種は、最初は何の変化も見せなかった。毎日通う僕を、温室の係員は不思議そうな目で見ていたが、特に何も聞かれなかった。ビニール手袋をしたまま軽く会釈するだけで、僕はいつものように温室の奥へと入っていった。

9月22日、午後4時13分。

芽が出た。

それは文字通り、“目が覚める”ような瞬間だった。
鉢の中央から伸びた小さな芽は、まるで息をしているかのように微かに震えていた。光沢のある薄緑色の双葉。その周囲の空気が、ほんの少し、ゆがんで見えた。

それは、現実の質感が微妙に変わるような感覚だった。たとえば、夢の中で目を覚ましたときのような、あるいは鏡の中に自分以外の気配を感じたときのような。

ユカは、芽を見た瞬間、黙ってその場にしゃがみ込んだ。

「思ったより早かった…」と彼女はぽつりとつぶやいた。「この芽は、誰かが忘れていた記憶を吸って育ってる。たぶん、あなたの記憶も」

「僕の?」

「うん。あなたが猫だったときの、夜のこと。屋根の上、空気の匂い、眠っている街の光…」

僕はなぜか、その情景を正確に思い浮かべることができた。ユカの声が、それを引き出す鍵になったかのように。

赤茶けた屋根のタイル。
どこかで鳴っているエアコンのモーター音。
そして、満月の下で静かに並んで座る猫たちの群れ――。

「僕は……本当に猫だったのか?」

「たぶん、今でも完全には人間じゃないんだと思う」とユカは言った。「そういう人は、ときどきいる。ちゃんと“変わりきれなかった”人。夜になると、どこかに体の一部を置き忘れてしまうような人」

彼女の目が真っ直ぐに僕を見た。

「この芽がもっと大きくなるとね、世界の“ひび”が見えるようになるの。あなたも、それを見たら戻れなくなるかもしれない」

「戻れないって、どこへ?」

「“こっち側”よ。人間の世界。時間が直線に流れて、すべてに名前があって、合理性が優先される世界」

「それ以外の世界があるのか?」

「ある。というより、ないと思い込んでるだけ。猫たちは昔から、その境界の向こう側を自由に歩いてた。夢と現実のあいだ。記憶と存在の隙間」

そのとき、温室の入り口で「カシャッ」と音がした。

僕たちは振り返った。誰かが、写真を撮ったような音だった。でも誰もいなかった。ただ、白い紙が一枚、床に落ちていた。

僕が拾い上げると、それは写真だった。

そこには、屋根の上で並んで座る――二匹の猫の背中が写っていた。
一匹は黒く、もう一匹は灰色で、尻尾を絡めるようにしていた。

そしてその写真の右下には、こう書かれていた。

2009年10月、東山の夜。
忘れないでください。

僕はしばらく言葉を失った。写真の構図も、光も、すべてがありありと僕の記憶と重なっていた。いや、記憶ではない。実際に見たことがある景色だった。

「ユカ……これ、どういうことだ?」

彼女は答えなかった。
その代わりに、彼女の目尻から、一筋の涙が流れていた。

「あなたが忘れてたの」と、彼女はかすれた声で言った。「…あの夜、私と一緒にいたこと」
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