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【外伝】Episode-α 氷華の女王 第1章 沈黙の海
1-11.悪魔の号砲
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だが、その絶頂の刹那。
「氷の女王」の心拍数は、恐怖でも興奮でもなく、殺意によって一拍だけ鋭く跳ね上がった。
反り返ったはずのコナミの肉体が、鞭がしなるような速度で反転する。
混濁する意識の中で、アレクセイは自分の顔面に伸びる白い指先を見た。
次の瞬間、彼女の右手は冷徹な正確さで彼のレギュレーターを叩き落とし、左手は視界を奪うべくマスクを強引に引き剥がした。
「が……っ!」
エクスタシーの残滓が全身を駆け巡る中で、突如として奪われた空気と視界。
マイナス1.8度の海水が、露出した眼球と口腔に容赦なく突き刺さる。
結合を解いたコナミは、驚異的な柔軟性を持つ関節を駆使して、パニックに陥るアレクセイの死角、背後へと瞬時に回り込んだ。
潜水反射により血管が収縮し、酸素消費を最小限に抑えた彼女の筋肉は、この極限下でも乳酸を溜めることなく、機械的な正確さで作動する。
彼女はアレクセイの背負った予備タンクのバルブを全開にした。
ゴォォォォ……ッ!
圧倒的な低音とともに、背後から銀色の暴風が吹き荒れる。
大量の圧縮空気が一気に放出され、バレンツ海の静寂を切り裂いた。
視界は真っ白な泡の壁に閉ざされ、アレクセイは浮力と方向感覚を完全に喪失する。
肺に残されたわずかな空気は、冷水の恐怖とともに枯渇した。
二酸化炭素濃度が限界を超え、アレクセイの脳は強制的にシャットダウンされる。
彼は力なく四肢を投げ出し、頭を暗黒の底へ向けたまま、無慈悲な重力に従って沈降を始めた。
コナミはその光景を、冷たい海と同じ色の瞳で見届けた。
彼女の心臓は、毎分20回という超低速で、効率的に残り少ない酸素を脳へと送り続けている。
彼女はゆっくりと、フィンを使わぬドルフィンキックで浮上を開始した。
氷の穴から顔を出した瞬間、鋭い冷気が彼女の気道を焼いた。
「……ぷはあーっ!」
大きく肺を膨らませ、一気に二酸化炭素を排出する。
大胸筋が大きく波打ち、肋骨の一本一本が浮き出るほど深く呼吸を繰り返す。
氷の淵に置かれたストップウォッチ。その針は、6分55秒を指していた。
通常、この水温での潜水時間は数分が限界だ。
だが、彼女は「愛」という名の演技と「殺意」という名の効率によって、死の淵を渡りきった。
コナミは濡れた金髪を乱暴にかき上げ、震える足で氷の上に上がった。
全身の皮膚は毛細血管の収縮によって青白く、まるで大理石の彫刻のようだ。
彼女は傍らに停めてあった黒いSUVに全裸のまま滑り込み、暖房を最大にする。
解凍されていく感覚の中で、彼女はコンソールボックスからスマートフォンを取り出し、冷徹な声で発信した。
「ターゲット、抹消完了。海流に流されました。回収は不可能です」
スピーカーから、低く無機質な男の声が響く。
「わかった。痕跡を消し、すぐ本部へ戻れ。……見事な仕事だ、シバナヴァ」
「……当然よ」
彼女は電話を切ると、シートに深く背を預けた。
SVR(ロシア対外情報庁)特別工作員、コナミ・シバナヴァ。
彼女こそが、その驚異的な身体能力を買われた最高ランクの殺し屋だったのだ。
アレクセイとの蜜月も、この「天然の処刑場」へ彼を誘い出すための周到な演目に過ぎなかった。
雪原を走り去る車の背後で、再び静寂がバレンツ海を包み込んだ。
「氷の女王」の心拍数は、恐怖でも興奮でもなく、殺意によって一拍だけ鋭く跳ね上がった。
反り返ったはずのコナミの肉体が、鞭がしなるような速度で反転する。
混濁する意識の中で、アレクセイは自分の顔面に伸びる白い指先を見た。
次の瞬間、彼女の右手は冷徹な正確さで彼のレギュレーターを叩き落とし、左手は視界を奪うべくマスクを強引に引き剥がした。
「が……っ!」
エクスタシーの残滓が全身を駆け巡る中で、突如として奪われた空気と視界。
マイナス1.8度の海水が、露出した眼球と口腔に容赦なく突き刺さる。
結合を解いたコナミは、驚異的な柔軟性を持つ関節を駆使して、パニックに陥るアレクセイの死角、背後へと瞬時に回り込んだ。
潜水反射により血管が収縮し、酸素消費を最小限に抑えた彼女の筋肉は、この極限下でも乳酸を溜めることなく、機械的な正確さで作動する。
彼女はアレクセイの背負った予備タンクのバルブを全開にした。
ゴォォォォ……ッ!
圧倒的な低音とともに、背後から銀色の暴風が吹き荒れる。
大量の圧縮空気が一気に放出され、バレンツ海の静寂を切り裂いた。
視界は真っ白な泡の壁に閉ざされ、アレクセイは浮力と方向感覚を完全に喪失する。
肺に残されたわずかな空気は、冷水の恐怖とともに枯渇した。
二酸化炭素濃度が限界を超え、アレクセイの脳は強制的にシャットダウンされる。
彼は力なく四肢を投げ出し、頭を暗黒の底へ向けたまま、無慈悲な重力に従って沈降を始めた。
コナミはその光景を、冷たい海と同じ色の瞳で見届けた。
彼女の心臓は、毎分20回という超低速で、効率的に残り少ない酸素を脳へと送り続けている。
彼女はゆっくりと、フィンを使わぬドルフィンキックで浮上を開始した。
氷の穴から顔を出した瞬間、鋭い冷気が彼女の気道を焼いた。
「……ぷはあーっ!」
大きく肺を膨らませ、一気に二酸化炭素を排出する。
大胸筋が大きく波打ち、肋骨の一本一本が浮き出るほど深く呼吸を繰り返す。
氷の淵に置かれたストップウォッチ。その針は、6分55秒を指していた。
通常、この水温での潜水時間は数分が限界だ。
だが、彼女は「愛」という名の演技と「殺意」という名の効率によって、死の淵を渡りきった。
コナミは濡れた金髪を乱暴にかき上げ、震える足で氷の上に上がった。
全身の皮膚は毛細血管の収縮によって青白く、まるで大理石の彫刻のようだ。
彼女は傍らに停めてあった黒いSUVに全裸のまま滑り込み、暖房を最大にする。
解凍されていく感覚の中で、彼女はコンソールボックスからスマートフォンを取り出し、冷徹な声で発信した。
「ターゲット、抹消完了。海流に流されました。回収は不可能です」
スピーカーから、低く無機質な男の声が響く。
「わかった。痕跡を消し、すぐ本部へ戻れ。……見事な仕事だ、シバナヴァ」
「……当然よ」
彼女は電話を切ると、シートに深く背を預けた。
SVR(ロシア対外情報庁)特別工作員、コナミ・シバナヴァ。
彼女こそが、その驚異的な身体能力を買われた最高ランクの殺し屋だったのだ。
アレクセイとの蜜月も、この「天然の処刑場」へ彼を誘い出すための周到な演目に過ぎなかった。
雪原を走り去る車の背後で、再び静寂がバレンツ海を包み込んだ。
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