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第5章 緋色の龍宮(饗宴)
5-15.悪魔の裏切り案
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「蒼溟重工の主張を伝えます。いますぐ、赤龍エンタープライズとの契約を白紙に戻していただきたい。その代わり、あなたにはこの質素な暮らしではない、真の贅を尽くした『安全な』地上での地位を保証しましょう」
林の言葉は、疲労で麻痺しかけた黒崎の脳に、甘美な毒のように染み込んでいく。
「リー社長は、あなたをただの『潜水道具』としてしか見ていない。今朝のセックスだって、彼女にとってはただの実験の一部かもしれない。そんな狂女を裏切ることに、何の罪悪感が必要ですか?」
その時、奥の寝室のドアがわずかに開いた。
そこから、髪を濡らしたままのサラが、冷たい瞳でこちらを覗いている。
彼女はこの男の提案を、そして黒崎の反応を、死神のような静寂で見守っていた。
黒崎は、コップを持ったままピクリとも動かず、低く、地這うような声で林を射抜いた。
「……待ってください。今朝のことを、なぜあなたが知っている」
林は動じず、薄い唇の両端をわずかに吊り上げた。その表情には、自らの情報網に対する絶対的な自信が滲み出ている。
「お忘れですか、黒崎代表。我々は『龍宮』の建設予定地の海底調査をしている。そして、我が蒼溟重工の監視ドローンは、蚊の一匹の羽ばたきさえ逃さない。高度3000メートルからの赤外線カメラには、夜明けの断崖から落ちていく熱源と、崖を徒歩でゆっくり移動する熱源が鮮明に映っていましたよ」
林はわざとらしく溜息をつき、黒崎の疲弊した肢体を眺めた。
「30メートルの深海で、どれほど身体に負荷がかかり、どれほど酸素を浪費したか。解析データは、あなたが今、医学的に見て『死の淵』から戻ってきたばかりであることを示している。……そんな無理をさせてまで、リー社長は自分の欲望を優先した。彼女にとって、あなたの命などその程度の価値だと言っているのですよ」
黒崎は拳を握りしめ、林を睨みつけた。
今朝の、あの死を予感させるほどに甘美だった重圧。
サラの肌の熱。
それを無機質なデジタルデータとして盗み見られていたことに、腹の底から煮えくり返るような不快感が込み上げてくる。
そもそも、林の勤める蒼溟重工には、裏で国際テロ組織と関わりがあるという黒い噂が絶えない。
そんな組織の末端にいる男に、自分たちの聖域を土足で踏みにじられたのだ。
「……盗撮ですか。蒼溟の方は随分と趣味が悪いですね」
「ビジネスですよ。我々は投資対象の状態を常に把握しておかなければならない。代表、あなたはもう限界だ。これ以上あの女に付き合えば、次は海面に戻ってこれなくなる。リー社長に『工事中止』を告げるだけでいい。そうすれば、あなたは今すぐそのソファーに横になり、安全な眠りにつくことができる。……どうですか?」
黒崎は、机の上に置かれたコップをゆっくりと置いた。
その動作は重々しかったが、迷いはなかった。彼は深くソファーの背もたれに体を預け、林を見据えて低く笑った。
「勘違いしないでいただきたい、林さん。私たちはリー社長に命令されて海に潜っているわけじゃない」
林が怪訝そうに眉を動かす。黒崎は言葉を続けた。
「サラが断崖から飛ぶのも、30メートルの暗闇でサラを抱くのも、すべては我々が、我々自身の意思で決めてやっているんです。リー社長のプロジェクトに乗っているのは事実ですが、我々の行動を彼女が支配しているわけじゃないんですよ」
林は鼻で笑い、やれやれといった風に首を振った。
「自発的な心中、というわけですか。それはなおさら質が悪い。黒崎代表、あなたはあのアスリートのような女に、脳まで毒されているんじゃないですか?」
「毒されている? ……いや、逆ですね」
黒崎は立ち上がり、ふらつく足を床に踏みしめた。窓の外、太陽が照りつける穏やかな海を見つめる。
「私は、自分の命が削れる瞬間にしか味わえない景色を知ってしまったです。30メートルの底で、肺が潰れそうな圧力を感じながらサラの鼓動を聴く。その瞬間の生の実感は、あなた方が椅子の上で転がしている端金じゃ、一生買い取れないですよ」
林は表情を消した。
目の前の男が、単なる「ビジネスの相手」ではなく、自分たちの論理が通用しない「狂った個体」であることを悟ったからだ。
「……つまり、工事を中止させる進言は受け入れられないと?」
「当然です。我々が覚悟を持って造り上げてようとしている場所を、国際てろそしき横から来たサラリーマンのあなたに壊させるわけには…残念ながら参りません。リー社長がどう思おうが関係ありません。この『龍宮』完成のキーを握っているのは、この私なのです」
その時、Tシャツ姿のサラが姿を現し、黒崎の背中にそっと手を置く。
その指先は、微かに震えていたが、その瞳は林を冷徹に拒絶していた。
「……聞こえたでしょ。私たちは、私たちのために潜っているの」
サラの冷たい声が、質素な居間の空気をひりつかせた。
その瞬間、林は椅子を乱暴に押しのけるように立ち上がり、不快げにスーツの皺を手で払う。
まるで、この家そのものが自尊心を傷つける“汚れ”であるかのように。
「……残念です、黒崎代表。あなたがそこまで理性を失っているとは。蒼溟重工は、自滅を待つほど気長ではありません」
捨て台詞を投げ捨てながら、林は踵を返し、玄関の方へと歩きだした。
黒崎も礼儀として見送ろうと、静かに席を立つ。
しかし――その動きとほぼ同時に、秘書が音もなくサラの方へ歩み寄ってきた。
ライムグリーンのハイヒールが床板をわずかに叩く。
彼女は黒縁メガネの奥で優しげな光を宿しながら、サラの横に立った。
その動作には、秘書らしい遠慮と同時に、“目撃されてはならない気配”が潜んでいる。
「この家にね、盗聴器が仕掛けてあるわ」
囁くような声。
しかし、確実に耳へ刺さるほどの鋭さを帯びていた。
そして、もう一言。
「気を付けて……フェアリー」
秘書は微笑んだ。
凍てつくような空気の中で、その笑みだけが異様に温かい。
そのまま、何事もなかったかのように踵を返し、林の後を追って玄関へ向かう。
脚をひらりと組み替えるように歩く姿は、どこか舞台の上の役者のようですらあった。
サラはその背中を呆然と見送った。
胸の奥に微かなざわめきが生まれる。
――“フェアリー”。
そう呼ぶ女性が、かつて――
いたような、いなかったような。
霧の向こうに手を伸ばすような曖昧な記憶だけが、かすかに疼いた。
秘書のハイヒールが玄関で小さく鳴り、ドアの閉まる音が響いた瞬間、居間には再び、静寂だけが残った。
その静寂は不気味なほど深く、まるで今しがた、ここに“別の世界の者”が立っていた証拠をすべて飲み込むかのようだった。
林の言葉は、疲労で麻痺しかけた黒崎の脳に、甘美な毒のように染み込んでいく。
「リー社長は、あなたをただの『潜水道具』としてしか見ていない。今朝のセックスだって、彼女にとってはただの実験の一部かもしれない。そんな狂女を裏切ることに、何の罪悪感が必要ですか?」
その時、奥の寝室のドアがわずかに開いた。
そこから、髪を濡らしたままのサラが、冷たい瞳でこちらを覗いている。
彼女はこの男の提案を、そして黒崎の反応を、死神のような静寂で見守っていた。
黒崎は、コップを持ったままピクリとも動かず、低く、地這うような声で林を射抜いた。
「……待ってください。今朝のことを、なぜあなたが知っている」
林は動じず、薄い唇の両端をわずかに吊り上げた。その表情には、自らの情報網に対する絶対的な自信が滲み出ている。
「お忘れですか、黒崎代表。我々は『龍宮』の建設予定地の海底調査をしている。そして、我が蒼溟重工の監視ドローンは、蚊の一匹の羽ばたきさえ逃さない。高度3000メートルからの赤外線カメラには、夜明けの断崖から落ちていく熱源と、崖を徒歩でゆっくり移動する熱源が鮮明に映っていましたよ」
林はわざとらしく溜息をつき、黒崎の疲弊した肢体を眺めた。
「30メートルの深海で、どれほど身体に負荷がかかり、どれほど酸素を浪費したか。解析データは、あなたが今、医学的に見て『死の淵』から戻ってきたばかりであることを示している。……そんな無理をさせてまで、リー社長は自分の欲望を優先した。彼女にとって、あなたの命などその程度の価値だと言っているのですよ」
黒崎は拳を握りしめ、林を睨みつけた。
今朝の、あの死を予感させるほどに甘美だった重圧。
サラの肌の熱。
それを無機質なデジタルデータとして盗み見られていたことに、腹の底から煮えくり返るような不快感が込み上げてくる。
そもそも、林の勤める蒼溟重工には、裏で国際テロ組織と関わりがあるという黒い噂が絶えない。
そんな組織の末端にいる男に、自分たちの聖域を土足で踏みにじられたのだ。
「……盗撮ですか。蒼溟の方は随分と趣味が悪いですね」
「ビジネスですよ。我々は投資対象の状態を常に把握しておかなければならない。代表、あなたはもう限界だ。これ以上あの女に付き合えば、次は海面に戻ってこれなくなる。リー社長に『工事中止』を告げるだけでいい。そうすれば、あなたは今すぐそのソファーに横になり、安全な眠りにつくことができる。……どうですか?」
黒崎は、机の上に置かれたコップをゆっくりと置いた。
その動作は重々しかったが、迷いはなかった。彼は深くソファーの背もたれに体を預け、林を見据えて低く笑った。
「勘違いしないでいただきたい、林さん。私たちはリー社長に命令されて海に潜っているわけじゃない」
林が怪訝そうに眉を動かす。黒崎は言葉を続けた。
「サラが断崖から飛ぶのも、30メートルの暗闇でサラを抱くのも、すべては我々が、我々自身の意思で決めてやっているんです。リー社長のプロジェクトに乗っているのは事実ですが、我々の行動を彼女が支配しているわけじゃないんですよ」
林は鼻で笑い、やれやれといった風に首を振った。
「自発的な心中、というわけですか。それはなおさら質が悪い。黒崎代表、あなたはあのアスリートのような女に、脳まで毒されているんじゃないですか?」
「毒されている? ……いや、逆ですね」
黒崎は立ち上がり、ふらつく足を床に踏みしめた。窓の外、太陽が照りつける穏やかな海を見つめる。
「私は、自分の命が削れる瞬間にしか味わえない景色を知ってしまったです。30メートルの底で、肺が潰れそうな圧力を感じながらサラの鼓動を聴く。その瞬間の生の実感は、あなた方が椅子の上で転がしている端金じゃ、一生買い取れないですよ」
林は表情を消した。
目の前の男が、単なる「ビジネスの相手」ではなく、自分たちの論理が通用しない「狂った個体」であることを悟ったからだ。
「……つまり、工事を中止させる進言は受け入れられないと?」
「当然です。我々が覚悟を持って造り上げてようとしている場所を、国際てろそしき横から来たサラリーマンのあなたに壊させるわけには…残念ながら参りません。リー社長がどう思おうが関係ありません。この『龍宮』完成のキーを握っているのは、この私なのです」
その時、Tシャツ姿のサラが姿を現し、黒崎の背中にそっと手を置く。
その指先は、微かに震えていたが、その瞳は林を冷徹に拒絶していた。
「……聞こえたでしょ。私たちは、私たちのために潜っているの」
サラの冷たい声が、質素な居間の空気をひりつかせた。
その瞬間、林は椅子を乱暴に押しのけるように立ち上がり、不快げにスーツの皺を手で払う。
まるで、この家そのものが自尊心を傷つける“汚れ”であるかのように。
「……残念です、黒崎代表。あなたがそこまで理性を失っているとは。蒼溟重工は、自滅を待つほど気長ではありません」
捨て台詞を投げ捨てながら、林は踵を返し、玄関の方へと歩きだした。
黒崎も礼儀として見送ろうと、静かに席を立つ。
しかし――その動きとほぼ同時に、秘書が音もなくサラの方へ歩み寄ってきた。
ライムグリーンのハイヒールが床板をわずかに叩く。
彼女は黒縁メガネの奥で優しげな光を宿しながら、サラの横に立った。
その動作には、秘書らしい遠慮と同時に、“目撃されてはならない気配”が潜んでいる。
「この家にね、盗聴器が仕掛けてあるわ」
囁くような声。
しかし、確実に耳へ刺さるほどの鋭さを帯びていた。
そして、もう一言。
「気を付けて……フェアリー」
秘書は微笑んだ。
凍てつくような空気の中で、その笑みだけが異様に温かい。
そのまま、何事もなかったかのように踵を返し、林の後を追って玄関へ向かう。
脚をひらりと組み替えるように歩く姿は、どこか舞台の上の役者のようですらあった。
サラはその背中を呆然と見送った。
胸の奥に微かなざわめきが生まれる。
――“フェアリー”。
そう呼ぶ女性が、かつて――
いたような、いなかったような。
霧の向こうに手を伸ばすような曖昧な記憶だけが、かすかに疼いた。
秘書のハイヒールが玄関で小さく鳴り、ドアの閉まる音が響いた瞬間、居間には再び、静寂だけが残った。
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