「深淵のサラ」 〜極限の潜水パフォーマンスに挑む金髪の美姫。独占欲に溺れるCEOと、立ちはだかる女帝たち〜

Mina_Underwater

文字の大きさ
101 / 155
【外伝】Episode-ゼロ 真珠の起源 第2章 沈没からの逆襲

2-2.島唯一の診療所

しおりを挟む
2人はまず、小さな商店で黒崎の服を適当に繕った。
安物のシャツと綿のパンツに着替えると、ようやく人心地がついた気がした。

それから、ひどく痛む右耳を診てもらうために、島で唯一の診療所へ向かった。
建物に入ると、客はゼロ。
受付に老婆が座り、その奥で若い青年が暇そうにノートパソコンを見ていた。

「すみません」

サラが声をかけると、老婆が笑顔をみせた。

「まあ、サラ、どうしたの?風邪でもひいたの?」

どうやら顔見知りのようだ。

「お久しぶり、リサおばさん。でも、今日は私じゃないの。こちら、エドワード・黒崎さん」

その声に奥の青年が反応した。
黒崎の顔を見るや立ち上がって叫ぶ

「えーー!うそー!エドワード・黒崎じゃん!なんで?なんでこんなとこにいるの?」
「ん?ヘンリーの知り合いかい?」
「違う違う、ほら、IT関連の社長の、うーん、あ、たまに討論番組に出て、おっさんと喧嘩してる‥‥オレ大ファンなんです!握手してください」

そこへ白衣姿の老人が現れた。

「なんか、珍しく、にぎやかじゃのう」

「あ、ジャン先生こんにちは。この人、鼓膜を損傷しちゃったの、ちょっと診てあげて」

ジャン医師は、穏やかな笑みをたたえながら診療所の入り口に姿を現した。
その佇まいには77年の歳月が宿るはずなのに、どこか青年のような清々しさがある。
本名は ジャン・西谷。

アール島で生まれ、海と光を相手に育った少年は、やがて “人を救う” という漠然とした憧れだけを胸に、単身フランスへ渡った。

ソルボンヌ大学で医学を学び、パリの大病院で研鑽を積み、気づけば医師として一目置かれる存在になっていた。
しかし、彼の人生を決定的に変えたのは、医学書でもメスでもない。

24歳のとき、パリの街角で出会ったひとりの女性――リサだった。
セーヌ川沿いで偶然交わした言葉は短いものだったが、彼女の横顔に射し込んだ夕陽が、妙に胸に残った。

美術館を巡り、カフェで語り合い、夜のパリを歩くうちに、彼は気づいた。

「この人となら、どんな道でも歩いていける」

と。
そして25歳の冬、ふたりは結婚した。

パリの石畳を照らす街灯の下、リサが笑った瞬間、ジャンは “人生の中心” が静かに書き換わるのを感じた。
だが、年月を重ねるうちに、彼の心には別の影が差しはじめる。

遠く離れた故郷アール島――医師のいない島の姿が、夜ごと胸の奥で疼くようになっていった。
2人の子供が独立した50歳のときに、パリの大病院を辞めたのも、そんな思いが背中を押したからだ。

彼はリサと共にニューカレドニアへ渡り、メディポール・ド・クティオの院長として地域医療を支え続けた。
そして、56歳。
故郷から届いた手紙を読み終えたとき、彼は静かにペンを置いた。

「島に医師はいない。助けを求める声がある。」

その一行は、パリを離れたあの日よりも強く、彼の心を揺さぶった。
翌朝、彼は決意していた。
リサも黙って微笑んだ。

「あなたが行くなら、私も行くわ。」

その言葉に、ジャンは人生で何度目かの “救われるような感覚” を味わった。
こうして夫妻はアール島へ戻り、小さな診療所を開いた。

それから20年以上、ジャンは島の医師として、そして島の誰もが尊敬する“先生”として生きてきた。
今、穏やかな笑顔で現れた77歳のジャン医師は、
1人の医師であると同時に、先住民カナックの首長でもあった。


「あ、それと、この人、実は……」

サラが声を落とす。

「昨日の飛行機事故で、この島に流れ着いた人なの」

ちょうどそのとき、待合室の片隅で、古いブラウン管のテレビが、昨日から繰り返されているであろうニュースを騒がしく流していた。
全員無言でテレビを注視する。

『……ブラックドッグ社のプライベートジェットが南太平洋のニューカレドニア沖で墜落。ケアンズの本社は対応に追われています。現在、消息を絶ったエドワード・黒崎氏の安否が絶望視されており、市場では同社の株価が急落……』

画面には、完璧なタキシードを纏い、自信と傲慢に満ち溢れた「自分」の写真が映し出されている。
黒崎がそれを、まるで他人の一生を眺めるような奇妙な心地で見つめていると、キャスターの声が一際高く響いた。

『速報です。国土建設省事故調査委員会の水中ドローンが、先ほど、海底に沈んだ機体を確認しました。なお遺体は発見されていません。機体はいまも、水深75メートルの海底に横たわっており、激しい潮流のため、引き上げには相当な難航が予想されます……』

「75メートル……」
黒崎は、思わずつぶやいた。
心臓が早鐘を打つ。
75メートル。
光も届かず、凄まじい水圧がすべてを押し潰す、死の深淵。

その瞬間、背中に残っていた「あの感触」が鮮烈に蘇った。
墜落し、機体ごと海の底に沈み意識を失う寸前。
自分を救い出すために、あの猛烈な水圧の中、彼女は全裸で自分を抱きかかえていた。

背中に押し当てられていた、あの豊かで柔らかな大きな胸の感触。
重力も酸素もない暗闇の中で、その温もりだけが、自分を現世へと繋ぎ止める唯一の希望だった。
あの弾力は、命そのものの脈動だったのだ。

彼は隣にいるサラを、戦慄と驚愕、そして言いようのない熱い感情で見つめた。
一同はニュースに映る「行方不明の億万長者」を目の当たりにし、言葉を失っている。

(この女は……。本当に、あの奈落の底から、おれを抱えて戻ってきたのか)

自分の知る合理性も、科学も、スポーツの常識も、すべてがガラガラと音を立てて崩れ去った。
この目の前にいる、藁を纏っただけの20歳の女性は、酸素ボンベもフィンも、ウェットスーツもなし、マスクすら持たず、ただ己の肉体一つで死の世界へ降り、自分を「愛」のように抱きしめて浮上してきたのだ。

黒崎は震える手で、自分のシャツの上から、かつて彼女の胸が触れていた背中のあたりをそっとなぞった。
今、ここで呼吸をしていること。
自分の葬式のようなニュースを眺めていること。

そのすべてが、隣で所在なさげに佇んでいる「人魚」によって与えられた、ありえない奇跡。
エドワード・黒崎という男の傲慢な魂は、この瞬間、初めて真に屈服した。
それは敗北ではなく、救済だった。

「……サラ、君は一体……」
「ん?早く診てもらいましょう」

サラが屈託のない笑顔で振り向いた。その純粋な瞳が、驚愕に凍りついた黒崎の心を、優しく、そして確実に溶かしていった。
奥にいたヘンリーと呼ばれた青年が、

「早く、総領事館に連絡入れてあげようよ。それと、、、身分証明書はこれを使ってください。これがあると手続きも早いと思う。」

彼はもっていたノートPCをこちらに見せてきた。
そこにはエドワード・黒崎の出生証明書、運転免許証などが映し出されていた。

ヘンリー・西谷。19歳。
生まれはフランスパリだが、ハイスクール卒業後は定職に付かず、南の島の楽園に住む祖父の元を訪れ、そのまま定住し、1年が経とうとしていた。

その幼い顔立ちに似合わないほど機敏に指を動かした。
ディスプレイの青白い光が、黒崎の過去——輝かしいキャリア、莫大な資産、そして「死んだはずの男」としてのデータ——を無機質に照らし出している。

「ジャン先生は僕の祖父なんです。僕はここで、この島の通信インフラの面倒を見ながら、こうして世の中を覗き見てるってわけ。……まさか、有名人に出会えるなんてね」

ヘンリーは興奮を抑えきれない様子で笑ったが、その隣でジャン医師は、深い皺の刻まれた顔を厳しく歪めていた。

「ヘンリー、騒ぐのはそれぐらいにしなさい。今はIT社長としての彼ではなく、1人の負傷者としての彼を助ける必要がある」

ジャンは黒崎の肩に手を置き、診察室の奥へと促した。
黒崎は、操り人形のように力なく立ち上がった。
背中にはまだ、海底の冷気と、それを打ち消したサラの体温が消えずに残っている。

診察台に座り、ジャンの手によって右耳の奥を覗き込まれる。
金属の冷たい感触。
だが、黒崎の意識はすぐ隣の待合室にいるはずのサラへと向いていた。

(水深75メートル……。あり得ない。人間が素潜りで、しかも成人男性1人を抱えて生還できる限界をとうに超えている)

「……ひどいな」

ジャンの低い声が思考を遮った。

「鼓膜は完全に破れている。それだけじゃない、中耳にかなりの炎症がある。無理な浮上が原因だろうが……。黒崎さん、あんた、本当に運が良かったどころの話じゃないぞ。普通なら、肺が潰れて死んでいる」

「……彼女が、助けてくれたんです」

黒崎の声は掠れていた。ジャンの手が止まる。
老医師は眼鏡の奥の鋭い眼光を黒崎に向け、それからカーテンの隙間から見えるサラの背中を、一瞬だけ慈しむように見つめた。

「サラは……この島の『子』だ。我々の常識で彼女を測ろうとしてはいかんよ、黒崎さん」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

処理中です...