陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明

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第二話 「くじら侍と河童騒動」

伊左馬と夜鷹

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 目を覚ますと、すでに日が暮れていた。
 竿も仕掛けも陽の高いうちに垂らしたまま、なんの変化もない。
 どうやら坊主で終わったようである。

「今日は飯抜きか」

 一匹も釣り上げないと、住処のそばの食い物屋に売ることもできないし、腹を満たすこともできない。
 権藤伊佐馬の住むおんぼろ長屋には、すでに一銭もないし、米も野菜も残っていない。
 本来、呑気に魚釣りなどしている場合ではなかった。

「……やが、わしは釣りか鯨獲りしか芸がないからのお」

 伊佐馬は故郷のことと若き日のことを思い出した。
 新宮藩のれっきとした侍の子として生まれながら、気がついたときには鯨船に乗り込む沖合衆になっていたときのことだ。
 鯨に銛を打ち込む刃刺になりたくて刺水主見習いになり、海に出て刺水主にまでなった。
 鯨が来るのを待ちわびて、来たら来たで命をかけて漁をして、銛を投げて剣で刺し、とどめの鼻を切る。
 血腥い殺生そのものでありながら、巨大な鯨とすべてをだしあって雌雄を決する漁が伊佐馬の生き甲斐であった。

 しかし、それも遠い過去のこと。
 江戸に泳いで辿り着いた彼には、腰に差した手形包丁という小剣こがたなしか鯨漁をしていたときに所持していたものはない。
 どういう訳か小道具屋に売られていた鯨漁のための道具などを懐かしさのあまり買ってしまったことがあるが、それは若い日に使っていたものに比べれば粗悪なものばかりだった。
 唯一、それなりによいものは刃渡り四尺六寸の大剣だんすだけであり、これは棹をつけずにただの刀のようにして腰に差している。
 大剣と小剣の二本差し。
 故郷の連中にみられたら大きな声で指をさして笑われるような取り合わせの侍の出来上がりだった。

 とはいえ、今の伊佐馬にとって他人にいかに見られようとどうでもいいことだ。
 もう鯨漁はできないのだから、人生のやりたいことのほぼすべては失われている。
 江戸という洒脱な町で釣りをして生きるだけ生きて、どうしようもなく腹が減ったらそこで死のうという程度のことしか考えていない。
 だから、一匹も釣れず坊主で終わっても、それこそどうということもない。

「さて、帰るとするか」

 鯨漁には夜はない。
 陽が落ちれば潮も風も荒れてくる。
 それに暴れ回る鯨と暗い夜の海で戦うなど自殺行為以外のなにものでもない。
 だから、鯨獲りの漁師たちは夜にはなにもしない。
 たとえ、漁が長引いていてもう少しでとどめがさせるとしても船長の判断で漁を止めることになる。
 それが鯨漁の厳格なところだ。
 伊佐馬もその習性が染みついているため、基本的には夜になると釣りも漁もしない。

 起きあがって竿を閉まっていると、妙なことに気がついた。
 目の前の隅田川の水面にぽつりと黒いものが浮かんでいる。
 月が雲に遮られているためわかりにくかったが、人間の頭であるようだった。
 それはすーとこちらに寄ってくる。
 飛沫もたてず、音もないので気が付きにくいが、泳いでいるのだ。
 水面から突き出した頭がほとんど上下しないので傍目には泳いでいるようには見えない。

「―――まるで、もののけのようだな。おそろしい」

 川の縁に立ちつくしながら、伊佐馬はのんきそうに言ったが、腹の中は別である。
 もののけと口にしておきながら、実のところまったく怖がってさえいない。
 迷信深いものなら涙を流して逃げ出しそうな光景を平然と見ているだけだ。
 腰に佩いた刀に手をかけようともしない。

 すっと頭らしきものが浮きあがった。
 白い襦袢をまとった女の身体があらわれる。
 黒いのは水に濡れた髪であり、喉と襟もとの白さが艶めかしい。
 月の光が雫に反射してきらきらと輝いていた。
 あまりにも幻想的だった。
 もっとも、権藤伊佐馬という男は度を越えた野暮であった。

「こんな夜中に水遊びとはけったいな女子だのお」

 と、声をかけたのである。
 伊佐馬にとっては夜中に水遊びをしている程度のことだったのだ。
 この時代、夜は灯りもなく、婦女子が一人で道を歩くことは危険すぎることであった。
 まして川を泳ぐなど考えられない。
 しかし、このおかしな侍にはどうということもないようである。

「……お武家さま、わたしのことを御存じないので?」
「知らんな」
「わたしの噂を聞いて、そこで待ってらしたのではないので?」
「いいや。釣りをしてたら寝てしまって起きたばかりだ。わいつのことなどなんも知らん」
「……そうでございますか」

 女はしずしずと岸へと歩んできた。
 そのたびに身体があらわになる。
 白い襦袢が腰と尻に張り付き、なんともそそられる色香を醸し出していた。
 自制心のない男なら我慢できずに押し倒して、むしゃぶりついてしまいそうな肉体であった。

 年の頃は、二十半ばかもう少しいったところだろうか。
 胸の膨らみはしっかりと上を向いていた。
 白襦袢一枚という恰好であったが、四文銭が六枚、銭緡のように革紐を通してまとめられて首にかかっている。
 近づいてくると吊られた銭がちりちりと音を立てた。

「どうやら今日は外れの日のようですねえ。いや、お武家さまがよければ当たりということになりましょうが」

 額や頬に張り付いていた黒髪がとれると美しい女だということがわかった。
 肉感的な身体と丸い唇が色気を湛えている。
 伊佐馬にさえ女がまっとうなものではないことがわかる。
 とはいえ、人の範疇だ。
 そうそう恐れるものでもない。

「わしがどうかしたのかね」
「買っていただけませんか」
「買う? わいつをか?」
「ええ、まあ。二十四文でいいですわ。四文銭が六枚。それでわたしを好きにされて構いませんのよ」
「銭が二十四か、ソバより高いのお。―――もしや、わいつ、夜鷹なのか」

 ソバの値段に言及してから、わずかな間があったのは、伊佐馬の頭の中に目の前の相手が春をひさぐ商売の女だという思い付きがなかったからである。
 伊佐馬とて男だ。
 商売女を買ったこともあるし、金があったら吉原に行ってみようかと考えたこともある。
 だが、この女と夜鷹というものがすぐに結び付かなかった。

 夜鷹とは、夜の街頭で客をとって、樹木の影などにむしろをしいて春を売る女たちのことである。
 夜鷹になるのは、吉原等の年季が明けたけれども行くあての遊女、夫の稼ぎが少ない女、蓄えのない未亡人など様々で、年齢も二十前後から五十代から六十代まで幅が広かった。
 むしろを担いで、黒い着物のため、「夜鷹」と呼ばれた、江戸の町では最も下層の売春婦であったといえよう。

 ただ、この女は一見したところ、そのような堕ちた格というものはなくむしろ上品ささえ覚える。
 最下級の売春婦のものではない。
 視線の動かし方も卑しさがなく、むしろ高慢さの方が強い。
 伊佐馬は訳ありだろうと判断した。

 顔も悪くないし、このの女ならば吉原でも引く手あまたのはず。
 こんな場末で春をひさぐことははっきりいって効率的ではない。
 だから、訳あり、なのだ。

「水に浸ってましたから、ちょいとばかり冷たい身体ですが、殿方に抱いてもらえりゃあすぐに温くなりますよ」
「わしは河童と寝る趣味はないぞ」
「……河童?」

 その一言を聞いて、女はきょとんとした顔つきをしてから大きな声で笑い出した。
 心底、楽しいという風に。

「は、は、は、わたしが河童ですか? ……か、河童!! ふふふっ!!」

 口元を両手で押さえても笑いは止まらない。
 伊佐馬は素直に女のことが河童に思えて仕方なかったので、正直に心境を述べただけなのに笑われるとは心外だ。
 完全に落ち着くまでも一分ほどかかった。
 それでも顔は赤く染まっている。

「はいはい、こんな夜中に川の中からでてくれば河童呼ばわりされたって仕方ないですね。確かに旦那の言うとおりですよ、はい」
「どうやら河童ではないようだな」
「見ておわかりになりません?」
「すぐにはわからんよ。わしは竜ならばともかく河童とはまだ出会ったことがないからな」
「わたしだってありませんよ」

 鼻唄でも歌いそうなそぶりで女は近付いてきた。
 伊佐馬の腕に触れる。
 充分に濡れていて冷たかった。
 どうやら指にも水かきはなさそうだ。

「やめろ」
「どうしてですか? わたしは旦那が気にいったんですけど」
「―――銭がない。余裕があっての女買いなら、げに御もっともな事なれども、素寒貧な浪人の身分なのでな」

 事実、今の伊佐馬は金がない。
 今日の釣果が空である以上、明日食うものもないのだ。
 女などにソバ一杯分でも払える余裕はなかった。
 しかし、女はにやりと艶に微笑んで、

「いいですよ、今日のところはツケということで。商売あまり関係なく、旦那の筒涸らしをさせていただきます」

 手を伊佐馬の股ぐらに突っ込む。
 予想通りの手ごたえだった。

「―――旦那、もう辛抱たまらないのでしょ」
「これ、勝手に武士の刀に触れるでない」
「刀は鞘から抜いてこそ使えるものと聞いております。旦那のものもよく使い込まないと……」

 きゅっと捻られ、伊佐馬の背筋に震えが走った。
 たいした手管だと思う。
 伊佐馬程度の遊びなれない男ではひとたまりもないだろう。
 それで降参した。
 よくはわからんが、河童か人かもわからん女を好きにしてみるのもいいだろう。
 今だけを考えればこれはこれで面白い。

「よかろう。だが、いっておくがわしはぞ」
「何が、でございましょう」

 伊佐馬はにたりと笑い、

「もろもろよ」

 女の腰を軽々と持ち上げると、具合のよさそうな場所を探しに、そのまま繁みの奥へと運んでいった……

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