感情だけをおいてゆく。

古川ゆう

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1.1感情

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玄関を出て啓太は左腕に巻いている腕時計を確認した。

午後7時32分

「やばっ。」

啓太は急ぎ足でマンション最上階のエレベーターまで向かった。

いつもこの時間は必ずと言っていいほど
人が乗らないのだ。

何故だか未だにわからない。

10部屋ほど部屋数はあるのだが
皆、この時間帯はエレベーターを利用しない。

啓太もこのマンションに去年引っ越してきて最初の内は違和感を感じていた。

「朝仕事の人もいる筈だろうに、この時間にエレベーターを使わないなんてあるのだろうか。」

引っ越した初日に啓太は
同じフロアに住む人全員に手土産を持ち挨拶周りに向かった。

皆、1人暮らしの人ばかりだったが愛想良く
優しそうな印象を啓太は受けた。

啓太も他人にあまり干渉するタイプではない為それ以降はその人達とは話していない。

いつも午後20時頃に仕事から帰って
ようやく同じフロアの人と1人すれ違い会釈するくらいだ。

今朝も啓太はそのエレベーターに乗り込もうとしていた。

下からエレベーターが上がってくるのを待っていた。

「まだかぁ。しっかしいつも遅いよなあ。このエレベーター。」

ぶつぶつ啓太は文句を言っていた。

ピンポーン

「おお、やっと来た。」

「ドアが開きます。」

アナウンスが流れる。

啓太はエレベーターに乗り込んだ。

「ドアが閉まります。」

アナウンスが流れドアが閉まる直前に

「すいません。」

エレベーターのドアの前から聞こえてきたのだ。

啓太は「ん?」と思った。

自分がエレベーターに乗り込みドアが閉まる直前にその声の主はそこに居た。

啓太は焦りを隠せなかったが
急いでドアの開閉ボタンを押したのだ。

ドアがゆっくりと開いていく。

ドアの隙間から見えてくる啓太の視界には

黒いしおれた長袖のワンピースに肩より下まで伸びた黒髪。

正気を失った目。

紫色をした薄い唇。

痩せ細った身体。

啓太はその女性を見て違和感を感じた。

「こんな女性はこの階では見た覚えがない。」とそう思ったが急いでいた為「早く乗ってください。」とその女性に伝えた。

女性は、か細い声で「すいません。」とだけ言いエレベーターに乗り込んだのだ。

エレベーターが降下していくのが体に伝わってくる。

畳2畳分のスペースに男女2人が沈黙のまま感覚を開け立っていた。

啓太は気にはなってはいたものの、女の方を見る訳でもなく黙ってドアの方を見ていた。

すると突然女が微かに口を開いた。

「ケイタさん。」

啓太の名前を呼んだのだ。

「え?」なんで俺の名前を…

啓太は女の方を見た。

だが、女は下を向き俺の名前を呼んでいた様だった。

女は続けて言葉を発した。

「ケイタさんはカンジョウをいっぱい持っててウラヤましいですネ。」

啓太は突然、自分の名前を呼ばれて混乱していたが女が発した言葉を聞き逃さなかった。

だが、女は追い討ちをかけるように意味不明な言葉を更に啓太へ投げかける。

「ケイタさん、、ワタシねカンジョウがないノ。」

女はずっと下を向き喋っていた。

次に女が言ってきたのは

「タノシイ、悲しい、つらい、怖い、殺したくナルヨウナ殺意…そんなカンジョウがひとつもナイの。」

女は初めて顔を上げ正気のない目で啓太の顔を見て言ってきた。

啓太には「殺意」のところだけ強調したように聞こえた気がした。

啓太はこの密閉された空間でこの女といるのは危険だと本能的に感じ、エレベーター開閉ボタンを何度も押した。

何度も押したがエレベーターは止まらない。

エレベーターは下に降りているのかさえも
わからなくなっていた。

啓太は女の方を指差し

「お前は何なんだ!誰なんだよ!」
 
「ふふっ。」

女の口の口角が少し上がった気がした。

「何がおかしいんだよ!」

啓太の口調は荒くなった。

「イマハオシエナイ。」

そう言と女は啓太の元へ擦り寄った。

「一つめ。」

「やっ やめろぉぉぉぉ!!」

啓太は力づくで自分の体に抱き着いてきた女を引き剥がそうとする。

だが、男の力でも引き剥がす事ができない。

「もらうね。」

女は瞬く間に啓太の首元に顔を近づけ首へと噛み付いたのだった。


ピンポーン

「一階です。」

啓太はエレベーター内に座り込んでおりアナウンスの声で目覚めた。

ふと我に返りさっきの事を思いだした。

「うわああああッッッッ!!!」

啓太はエレベーター中で叫んだ。

必死に中を見渡すが先程までの女はいない。 

エレベーターのドアは空いており一階フロアにいた住人に「なに?」とクスクスと笑われている始末だ。

啓太は恥ずかしさで顔を赤らめ
「すいません。」とだけ言い残してマンションの玄関を早足で出た。

「何だったんだ。妙にリアルだった。」

「絶対に夢じゃない、あの女は確かにいたんだ。」

啓太が歩み進めると同時に
上空からは雪が舞い落ちる。


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