37 / 155
第4章 人魚の弔鐘
4-11.忍び寄る影
しおりを挟む
午前9時。
アール島の空は、突き抜けるようなコバルトブルーに染まり、天頂へ昇り始めた太陽が容赦なく海面を照らし出していた。
心地よいはずの潮風は、どこか火薬のような乾燥した緊張を孕んでいる。
サラ邸のテラス。
エリザベスは、自身の肉体の変貌を静かに噛み締めていた。
1ヶ月前、この島に降り立った時の自分とは違う。
サラによる苛烈な指導……呼吸の1回、指先の動き一つに至るまで徹底的に「深淵の理」を叩き込まれた結果、エリザベスの肢体は、もはや彫刻を越えて一振りの細剣(レイピア)のように研ぎ澄まされていた。
大腿四頭筋のしなやかな隆起。
そして特筆すべきは、その心肺機能だ。
サラの課した限界突破のトレーニングにより、エリザベスの肺胞は拡張され、赤血球の酸素運搬能力は極限まで高められている。
今や彼女は、1度の換気で肺の隅々まで酸素を供給し、深海での長時間活動を可能にする「人魚の心臓」を手に入れつつあった。
だが、その師であるサラの様子がおかしい。
「……大丈夫? サラ」
エリザベスが声をかける。
サラの顔色は決して悪くない。
しかし、その佇まいはあまりに静かすぎた。いつもなら修行の前に放つ、あの肌を刺すような闘気が感じられない。
「大丈夫よ。少し風邪かしら……」
サラは力なく微笑んだ。
その微笑みが、エリザベスの中の冷徹な「任務」を加速させる。
「でも、日課だもの。今日もトンネルへ行きましょう」
サラの声が静かに響く。
午前10時。
運命の刻限だ。
エリザベスは
「ちょっと支度をしてくる」
と短く告げ、パウダールームへ滑り込んだ。
閉ざされた密室。
彼女は左手に隠し持っていた携帯電話を素早く取り出す。
訓練で鍛えられた指先は、戦慄くこともなく正確にキーを叩いた。
『ターゲット、移動開始』
安藤への合図。
それは、1ヶ月間自分を鍛え上げてくれた師への、決定的な裏切りの宣告だった。
2人で桟橋へ出ると、テラスから黒崎が向かってきて、サラを呼び止めた。
彼は鋭い眼光でサラを射抜き、その歩みを止めた。
「サラ、顔色が優れないな。薬を飲んでから行け」
有無を言わせぬその言葉に、黒崎とサラは1度サラ邸へ戻った。
2分後、再び桟橋に立つサラの瞳には、微かな光が戻っていた。
それを見つめるエリザベスの視線は、冷酷な観察者のそれでありながら、同時に奇妙な熱を帯びていた。
「行きましょう、エリザベス」
「今日は波が高いから、モーターボートで行こう。おれが運転する」
桟橋まで来ていた黒崎が先にモーターボートに乗り込む。
エリザベスは内心で舌打ちをした。
だが、すぐに考えを改める。黒崎がいかに「陸の王者」であろうと、水深数十メートルの水圧と暗闇の前では無力だ。
むしろ、安藤の罠に嵌まる様子を間近で見物できる絶好の機会だと、冷笑を浮かべた。
一方、陸の上では、もう1人の怪物がその爪を剥き出しにしていた。
ヘンリー・西谷。
彼は病院の事務室という隠れ家で、安藤の牙城を跡形もなく破壊していた。
「……甘いんだよ、ホワイトキャットさん」
ヘンリーの指先が踊る。
安藤のサーバー、その最深部に隠されていた「ホワイトキャット事業計画」の暗号が、剥離する鱗のように次々と解かれていく。
現れたのは、血を啜るような欲望の青写真だった。
• 『アール島西側の大規模開発』……島の美しさをコンクリートで塗り潰し、巨額の利権を独占する
• 『サラ・テヴァリエ抹殺』……計画の最大の抵抗勢力である彼女を、この海域で「事故」に見せかけて消し去る
「黒崎さん……こいつは、ただのビジネスじゃない。戦争だ」
ヘンリーは即座に、取得したデータを黒崎の端末へと転送し始めた。
モーターボートは激しい波を蹴散らし、2キロ先のポイントへと急ぐ。
船べりで目を閉じるサラ。
その隣で、エリザベスは深く、静かな呼吸を繰り返していた。
横隔膜を意図的に下げ、肺の容積を最大化する。
サラから教わった技術が、今まさにサラを追い詰めるための力となっている皮肉。
しかし、彼女たちはまだ知らない。
エメラルドグリーンの海面の遥か下。
太陽の光が屈折し、やがて届かなくなる深淵の底では、安藤が放った水中ドローン部隊が、音もなく編隊を組んでいることを。
その機体が携えた「新兵器」の銃口は、迷うことなく上方の光――サラたちが潜り込んでくる「獲物」の影――に向けられていた。
「着いたぞ」
黒崎がエンジンを止めた。
周囲を囲むのは、荒れ狂う波の音だけ。
サラとエリザベス、2人の女が、それぞれの決意を胸に海へと身を投じようとしていた。
アール島の空は、突き抜けるようなコバルトブルーに染まり、天頂へ昇り始めた太陽が容赦なく海面を照らし出していた。
心地よいはずの潮風は、どこか火薬のような乾燥した緊張を孕んでいる。
サラ邸のテラス。
エリザベスは、自身の肉体の変貌を静かに噛み締めていた。
1ヶ月前、この島に降り立った時の自分とは違う。
サラによる苛烈な指導……呼吸の1回、指先の動き一つに至るまで徹底的に「深淵の理」を叩き込まれた結果、エリザベスの肢体は、もはや彫刻を越えて一振りの細剣(レイピア)のように研ぎ澄まされていた。
大腿四頭筋のしなやかな隆起。
そして特筆すべきは、その心肺機能だ。
サラの課した限界突破のトレーニングにより、エリザベスの肺胞は拡張され、赤血球の酸素運搬能力は極限まで高められている。
今や彼女は、1度の換気で肺の隅々まで酸素を供給し、深海での長時間活動を可能にする「人魚の心臓」を手に入れつつあった。
だが、その師であるサラの様子がおかしい。
「……大丈夫? サラ」
エリザベスが声をかける。
サラの顔色は決して悪くない。
しかし、その佇まいはあまりに静かすぎた。いつもなら修行の前に放つ、あの肌を刺すような闘気が感じられない。
「大丈夫よ。少し風邪かしら……」
サラは力なく微笑んだ。
その微笑みが、エリザベスの中の冷徹な「任務」を加速させる。
「でも、日課だもの。今日もトンネルへ行きましょう」
サラの声が静かに響く。
午前10時。
運命の刻限だ。
エリザベスは
「ちょっと支度をしてくる」
と短く告げ、パウダールームへ滑り込んだ。
閉ざされた密室。
彼女は左手に隠し持っていた携帯電話を素早く取り出す。
訓練で鍛えられた指先は、戦慄くこともなく正確にキーを叩いた。
『ターゲット、移動開始』
安藤への合図。
それは、1ヶ月間自分を鍛え上げてくれた師への、決定的な裏切りの宣告だった。
2人で桟橋へ出ると、テラスから黒崎が向かってきて、サラを呼び止めた。
彼は鋭い眼光でサラを射抜き、その歩みを止めた。
「サラ、顔色が優れないな。薬を飲んでから行け」
有無を言わせぬその言葉に、黒崎とサラは1度サラ邸へ戻った。
2分後、再び桟橋に立つサラの瞳には、微かな光が戻っていた。
それを見つめるエリザベスの視線は、冷酷な観察者のそれでありながら、同時に奇妙な熱を帯びていた。
「行きましょう、エリザベス」
「今日は波が高いから、モーターボートで行こう。おれが運転する」
桟橋まで来ていた黒崎が先にモーターボートに乗り込む。
エリザベスは内心で舌打ちをした。
だが、すぐに考えを改める。黒崎がいかに「陸の王者」であろうと、水深数十メートルの水圧と暗闇の前では無力だ。
むしろ、安藤の罠に嵌まる様子を間近で見物できる絶好の機会だと、冷笑を浮かべた。
一方、陸の上では、もう1人の怪物がその爪を剥き出しにしていた。
ヘンリー・西谷。
彼は病院の事務室という隠れ家で、安藤の牙城を跡形もなく破壊していた。
「……甘いんだよ、ホワイトキャットさん」
ヘンリーの指先が踊る。
安藤のサーバー、その最深部に隠されていた「ホワイトキャット事業計画」の暗号が、剥離する鱗のように次々と解かれていく。
現れたのは、血を啜るような欲望の青写真だった。
• 『アール島西側の大規模開発』……島の美しさをコンクリートで塗り潰し、巨額の利権を独占する
• 『サラ・テヴァリエ抹殺』……計画の最大の抵抗勢力である彼女を、この海域で「事故」に見せかけて消し去る
「黒崎さん……こいつは、ただのビジネスじゃない。戦争だ」
ヘンリーは即座に、取得したデータを黒崎の端末へと転送し始めた。
モーターボートは激しい波を蹴散らし、2キロ先のポイントへと急ぐ。
船べりで目を閉じるサラ。
その隣で、エリザベスは深く、静かな呼吸を繰り返していた。
横隔膜を意図的に下げ、肺の容積を最大化する。
サラから教わった技術が、今まさにサラを追い詰めるための力となっている皮肉。
しかし、彼女たちはまだ知らない。
エメラルドグリーンの海面の遥か下。
太陽の光が屈折し、やがて届かなくなる深淵の底では、安藤が放った水中ドローン部隊が、音もなく編隊を組んでいることを。
その機体が携えた「新兵器」の銃口は、迷うことなく上方の光――サラたちが潜り込んでくる「獲物」の影――に向けられていた。
「着いたぞ」
黒崎がエンジンを止めた。
周囲を囲むのは、荒れ狂う波の音だけ。
サラとエリザベス、2人の女が、それぞれの決意を胸に海へと身を投じようとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる