懐冬

八紘一宇

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冬の転校生

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タケナカヨウコという名前を初めて聞いた時、その独特の馴染み深く聞きなれない響きがやけに耳に残ったのを覚えている。
先生に紹介された彼女は、恐ろしいほど整った声で再び自らの名前を告げた。タケナカヨウコ。彼女の鋭い声はやはり私の耳によく響いた。

彼女は東京から転校してきた冬の転校生だ。
私には最初から彼女の全てがギラギラと眩しく輝いて見えた。
雑誌でしか見たことのない化粧、テレビでしか聞いたことのない言葉、知らない世界の話。

気づけば彼女はクラスの中心にいた。

なにせ、すらりと高い背に整った顔立ち、誰との会話でも心地よく受け流してくれる見事な会話術。

そんな人間が人気にならないわけがないのだ。


けれどもやはり、私は彼女の華々しさが嫌いだった。

きっと私のような人間に理解を示すことはないだろう。
生まれが東京だなんて、無色透明で雑味しかない通り一辺倒な人間の一人でしかないのだろうと。


意味もなく忌み嫌っていた。


私は、幼い頃からどこか自分が周りと違うと感じていた。
自分が善しとすることと悪しとすることが他人とひどくかけ離れていることを確かに感じていた。

流血沙汰に嬌声をあげ、美談に唾を吐く。
他人と違うことを尊んでいると言われてしまえばそれまでではあるが、それがどれほど幼く醜くとも、徹底した美学には価値があると信じていたのだ。


こんな閉鎖的な田舎では、私のどこか浮いた態度は悪目立ちして、あまりうまく友達も作れなかった。
けれどそれでいいと思っていた。

私は私として生きているだけだ。
それで私を受け入れられない人間がいるのならば仕方がない、無理して関わることはないだろう、と。


私にはひとつの癖があった。
歩く時右足を外側から内側に織り込むように曲げて進むのだ。

長く伸びた服の裾を踏まないように気をつけて歩く所作に少し似ている。

少し歩行のリズムが乱れるが、よく注意しなければ人が気づくことは無い。

この小さな行為で私は自分が他の人間と違うということを証明しようとしていた。

誰もがみな自分は人とは違うと信じているが、実際に何が違うかを明確に言語化はしないし、する意志もない。

けど私は違う。明確に。

だから私をお前たちの仲間だと思うんじゃない、と社会への反抗心のようなものを持ち続けていた。


もうひとつ他人と違うことがある。

私は自分だけの逃げ場所がある。

国道沿いの海岸、裸足なら血まみれになってしまうような岩場の奥にとても小さな砂浜がある。

人ひとりが体育座りすれば砂が見えなくなるような広さだ。

この辺りの海岸はどこも岩場で、テトラポッドに囲まれるような場所もある。
そんな少し入り組んだ湾の奥地にその砂浜はある。

荒い波も寄せつけないその砂浜に私は時たま訪れては波を眺める。

本当に何かから逃げたい時、波が私を攫ってくれないかと期待しながら海風を浴びるのだ。


この街は晴れが少ない。
かと言って雨も多くはない。

気分が下がるような曇天が、藍色の空気をその砂浜に落としてくれるのだ。

そこから見える海は、本当に美しい。
真っ青で、真っ黒で、これ以上ないほど後ろ向きに背中を押してくれる。
私はやはり、その砂浜が途方もなく好きなのだ。


今月に入って3度目の絶交を言い渡された日、やはり私はその砂浜にいた。


最後の友達だと思っていた。

彼女は、私の境遇に酷く同情的だった。

分かるとか、辛いよねとか、聞き飽きるような言葉をよく言ってくれた。

私はこの手の言葉を言ってくる人間が大嫌いなのに、実際に言われると嬉しくなってしまう。だから自分の境遇を過剰に盛って話してしまうし、嘘がバレそうな時は適当な嘘をついてしまう。

嫌いな言葉でも、それを私に言ってくれる人はもう彼女しか居なかった。

なんて難儀な性格だろう。なんて醜い人間だろう。

やはり波にさらわれてしまえばいいのだ。


私には仲良くしている友達が3人いて、3人ともこの10月に私の元から去った。

3人とも同じ理由、私という人間に耐えられない。との事だ。

彼女たちは何ら間違っていない。
私も、私みたいな人間とは仲良くしようとは思わない。
むしろ最後までそばにいた彼女たちは底抜けに優しいのだろうとさえ思う。

けど、どうすれば自分が変わるのか分からない。
それにこんな自分でも私が愛さなくては誰も愛してくれないのだ。だから無理にでも自己肯定して、結果として周りの人は消えていってしまう。



波が運んだ小石が、コツンとむき出しの私の親指に当たる。

満潮が近い。

今日はこの辺で帰ろうと思った矢先。
遠くの岩場から人影が近づくのがわかった。

もう辺りは暗く、顔がよく見えない。

ただ少しずつこちらに寄ってくる影は、1本の線の上を歩くような、洗練された歩き方をしていた。

思わずその様に見とれていると、その影は私の前で止まった。

それがタケナカヨウコであることは少し前から気づいていた。
彼女は飛び抜けて背が高いのだ。
あの背の高さでうちの制服を着ているとなれば彼女しかいない。

けれどもなんでこんな所にいるのだろうか。

タケナカヨウコは私を含めたあたりの岩場をぐるりと見渡し、やはりもう一度私の顔を見やった。

「こんなところで何してるの?」

それはこちらのセリフだ。
けれども私にそんなことを言い返す勇気などない。

「なんとなく、ここにいただけ。もう帰る。」

なんと無愛想な返事だろうと自分でも思わず笑みが漏れる。

岩場に放り投げたカバンを手に取り、その場を去ろうとすると彼女は私の背に声をかけた。、

「足、切れてるよ。」

彼女の視線の先には、私の右足があった。確かにつま先が切れて流血している。
気づいてなかった。多分岩で切ったのだろう。

「ありがとう、家に帰ってから処置する。」

兎にも角にも私はここから早く離れたかった。
自分だけの居場所が他人に汚されている、とまで感じ始めていたのだ。

「私今絆創膏あるから貼ってあげるよ、それにあなたハマサキユウさんでしょ?同じクラスじゃない。」

そういうと彼女は、自分のカバンから絆創膏の箱を取り出した。

目の前に丁寧に配膳された好意を突っ撥ねるほどの強い意志は私には無い。

大人しく彼女の言う通りにしようと思い、私はそのまま岩場に座った。

「・・・」

しばらく沈黙が続いたままの空間はどうにも居心地が悪かった。

「いつもここに来るの?」

口火を切ったのは彼女だった。

なんてことは無い当たり障りのない質問なのに、私は急な発声に対してびくりとしてしまった。

彼女はこちらを見ずに、私の足に処置をしながら声だけを投げかけたのだ。

「そうだね、暇な時はここで海眺めてる。」

「楽しいの?」

「存外ね」

ふと、"存外"というあまり一般的でない言葉を使ったことへの後悔が出てきた。
なんだか珍しい言葉を使って調子に乗ってるように思われてそうだなと、いつも人と会話する時に湧き出てくるような気味の悪い反省だ。

「そうなんだ。私も海眺めるの好きだよ。東京にいた頃も稀に海に行っていた。」

私は彼女の返答の中身よりも、"稀に"と使ってきたことへの安心感に気が行ってしまった。

先程の言葉遣いは気に病む必要は無いのかもなと少し思った。

「東京のどの辺に住んでたの?別に詳しい訳では無いんだけど。」

「割と海沿い。でも別に高級住宅地とかでもなくて、普通に下町みたいなとこだったよ。」

「そうなんだ。」

会話はここで終わってしまった。
相も変わらず初対面の人間との会話が下手だなあと自嘲気味に思う。

私は内弁慶が過ぎる節があって、あまり親しくない人間と意欲的に会話するのが苦手なのだ。
だから数少ない親しい人間とのみ関わり続けることが多い。

最も今となってはその親しい人間とやらも私の元から去ってしまったのだが。

「あなたは、ハマサキユウさん、だよね?」

「うん」

「あんまり話したことないんだけど、前から話してみたいと思ってたんだ。」

急な告白に戸惑ってしまう。この手の文句には作為を感じずにはいられないのだ。

「え、なんで?」

「いつも教室で一人でいるけど、孤高な感じがして何考えてるか分からないから、聞いてみたかった。それだけだよ。」

自分が他人からそう見えてることに恥ずかしさを覚える。

「私そう見えてるんだ、でも何も考えないよ。本当に、ただ今日も雲綺麗だなあとか、小学校の時好きだった国語の教科書の一説を思い出したりとか。どうでもいいこと気にして1日終わっちゃうことがほとんど。」

私の言葉に彼女は急に目を輝かせた。
暗闇で相手の顔なんてよく見えないはずなのに、私には彼女が少し喜んでいる様が感じ取れたのだ。

「それ、すごく素敵。私もそういう風にどうでもいいことを考えて、世界に丁寧でありたい。すれ違った人の笑顔で幸福を感じたいし、いつもより澄んだ空を見て今日は調子がいいなとか感じたい。急に興奮して意味不明だと思うけど、ハマサキさんのその感覚凄い好き。」

既に足の処置などは終わっていた。
けれども私は彼女と同じ概念を共有出来たことに確かな喜びを感じていた。

今までこんなこと誰かと分かち合えなかった。

初めて、それも背が高くて整った顔立ちをしていて、何もかもが魅力的な人と同じように世界を感じられていたなんて。

どうにも私は嬉しくなってさらに語り出してしまった。

「雨が弱まり始めると傘をしないで歩いて自然のシャワーを感じたくなったりする。逆に馬鹿みたいに快晴の日は家から1歩も出ずに雲が流れるのを眺めていたい。冬の海の何か激情を訴えるような荒れ具合も眺めていて気が落ち着くし、眠たくなるような現代文の授業で先生がふと見せる寂しそうな目が好き。」


一息に喋ってから私は喋りすぎた、後悔した。

こんなこと聞かされても困るだけだろう。

でも彼女は気づけばやはり笑っていた。

「そっか、じゃあ今度一緒に冬の海を見に行こう。」

弾けるような笑顔は、藍色の世界には不思議なほど合わなくて、言葉にならないほど美しかった。

私は、きっとどうしようもなくこの人のことを好きになってしまう予感がした。





その日はそのまま家に帰った。

既に時刻は九時を回っていた。

私の家には祖母が住んでいる。
この時間になると寝ていることもあるが、今日は起きているようだ。
窓から覗くと台所の灯りが見える。

「ただいま」

「おかえり」

特に会話することもあまりない。

別に嫌いという訳では無い。
これでも今まで育てて貰ったわけだし、かなりわがままを聞いて貰った。

でも少し祖母は私に一線を引いているようなのだ。
それが少し苦手だった。


私には両親が居ない。

父親は名前すら知らない。
ある時実家を飛び出た母親が私を妊娠した状態で家に戻ってきたのだ。

母親は父親の名前も告げずに私が幼い頃に事故で死んでしまった。

結果として祖母の元には知らない男の血が入った子供が残されたわけだ。
ともすれば祖母が私に対してどう対応したらいいか分からないのは納得が行く。

けれどもそれはこの歳になってからわかるものであって、幼い頃の私にとっては両親がいない上にどこかよそよそしい祖母のみが家族というのはとても辛かった。

 だから私はこんな自分勝手な子供になってしまったのだろう。
もちろん祖母や環境のせいと言い張るつもりはないが、完全に自責できるほど大人でもない。

まだ高校生なのだ。
何かのせいにして楽になることくらい、今のうちなら許されるだろう。


食卓にはちょうど私が帰る時間を見計らい、調理された夕食が並んでいた。

私はいつも学校が終わったのち、しばらく辺りをぶらぶらしてから帰宅する。

そのせいでだいたい九時くらいに家につくのだが、もう祖母はそんなことわかりきっているので夕食をその時間に用意するのだ。

私が遅くに帰宅する事に関して、祖母は何も言わない。

もちろん叱られたいとは思わないが、祖母からどこか引いた距離感を感じるのはその点もある。


なんてことを思いながら私は食卓につく。

今日は生姜焼きだった。

メインを中心に、かぼちゃを煮たものやきんぴら、卵焼きなど小鉢に鮮やかに食事が盛られている。

いつも見事なものだと思う。
祖母が作る料理はとても美味いのだ。

間違いなどないくらいに。

私がしっかりと家に帰り続けているのはそのこともあると思う。

「もうすぐお米炊けるから、お腹空いてたら先食べててもいいよ。」

「わかった。いただきます。」

台所から飛んでくる祖母の声を聞き終わる前に私は箸を手にとった。

確かな味わいが口の中に広がるのを感じながら私は今日の出来事を思い返していた。

家についても手に取れるように多幸感があった。

誰かと感覚を共有できた。誰とも共有できないようなものを。

それを受け入れた上で、私とこれからも付き合いを重ねてくれると言ってくれたのだ。

勝手に感じていた孤独感なんてもう忘れしまったかのように、彼女との会話を何度も反芻していた。

改めて思い返しても私が彼女に放った言葉はひどいものだ。ぶっきらぼうだったり陶酔気味だったり、コミュニケーション能力の低さをひしひしと感じる。

けれども彼女は受け入れてくれた。

その事実だけで、もう他のことはどうでもよくなってしまう。

祖母がよそってくれたご飯を最後の一粒まで丁寧に食べ終わったあと、私は会話もせずに自分の部屋へと向かった。

潮風で髪がベタついているのはわかっていたけれど、このまま眠ってしまいたい気分だった。髪を微かに撫でていると、なんの気もなしに閉じた瞼はもう開かなかった。






その日は久しぶりに母の夢を見た。
母と砂浜で遊ぶ夢だ。

珍しく空は晴れていて、太陽が麦わら帽子越しに私の目を刺してくる。

母は私を遠くから見守りながら、笑っているように見えた。

私は波打ち際で逃げるように引いていく波を追いかけていた。

昔はよくこの夢を見ていたことを思い出したと同時に、これは夢だと気づく。

夢ならばと母をよく見ようとすると、急に周囲が暗くなった。


気づけば電球が垂れる見慣れた天井が視界に広がっていた。

私は瞼を擦りながら昨夜は風呂に入っていないことを思い出し、憂鬱になりながらも布団からモゾモゾと抜け出た。

今日がまた始まるのだ。





覆い被さるような青黒い天気とは裏腹に、グラウンドでは青い声が響く。

気づけば既に放課後で、私は自分の席でぼんやりと雲を眺めていた。

曇りの日でも雲は動くのだ。
コーヒーに混ぜたミルクのように脈動している雲の様は、暇を潰すには十分すぎる光景だと思う。

教室には誰もいない。

今日もまた海に行けば会えるかなと思い、腰を上げると教室の戸を開ける音が聞こえた。

「ハマサキさん」

声が聞こえる前から薄々誰かわかっていたような気がする。

振り返ると、日常の風景のようにタケナカヨウコがこちらを見つめていた。

本当に何もかもが百点満点な姿をしているなと他人事のように思う。
もちろん他人事なのだけれど。

「こんな時間まで残ってたんだ。」

「少し先生に頼まれ事してたから。教室にハマサキさんが残っているのを見て、まだいるかなって思って。」

こんなことでも嬉しくなってしまう。
まだ私の事を気にかけて観察している人がいるのかと、本当に嬉しくなってしまう。

私はわずかに上がった口角を悟られないようにカバンを持って彼女に近づいた。

「海行く?」

「最初からそのつもり」

彼女との会話はどこか不完全で、私はなんて完璧なんだと本当に嬉しくなってしまう。

私たちは笑いながら教室を後にした。






タケナカヨウコとの海観察は週に2.3回行われた。

こんな風に教室にいる私に彼女が声をかけて2人で海まで向かうこともあれば、何となくあの砂浜に行った私と彼女が偶然現地で遭遇して一緒になることもあった。

砂浜に着いても特別なにかするわけではなく、ただただ寄せる波と引く波の回数を脳の端で数えながら取り留めもない会話をするのだ。

彼女との会話はどれも刺激的で素朴なものだった。

昨日知った美味しいパン屋の話、街中で出会った子供との無意味な会話、理由もなく好きな色の話。

こんなくだらない会話がたまらなく気に入ってしまうのだ。


~~


祖母は、母に関して何も語らない。

私の祖父がどこにいるか聞いても答えはいつもない。

私が思うにきっと母の妊娠が理由で祖母と祖父とは疎遠になってしまったのだろう。

だからこそ祖母は私との距離を図りかねているのだ。

なんと窮屈な。

結局のところ他人との正しい距離のとり方と詰め方も知らない愚かな人間が1人生まれただけだというのに。


私の帰り方に少し変化が出てきたことに祖母は気づいていた。

いつものように不機嫌ではなく、どこか浮かれて帰ってくるのだ。それも前のように決まった時間ではなく日によって時間がマチマチで。

ともすれば祖母がわたしの変化に気付くのも時間の問題だったのだろう。


ある時祖母に訊かれた。

「あんた彼氏でもできたんか?」

保護者と娘の会話としては特別不思議なものでは無いのに私はどうにも祖母の質問に不快感を覚えてしまった。

「今まで私の事興味なかったような素振りをしてたのに急に何?」

「何をカリカリしとんね、別にそんな気がしたから聞いてみただけよ。そんな隠したいんか?」

私はさらに逆鱗を撫でられたような嫌悪感を抱いた。

「ほっといてよ、どうせお母さんの時のことと重ねてるだけだろうけど。また間違えるよ。」

言った後に後悔した。

祖母の顔を見ると、感情の臨界点を迎えているように見えた。

ああ、やってしまったな。怒られるかな、と思っていたが、祖母は必死に何かをせきとめたような表情してそのまま部屋を去ってしまった。

1人には少し広い居間に残された私はどう感情を落ち着ければ良いか分からなくなってしまった。

どうにもならなくなって、私は家を飛び出した。

あの海岸に彼女はいるだろうか。
私が真に誰かを求めている時に、彼女は運命的な表情をしてそこに立っているだろうか。

願うように足を早め、祈るように空を見て、私は海岸に急いだ。


彼女はやはりあの海岸にいた。

わかっていたような気もするのに、奇跡が降り注いだかのような神聖な気持ちが湧き上がってきた。


息を切らして砂浜に降りた私に彼女は待っていたと言わんばかりの笑顔を見せてくれた。

「そんな急いじゃってどうしたの?まさか来るとは思わなかった。」

当たり前だ、もう日付が変わるような時間なのだ。

でも彼女は、いつもと変わらない姿でいるのだ。

私はそれがたまらなく嬉しかった。

「私のくだらない話聞いてくれる?」

「いいよ。」

「私、祖母と暮らしてるんだけど、どうにも上手く接することがお互いにできていないの。祖母は祖母で丁寧に接しているつもりなんだろうけどどうにも壁を感じるし、私は私で少しわがままが強い。ついさっき、わたしが祖母を傷つけてしまったの。でもそうなったきっかけは祖母で、でも祖母にも私にそういう態度を取らせる原因があって、お互いにもうどうにもならないところに原因があるから一概に誰かが悪いとか言えない状況で、でも今祖母を傷つけたのは私だから私が悪いとは思うんだけどそれで祖母は叱ることもせずに去っちゃって。もうどうすればいいか分からない。私はこれからどうすればいいのか分からない。」

感情が溢れ出るように湧き上がり、取りこぼさないように必死に言葉を紡ぐけれど全てを拾い切ることは出来ず、結局支離滅裂な言葉の波が生まれてしまった。

それでも彼女は、私の話を瞬きもせずに聞いていた。天使のごとき立ち姿で。

もう意味は伝わらなくても良い気がするのだ。
ただ私の話を聞いてくれるのなら。

彼女は、少し間を置いて口を開いた。

「あなたが悪くてもあなたのおばあさんが悪くてもそれはさしたる問題じゃないと思う。ただ、お互いの関係性の波が今は良くないだけ。今すべきなのはどうその不調と向き合うか、ということな気がする。」

彼女の言葉は、間違いなく私のものでは無いのになんの引っかかりもなく、すっと身体の中に溶け込んでいった。

「そうだね。不調という捉え方は正しいかも。でもどう向き合えばいいかは分からない。そういうの苦手なんだよね。」

私の返答に少し困ったような表情をした彼女だったがこちらを見てニコリと笑うと岩場を歩き始めた。


「三歩数えて、二歩足踏み、残りの一歩は海の向こうへ。これを棒読みでいいから心の中で反復すると少し心が落ち着くんだよね。」


三歩数えて、二歩足踏み、残りの一歩は海の向こうへ


情景を少し想像しながら音を体に取り込むように私は声に出した。

違和感なく耳に馴染む。

「いい唄だね。気に入ったかも。」

「でしょ?どんなに戸惑ってても結局海の向こうへみんな行くんだから歩くのも、足踏みも好きにすればいいと思うよ。」


そう言うと彼女はローファーと靴下を脱ぎ捨てて海へと足を踏み入れた。

少し穏やかになった波を月明かりが照らしてる。

彼女の嫋やかな足は白く光って、私は眩しくてちゃんと見ることも出来なかった。

けれど海と戯れる彼女を見ると、少し不安な気持ちになる。


いつか彼女も海の向こうへ行ってしまうのだろうか。

その時私は何を思うのだろうかと。

~~

祖母との小さな冷戦は続いていた。

あからさまに前よりぶっきらぼうになっている祖母は、久方ぶりに家で古いタバコを吸い始めていた。

私は母が亡くなった後に祖母がタバコをよく吸っていたことを思い出した。

元々愛煙家だったのだが、母を妊娠した際に断っており、かつてのヘビースモーカーの面影は全くない。

けれど母が亡くなった時は耐えきれずに吸っていたことを覚えている。

私が小学校に入る頃にはやめていたが、私にとってはあの頃の祖母の姿は印象的だった。

あの頃と同じように見たことの無い赤いデザインのタバコにマッチで火をつけて吸っていた。

むせそうになる体を押さえつけるように息を吐く祖母の姿は、煙の奥にあるのにとても鮮やかに見えた。



その話をタケナカヨウコにすると、彼女は今ここで吸ってみるかとその場で私にタバコを見せてきた。

私は彼女がそれを持っていることに驚きを隠せなかった。

学校では非の打ち所のない優等生であって、間違っても未成年喫煙なんてする人間ではないのだ。

そんな彼女がタバコを持ち歩いているなんて、想像だにしなかった。

私の驚きに対して彼女は気にもしない素振りだったので、私は湧き上がる言葉を抑えた。

ここで通り一辺倒な文句を並べたところでこんな態度の彼女の前では意味が無いし、私と彼女の関係性を鑑みて、信頼の上でタバコを見せてくれたのかもしれないのだ。
であればここは受け入れてしかるべきなのではないかと思ったのだ。

私は彼女からタバコを受け取った。

見るからに無害そうなパッケージに発がん性物質が詰まっていると思うと意図せず笑みがこぼれる。

1本抜き出し100円ライターを擦るが、海沿いのためどうにも風が強くて火がつかない。

見かねた彼女は、私からライターを取ると、私の目の前で事も無げに火を着けて見せた。

いつもよりも僅かに近づいた距離で、私は彼女の顔を丁寧に見る機会が与えられたな、と火をつける一連の表情を眺めていた。

現世のものを何も映さないかのような深遠な瞳は、鹿や牛の瞳を連想させた。


彼女が火のついたタバコを私に手渡してきた。

潮風の香りをかみ締めながら、私は大きく息を吸った。

噎せながら私は初めての喫煙経験を終えた。

「どう?美味しい?」

興味ありげにタケナカヨウコはこちらを覗き込んできた。

ここでまずいだの煙いだの当たり前の答えを返すのは癪だなと感じた私は、微かに鼻に残る匂いを思った。

「なんだか花火みたいな味がする。」

それを聞いた彼女は少し黙ったあと大笑いをした。

「タバコをつつむ紙が燃えて、その匂いが花火と錯覚させてるんだと思うよ。面白い感想だね。」

彼女は残りを吸ってあげようかと私の前に手を出したが、謎の意地が芽生えてきて残りも私が全部吸おうと決意した。

何度も噎せつつ、けむりを体に取り込みながら何とか1本を吸い終えた。

すこし、彼女への理解が一段深くなった気がした。

「いつから吸ってるの?」

「東京にいた頃から、普通に良くないよね。」

どこか自嘲気味の彼女の顔を見ていると、なんて線が細くて美しい睫毛をしているのだろうと目が吸い付いてしまう。

「別に軽蔑とかはないよ、でも特別必要がなければ吸わないものかなあと思ってて。」

「東京にいた頃の彼氏が吸ってたの。そのせいでね。」

彼氏という言葉を把握するのに少し時間がかかった。

いなかったと言われる方が驚きだが、改めて口に出されてしまうとどうにも脳の処理がワンステップかかってしまう。

「どんな人だったの?」

「もう覚えてないよ、覚えてる必要も無いし。その時の習慣が今も残っててたまに吸いたくなるの。家だと赤ちゃんがいて吸えないしね。」

「赤ちゃん?兄弟?」

「私、実は子供いるんだよね。流石に家じゃ吸えないでしょ。」



私は彼女と完全に理解し合えているなんて思い上がっていたけれどそんなことは無いのだと言われているような気がした。

勝手に理解した気になって勝手に傷付いている。
こんな経験、過去に何度もあったなとアルバムをめくるように思い出す自分が愚かしくて嫌になる。なぜ学ばないのだろうか。

「なるほど。確かに吸えないね。」

情けなくも動揺してしまった私は必死にそれを隠そうと愚にもつかない返事をして、また自分のことを嫌いになる。

「うん。」

何か言いたげだった彼女はその言葉を飲み込んだように相槌を吐き出す。

相手が、私との距離を測りかねているようなこのやり取りにも私は覚えがあった。

また少し自分と彼女のことが嫌いになりそうだ。

「そろそろおばあちゃんがご飯作り始める頃だから私帰るね。」

そう言って私は足早に砂浜から去っていった。

私は気まずさから彼女への初めて嘘をついた。

本当に情けなくて愚かしくて醜い人間であると何度も自分の腕を抓って歩みを早めた。

いつもよりも3倍ほど早く家に着いた。

最悪の日というのがあれば今日のことかもしれない。






タケナカヨウコは少し私と距離を置いていた。

それは彼女が転校してきてから2ヶ月弱。11月に入り、二学期も終わりを迎えようとしていた。

彼女は学校には来ているものの、かつてのような愛想の良さを無差別に振りまくようなことはなくなり、学校でできた少数の友人と親しくしていた。

もちろんその少数の友人と言うのに私は入っておらず、遠巻きにその様子を眺めながら一日が早く終わるように祈っている日々を繰り返していた。

彼女は海に来なくなったのだ。

私のぎこちない反応に対してやはりショックを受けてしまったのだろうか。

けれども私にはそこから関係性を修復する手段など持ち合わせていない。

彼女の存在を忘れないように、思い出の1番深いところで蓋をして眠りにつくのみだ。

今日も良い夢が見れますようにと。


~~


母の顔は覚えていない。

祖母は写真を撮る人ではなかったので、母の写真などどこにもないのだ。

だから私は記憶に残る輪郭でしか母のことを認識できない。

ただ、祖母が言うには自分とは似つかないほどの美人であったらしい。


そのせいか、今日見た夢はどうにも、母に対する勝手な願望が作り出したものである気がするのだ。
見えない部分を、私の潜在的な欲求が補ったような内容だった。


私と母は、家の前の路地に並んで座っているのだ。

母の顔はやはり見えない、けれど私は母のことがたまらなく好きで、その日起こった出来事を興奮しながら話している。

母はそれを聴き、適度に相槌を打ちながら幸せそうに聞いている。

よく見ると私は子供ではなかった。
今の私と変わらない背格好で、その時点で夢だと気づいた。

こんなことはありえないのだと、脳が理解した瞬間に、またカビ臭い私の寝室に連れ戻された。


こんなことは今週に入って3度目だった。

同じような夢をもう何度も見ている。

耐え難い苦痛だ。


私は知らないことが怖い。
知ることができないことが目の前に立ち現れることがこれ以上なく恐ろしいのだ。

わからないのは酷く恐ろしいことだから、私はできうる限り全てを知っておきたいのだ。
さもなければ世界というものが、どんな形をしてるのか知らないで生きていかなくてはならないのだ。そんなことに耐えられる人間がいるのだろうか。

私はついに祖母に問いを投げることを決めた。

もう冷戦など知ったことか、今更この質問をしたことで関係性が崩壊するなんてことはないだろう。

祖母も十数年間この質問をされる覚悟をしてきているはずだ。


家に帰ると、祖母は縁側でタバコを吸っていた。
冷える時期だからか厚手の紫のカーディガンを羽織っている。
私が幼い頃から使用しているものですっかり見慣れている。
私が脳内で祖母を想像したときにいつも着ているものだ。

祖母は帰宅した私に一瞥をくれると、また庭に向き直った。

その背中をめがけて質問を投げる。


「お母さんについて教えてよ。なんでもいいから。」

言ってしまえばあっけないものだ。

この数年なんどもこの質問を構えては、収めていたというのに。

祖母は私の言葉を聞くと、こちらに向き直って大きく煙を吐いた。



「あんたのお母さんね・・・」

祖母の言葉はいつもと変わらず、遠くに投げかけるようなものだった。

「いつも周りの目を惹く子だったよ。整った顔で人に寄り添う優しい子だった。私の子とは思えないほど。だから育てるのには苦労した。こんな田舎で、歪んだ人間に囲まれるのは忍びない、いつか素晴らしい人生が送れる場所に行って欲しいとずっと思っていた。だから、あの子が中学生の時に、東京の高校に行くって言い始めて嬉しかったんだよ。自分で行きたい学校を選んで、私たちに相談してきた。おじいちゃんは反対してたけど、私が無理を言って行かせてやったんだ。だからおじいちゃんは今でも私恨んでいるけど、でも間違ったことをしたとは思ってないよ。あの子は一人で東京で暮らしたいって言ってでてったんだ。立派なもんだ。でも一年で帰ってきた。何処の馬の骨とも知れん男の子を身籠って。もう堕ろせるかどうか判断できる時期じゃなかった。あの時のおじいちゃんの怒りようはすごかったよ。本当に人間はあそこまで怒りを発露できるのかと思うくらいの剣幕だった。そのまま私とおじいちゃんは別居したんだ。」


ここまでの話はどことなく私が感じとっていたものに近かった。

知らない詳細や祖母の感情などはもちろんあるが、それ以上に祖母がこの話を私に丁寧に話してくれているという事実が大きく心を動揺させた。

私の知らない遠い影の中で生きる母と祖母の話は、けれどもやはり自分の肉親の話だと思わせるのには不十分な気がした。
目の前にいる祖母の姿の方が、母の話よりも印象に残ってしまうのだ。

そんなことを考えながらその日は眠りについた。


私という人間はやはり単純なようで、その日も母の夢を見た。

真白なワンピースと、大きな麦わら帽子。

波打ち際でこちらを微かにみやり、私に手を伸ばす。

顔をよく見ようとすると、カビ臭い畳の匂いが鼻をついて、目が醒める。


夢というは暗示的に見せかけて明示的だ。

なにせ自らの認識のうちでしか、人は夢を見れないのだからどうあがいても明示的だ。

この夢にもきっと何か浅い意味があるのだろう。

朝のわずかな思考のうちに、私は今日の自身の体調が最悪の状態であることに気づいた。

全身が軋むように痛い。骨や筋肉の痛みというより、内臓の痛みだ。

たまにこういう日がある。体調の外れ値を引く日。今日はまさしくそれだった。
こういう日は何をしても本当に上手くいかないのだ。
体調に引っ張られて全てがめちゃくちゃになる。


今日1日のことを思い、私は起きてから1分と経たないうちに今日の終わりを願い始めた。







天気は曇り、おそらくこの気候も私の体を破壊している要因の一つであろうと思う。

重くなった頭で思考を巡らせているうちに、むしろ私は勇気が湧いてきた。

何をやっても悪い方向に行く日なら何をやっても怖くない気がしてきたのだ。

であれば、今日タケナカヨウコに話しかけよう。失敗するだろうがそれが最初からわかっていれば何も怖くない。



教室での彼女は、西洋の城の尖塔のように目を引きつける。

周りよりも背が高いからというのはあるが、ぴしりと伸びた背筋と白い肌、他とは少し離れた空気感を纏っているからだと個人的に思っている。

彼女がそこにいるだけで寄ってくる有象無象の友人達も城の装飾のように映えて見えるのだ。

あの集団に向かって話しかける勇気など普段ならないのだが、今日の私は最悪に満ち溢れている。

構うものかと、機を見計らって席を立った。

彼女は私に気づくと、一瞬目を伏せた。

「あの、タケナカさん。話したいことがあるんだけど。」

いつもならば会話することの無いような人達が、一斉に私の方を見る。

体調も相まって嫌な汗が全身から吹き出してきた。

タケナカヨウコの取り巻きたちは、私の行動に驚きを隠せていなかったが、しばらく経って状況を理解すると今度は彼女の方に視線を向けた。

タケナカヨウコは伏せた目をしばらくしてからゆっくりと上げた。

「いいよ」

それだけ言うと、彼女は私の手を取って教室から連れ出した。
ちょうど四限の予鈴が鳴り始めた時だった。





私たちの高校は海からそう離れておらず、屋上に出ればもう潮風が香ってくる。

錆びついた屋上の南京錠は少しいじれば壊さずに開けることができるのは生徒の間では常識となっている。


私の数歩先を自信なさげに歩く彼女も、やはりそのことを知っているようで、難なく屋上への鍵を開けた。

冬が少し近づいた11月で、屋上の空気は大きく澄んでいた。

彼女はひどく動揺しているようで、私はその様に少し満足してしまった。
私の行動の一つで彼女に影響を与えられているのだという事実にどこか喜んでいるのだ。

少なくとも最初の一手目は最悪の方向に向かなかったことに私は安堵している。

「話って何?」

彼女は申し訳なさそうに口火を切った。

「私は、心の中でどこかあなたを理想化してしまったのだと思う。私はいつも見えてる部分で人のことを判断してしまうから、見えない部分は自分にとって都合のいいように解釈してしまう悪癖があるのだけれど、同じことをきっとあなたにもやってしまった。だから、私はあなたがタバコをさも当然のように吸って、それでしかも子供がいるってことに驚きを覚えてしまったのだと思う。自分が見えてる範囲がその人の全てじゃないし、それで勝手に幻滅したりするのは本当に自分勝手だなと。このことで疎遠になってしまったり、もう話せなくなってしまったら嫌だから、そのことを話したかった。」

堰を切ったよう、という表現が正しく的確に当てはまるように、言葉が溢れてきた。

一連の、早口で相手の目を見つめることすら出来ないような私の気味の悪い語りを彼女は真摯な目で見つめていた。

「そうなんだね。」

それ以外の返答など無理だろうと、どこか納得してしまう。

こんな自己発露を急に聞かされても困惑させるのみだ。

「正直私も驚いているんだよね。こういうことはたまにあって、仲良く出来たかなと思った友達ができても気づけば距離を置かれてたみたいなこと。そういう時でも私は自分を変えるとか相手に合わせるということが苦手だし、相手が嫌がっているのに無理にこちらが距離を詰めるのも嫌がられるかなと思っていつも諦めてたんだけど。だからハマサキさんがこういう風に伝えてくれたのはすごく嬉しい。こんなことしてくれた人は初めてだと思う。冷静に考えたら、子持ちで喫煙者の女子高生ってやばいよね。それで距離取る方が普通なんだけど、私は簡単に人のこと好きになっちゃうから、その人に自分の全てを知って欲しいと思う。それでいつも必要のないこともうっかり口走っちゃうんだよね。だから、ありがとう。」


私はゆっくりと顔を上げ彼女を見やる。
彼女は笑っていたし泣いていた。

私は静かにタケナカヨウコの手をとってそのまま抱きしめた。

少しして彼女も腕を回して、強く抱き返してくれた。

今日は最悪な日ではないのかもしれない。






私たちは二人で手を繋いで教室に戻った。

授業の最中で先生が私たちに説教を始める気配がした。

彼女も感じ取ったようで、私達は顔を見合わせると一気に走り出した。

一歩目も二歩目も遠く、リノリウムの床を鳴らした。

今日はこのまま海に行こう。

ようやく何かから解放された気がした。
世界は少し、まぶしく見える。






私とタケナカヨウコの間で交わされる会話というのは偏執的で不明瞭な人間の話だ、

今日は、人間の定義についての話をした。

「例えば、目も見えず耳も聞こえず、匂いもかけず味もなく何も感じられない、五感の奪われた人間がいたとして、それは人間と言えると思う?」

「五感があるから人間というわけではないけれど、その状態だと意識しかないし、意思の疎通は出来ないね。」

「でも意思の疎通ができないからといって人間かどうかというと微妙だよね。そもそもの人間の定義が社会的かどうか、他者との関わりの中で規定されているという考えかどうかが問題だと思う。」

「それで一つ思い出したんだけど、ある映画を見たときに、恋人の無惨な死体を前にした時に嘔吐する描写があったんだよね。無惨な死体になった時点で恋人としての意味が剥がされて物体としての不快感の情報が先行して愛にまさっているのかな。その人にとって肉片になった時点で人間じゃなくなるから不快感がまさっているのかな。」

「でも多分肉片になっても愛することができる人はいるよね。おぞましい肉片を人間として認識するかどうかでその人の人間への理解の質がわかって面白いね。」


いつもこんなような話をしていると気づけば夜になってしまう。冬の底はもう喉元まで迫っていて、日が落ちる速度はみるみる加速して行く。


「毎日こんな時間まで出歩いてていいの?親とか心配されない。」

少し気になって、私は彼女に聞いてみた。

「あんまり心配されないよ。というか親とは一緒に暮らしてないから。」

「そうなんだ。これって聞いてもいい感じの話?」

この手の家庭事情は相手にとって複雑な問題で、簡単に他者が立ち入っていいような話題ではないと勝手に思っている。
私自身の経験からその類の質問にある種の警戒心があるから、少し敏感になってしまうのだ。

「別に私は気にしないよ、むしろ結構人に気を使わせちゃう話題なんだけどそっちが大丈夫?」

「あなたが話してくれるなら大丈夫、私自身が聞きだしてあなたを傷つけな自信がないし。好きに話してほしい。」

「そうだね、私東京にいた頃に妊娠しちゃって。それで両親がおかんむりで、母親も父親も私を置いてどっかいっちゃったんだよね。」

どこか聞いたことある話だ。
というか、かなり私の母親の話に近い。

「その話さ、私の母親も似たような感じなんだよね、びっくりするかもだけど。それで生まれたのが私なんだよね。もう死んじゃったけど。」

急な告白に向こうも戸惑っているようだ。

「そう、なんだ。お互い大変な人生だね。じゃあお父さんもいないってこと?」

「そうだね、でもお婆ちゃんに育ててもらってるからあんまり寂しさとかはないよ。生まれた時からそうだし。」

私はどこかぶっきらぼうな言い方になってしまう。普段であれば自分の家族の話となるとどこか過剰に盛って話してしまうのであるが、どうにも相手にも簡単に人には言えない境遇があると物怖じしてしまう。

「そっか。・・・私もね人に言われてるほど不幸だとは思ってないんだよね。なんか人生ってこういうものだと思ってるし、私の選択の結果だから特別不快感もない。でも人を同情的にさせちゃうからいつも不幸なふりをしてたんだけど、ハマサキさんも似たような境遇だと思うと気にしなくていいから嬉しい。」

やはり彼女はどうしようもなく輝いている。そう感じさせる。






彼女の存在に私はどれほど救われているのだろうか。

私のような中途半端な達観と自己憐憫しか持ち合わせていない人間をここまで丁寧に扱ってくれる人がいただろうか。

しかし、というかやはり、私が期待しているもの、私が愛しているものというのは須らく打ち砕かれてしまうのだ。





その日、私は気分が良かった。

理由は特に覚えていないが、彼女が教えてくれた唄を何とは無しに家で口ずさむほどにはいい気分だった。

三歩数えて、二歩足踏み、残りの一歩は海の向こうへ、

それを聞いた祖母が、かつてないほど目を見開いてこちらを見ていた。

「どうかしたの?」

「その唄どこで聞いたの?」

「友達が教えてくれた。」

「そう。」

私の返答を聞くと、祖母は興味なさそうに会話を打ち切った。

一体どんな意図だったのだろうか。

思考を巡らせているうちに、私は一つの結論に至った。

それは一度思いつくと、もう頭から離れることのない、一つの呪いのようなものだった。





クラスの誰もタケナカヨウコについて詳しく知らない。
彼女はあまり自己開示をするようなタイプではないのだ。

加えて、彼女はどこか抜けている節がある。単純に生きている時代が違うような、根本的な価値観のズレがある。
最初は皆それが東京という自分たちからかけ離れた文化圏の影響だと思っていたが、だとしても説明しきれない部分があるのだ。

何より決定的だったのが、これは今まで気づきもしなかった私が悪いのだが、私の祖父の名字はタケナカ、そして私の母の名前はヨウコなのだ。




なぜ今まで気にもしなかったのだろう。
名前がどこか聞き馴染みがあったこと、その容姿が少し夢に出てくる母親に似ていること。

冷静に考えればわかるものだ。

それを成立させている事象さえ目をつぶれば。

一体どういう原理で高校生時代の母親と私は同じ高校に通っているのだろうか。

何か超自然的な力が働いているのだろうか、だとしてもそれで齟齬が起こらないのが気がかりだ。

彼女の認識と私たちの認識にズレがあるのだろうか。

少なく見積もっても、母にとっての高校生時代と私たちにとっての高校生時代は20年近い開きがある。

同じ世界を共有しているとしたら気づきそうなものだが。

もしかすると母はもう気づいているのだろうか、自分だけ異物となってしまったことを。

いずれにしろ、これからどう彼女に接していいかわからなくなってしまった。

なにせ、今これからどうなるかわからないが、彼女は近いうちに死んでしまうのだ。タイムパラドックスや何やらSFじみた話はわからないが、きっとそうでなければ今ここにいる私はいなくなってしまう。

そんなことがわかっているのにどう接すればいいのだろう。





もうクリスマスが香る12月。
二学期は終わりを迎え、もう冬休みになっていた。

タケナカヨウコとの距離は精神的にも肉体的にも近くなっていた。

二人だけになれば手を繋ぐし、並んで砂浜にいるときは肩にもたれかかる。

そういう接し方が増えていた。

その日は、彼女は私の膝に頭を預けてきた。

きっと疲れていたのだろう。

もうすぐ夕日が沈む、冬の夕方だった。

光に照らされ、彼女はキラキラとしている。

ゆっくり頬に触れる。

冬の中でも僅かに熱を持った肌は、どうにも寒さを忘れさせる。

髪が潮風に揺れて、微かに顔が隠れる。

なんて、美しいのだろうか。

こんな人間が私の母親で、私と同じ年齢で、私の膝の上で今静かに寝息を立てているのだ。

気が狂ってしまいそうだ。

私はこの人をどうしたいのか。どうすればいいのか。そんなこと分かるはずがないだろう。

ゆっくりと私も目を閉じる。
もうこのまま眠りにつければいいのに。





祖母に聞いてみることにした。

「私のお母さんってどうして死んだの。」

祖母はやはり深いため息をついた後、いつものような敵意とも愛ともつかない表情に戻った。

「それを子供に言うのは酷だと思って言ってなかったんだよ。それなのに聞こうとするの?」

「娘が母親のことを知ろうとするのはそんなに間違ってる?例えどんな死に方であろうと私は傷ついたりしない。もうそんな年齢じゃないから。言って欲しい。」

祖母は諦めたように話し始めた。

「あなたがまだ立てもしない頃にね、海に連れてったのよ。お気に入りの浜があるとか言って。その日は波が高くて、それこそ人一人さらえるくらいの高さがあったの。それでそのままあなたのお母さんは消えてしまった。浜に一人残されたあなたを近くの人が保護してくれた。」

「それって・・・」

「保護されたあなたに手紙がくくりつけてあった。”三歩数えて、二歩足踏み、残りの一歩は海の向こうへ”と書いてあった。自殺したんだと、周りの人に言われたよ。」

言葉も出ない。どんな感情を抱けばいいか自分でもわからなくなる。

「・・・」

「だから言えなかったんだよ。母親は娘の目の前で自殺しましたって何年生きてても傷つけずに言える方法なんてわからないだろう。でもいつかは言わなきゃいけないと思ってた。こんな歳になっても不器用な生き方しかできないおばあちゃんでごめんね。」

祖母はそれだけ言うと立ち去ろうとした。

泣くことも怒ることもあまりない、祖母の後ろ向きな感情の発露を久しぶりに見た気がした。

一つ、確認したいことがあった。

「お母さんが死んだ日って何月何日かわかる?」

「12月21日。今日だよ。」

嫌な予感というものは、おおよそ的中するのだ。
誰も望みはしていないというのに。






海岸までの、細い国道。
舗装されてない歩道は、1キロにも満たないけれど、潰れたローファーで走るにはどうにも難しくて、何度も何度も転びそうになる。

耳に香る、懐かしい潮騒。
鼻をつんざく、磯の香り。
私の少し嫌いな、漁船の声。

あと少しであの浜に着く。

2人だけの秘密の庭。
誰も触れることが出来ない、約束の場所。

ああ、あと少しで届く、あの場所に、あの時間に。

彼女はまた天使のように、あの浜に立っていているだろうか、
いつものように私に笑いかけてくれるだろうか、
私のくだらない話を、遠き日のように相槌を打って、聞いてくれるだろうか、

どうか神様、多くは望みません。
せめて、もう一度、あの浜で彼女に会わせて。
私の人生なんて、もうどうなっても良いから、せめてあと1度あの声を、あの顔を、あの言葉遣いを、私の元に。




昼前の砂浜は珍しく晴れていた。

タケナカヨウコは白いワンピースに大きな麦わら帽子で海を歩いていた。

よく見ると何かを抱えている。

きっと私だ。

直感で理解する。

浜に私を置くと、そのまま立ち去って海へと向かっていく。

私は一気に走り出した。

どうか止まってくれ。

振り返ってこちらを見て。

後一度でいいから、私に笑いかけて。

波の前に立った彼女はそのまま海へと入っていく。
白いワンピースが少しずつ黒く染まる。

このままではダメだと思い、私は声をあげた。

「お母さん!!!」

タケナカヨウコは、私の母はゆっくりとこちらに振り返った。

やはりどうにも輝いて見えて仕方がない。

その笑顔はきっと私に向けられていた。

口元がわずかに動く。
その瞬間波が彼女に覆いかぶさった。

そのまま、私は彼女を見失った。

きっともう出会うこともない彼女を。
最後の言葉を知ることもなく。





浜でぼうと寝ている赤子の私には、確かに手紙がくくりつけてあった。それも二つ。

片方は紙越しにも読める大きさで例の唄が記されていた。

もう一つにはしっかりと文章が記されており、私は読むためにそのまま封を切った。

「この手紙が読まれているということは私はもう皆様の元にはいないでしょう。私という人間はどうしようもなく救えないのです。誰にでも好意を振りまき、誰かを安直に求め、後で強く悔いてしまう。そんな人間に子供が育てられるわけがないのです。実際家に子供がいても世話できず母に預けることとなりました。私のせいで父との別居が始まってしまったことを大変申し訳なく思っています。母は感情をあまり表に出さないタイプでしたが、その在り方に私は何度も救われました。父は厳格でしたがそれも愛故であったと思います。あの素晴らしい二人の親から私のようなロクデナシが生まれたことを深くお詫び申し上ます。きっと人間として生きるのに向いていないのです。だからこうして先立つ不孝をお許しください。東京からここに戻って、閉塞感しかありませんでしたが、得難い友人もできました。彼女は私そのものだと感じさせる瞬間が幾度もあります。世界で初めて同じ観念を共有できる人間と出会えました。もっと早く出会えていればこの町を出ることもなかったかもしれません。しかし巡り合わせが悪かったようです。私が自死を決めてから彼女との仲は深まりました。それからの数週間は今までの人生で得た何者にも変えられない素晴らしいものでした。私の娘にもそのような日々が送れることを、不出来な母親ではありましたが、真に願っています。娘の名前はしばらく決めあぐねていましたが、その友人からとって”優”にします。彼女の持つような優しさに包まれて欲しいという願いです。きっと素敵な子になると信じています。長々と拙い文章を紡いできましたが、愚かな若者の死にざまなど多分に語る必要はないでしょう。どなたか存じませぬが、この子を気にかけて手に取り、手紙を読んでくれてありがとうございます。それでは御機嫌よう。」

この手紙の下には詳細な住所が記されていた。
きっと当時の祖母が住んでいた場所だろう。

私はその部分のみ破って赤子の服に戻し、手紙の本文は自らの手で丁寧に握りしめた。

決して手放すことのないように。

赤子の私をだきかかえ、誰もいない交番の前にそっと置いた。

道中決してその顔を見ないようにしていた。




新学期、学校に行くと誰もタケナカヨウコのことなど覚えていなかった。

綺麗に、何もなかったかのように。

どこか薄気味悪さを感じたが、人間とはこういうものかとどこか納得する。

タケナカヨウコと私との邂逅は、きっと何か偶然の産物なのだ、

長い白昼夢でも見ていたと思えばいい。


私だけが彼女を記憶する。それでいいのだ。

2人で通った秘密の海岸、約束の唄、
微かに残る潮の香り、
それら全てを思い出せるのはもう私だけ。


私の中にある世界の輝きを彼女だけが知っている。

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