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四
紫の皇女と青の皇子-2
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孫の柔らかな頬を打った、生々しい感触が、男の手にいつまでもまとわりついていた。
今夜で何度目だろうか、と、思い出すつもりも無いことに思いを馳せてみる。無抵抗な皇子に、罪があるわけではないと、頭では理解しているつもりなのだ。憎いとも思っていないはず。
それなのに、顔を見るとどうしようもなく苛立ってしまう。
「…………」
アドルフは明かりもつけずに窓際の椅子に長いことひとりで座っていたが、やがて、ぐらりと傾ぐように立ち上がると、ベッドサイドに置かれた水に手を伸ばす。
「いけません」
不意に、闇の中から声がした。暗がりから腕が伸びて、アドルフの手を押しとどめる。白い髪が目に入った。
この部屋で彼に声をかける人間など他に誰も居ない。男の剣だった。
「薬を飲むだけだ」
「先程、ブランデーを召し上がりました。体に毒です」
「指図をするな」
癇癪を起こしたような、どことなく子供っぽい調子でそう言って、従者の手を振り払おうとした男の体が、ぐらりと傾く。金糸の刺繍をあしらった、紫のローブが嫌に優雅な弧を描いて、倒れる男の姿を隠した。
鍛えられた体躯は老いても重い。けれど、華奢に見える彼の剣は、その体を羽根のように軽く受け止めて、困ったようにため息をついた。
「あなたは酒に強くない。若くないのだし、程々にしてください」
「うるさい」
「とにかく、薬はいけません。眠れぬほど後悔するのなら、今からでも皇子に優しくして差し上げるといい」
ツヴァイの手を借りて、元居た椅子に戻り、ぐったりと沈み込む。
「……あれは、余に似ている」
低い声で、小さく落とした。
「だからこそ、憎らしく思えるのだ。なぜ……あれに、証が無いのだ。どうして紫を持たない。あれほど、似ているのに――」
怒りの滲む台詞、苛立ちの対象は皇子であり、また、男自身であるようにも聞こえた。
「余は遠からず死ぬ身だ。このままでは、始祖の志を受け継ぐ者は居なくなる」
「アドルフ……」
「証が消えれば、アヴァロンの約束もまた霧散するだろう。余の五十年は、一体……何のための時間だったのだ」
アドルフは身内には冷酷で恐れられたが、名君として長くエウロに君臨していた。誰よりも優秀で、重い決断も一人で背負い、政務において補佐を必要とせず、そして、その分孤独な君主だった。
どんなことも一人で決めて、進んできた彼が最後にぶつかった壁が、後継者問題であったのだ。彼の二人の息子はふたりとも資格を持たずに生まれ、一人は呑気で騙されやすく、もう一人は頭は良いが疑り深い人間だった。アドルフは長く皇太子選びに悩み、結局、生来の気高い気質と、証である紫の両方を持って生まれた孫によって、一度は救われた。
けれど、アーシュラはあまりに弱すぎた。それでも幼い頃は、多くの虚弱児がそうであるように、成長するにしたがい、自然と丈夫になっていくものと信じていた。しかし今では、彼女が長く安定した帝位を維持できるとは、アドルフも考えられなくなっていたのだ。
それでも彼は、紫の有無にこだわった。
賢明なアドルフが、何故これほどに菫色に固執するのか、深く知る者はいない。彼は、若くして帝位についたはじめから、紫の正統性を第一とし、証を持たぬ親族に大きな権力を与えることを避けてきたが――その真意について、誰にも話そうとはしなかったからだ。
「あなたは死にません。アドルフ、弱音などあなたらしくもない。アインなら、きっと笑います」
「アイン……」
「そうですよ、アドルフ。アインが見ています」
ツヴァイは、彼とは親子ほどに年の離れた、主と並ぶととてもふさわしくは見えない、年若い従者である。
彼は、死んだ彼の最初の剣であるアインが拾い、育てた子供であった。アインとアドルフは、幼なじみで――親友同士であったといわれている。
「ベネディクトは……」
「先程、エリンが声をかけていましたから、今夜のところは、大丈夫でしょう」
「そうか……」
アドルフは、うなだれたまま、力なく呟いた。
今夜で何度目だろうか、と、思い出すつもりも無いことに思いを馳せてみる。無抵抗な皇子に、罪があるわけではないと、頭では理解しているつもりなのだ。憎いとも思っていないはず。
それなのに、顔を見るとどうしようもなく苛立ってしまう。
「…………」
アドルフは明かりもつけずに窓際の椅子に長いことひとりで座っていたが、やがて、ぐらりと傾ぐように立ち上がると、ベッドサイドに置かれた水に手を伸ばす。
「いけません」
不意に、闇の中から声がした。暗がりから腕が伸びて、アドルフの手を押しとどめる。白い髪が目に入った。
この部屋で彼に声をかける人間など他に誰も居ない。男の剣だった。
「薬を飲むだけだ」
「先程、ブランデーを召し上がりました。体に毒です」
「指図をするな」
癇癪を起こしたような、どことなく子供っぽい調子でそう言って、従者の手を振り払おうとした男の体が、ぐらりと傾く。金糸の刺繍をあしらった、紫のローブが嫌に優雅な弧を描いて、倒れる男の姿を隠した。
鍛えられた体躯は老いても重い。けれど、華奢に見える彼の剣は、その体を羽根のように軽く受け止めて、困ったようにため息をついた。
「あなたは酒に強くない。若くないのだし、程々にしてください」
「うるさい」
「とにかく、薬はいけません。眠れぬほど後悔するのなら、今からでも皇子に優しくして差し上げるといい」
ツヴァイの手を借りて、元居た椅子に戻り、ぐったりと沈み込む。
「……あれは、余に似ている」
低い声で、小さく落とした。
「だからこそ、憎らしく思えるのだ。なぜ……あれに、証が無いのだ。どうして紫を持たない。あれほど、似ているのに――」
怒りの滲む台詞、苛立ちの対象は皇子であり、また、男自身であるようにも聞こえた。
「余は遠からず死ぬ身だ。このままでは、始祖の志を受け継ぐ者は居なくなる」
「アドルフ……」
「証が消えれば、アヴァロンの約束もまた霧散するだろう。余の五十年は、一体……何のための時間だったのだ」
アドルフは身内には冷酷で恐れられたが、名君として長くエウロに君臨していた。誰よりも優秀で、重い決断も一人で背負い、政務において補佐を必要とせず、そして、その分孤独な君主だった。
どんなことも一人で決めて、進んできた彼が最後にぶつかった壁が、後継者問題であったのだ。彼の二人の息子はふたりとも資格を持たずに生まれ、一人は呑気で騙されやすく、もう一人は頭は良いが疑り深い人間だった。アドルフは長く皇太子選びに悩み、結局、生来の気高い気質と、証である紫の両方を持って生まれた孫によって、一度は救われた。
けれど、アーシュラはあまりに弱すぎた。それでも幼い頃は、多くの虚弱児がそうであるように、成長するにしたがい、自然と丈夫になっていくものと信じていた。しかし今では、彼女が長く安定した帝位を維持できるとは、アドルフも考えられなくなっていたのだ。
それでも彼は、紫の有無にこだわった。
賢明なアドルフが、何故これほどに菫色に固執するのか、深く知る者はいない。彼は、若くして帝位についたはじめから、紫の正統性を第一とし、証を持たぬ親族に大きな権力を与えることを避けてきたが――その真意について、誰にも話そうとはしなかったからだ。
「あなたは死にません。アドルフ、弱音などあなたらしくもない。アインなら、きっと笑います」
「アイン……」
「そうですよ、アドルフ。アインが見ています」
ツヴァイは、彼とは親子ほどに年の離れた、主と並ぶととてもふさわしくは見えない、年若い従者である。
彼は、死んだ彼の最初の剣であるアインが拾い、育てた子供であった。アインとアドルフは、幼なじみで――親友同士であったといわれている。
「ベネディクトは……」
「先程、エリンが声をかけていましたから、今夜のところは、大丈夫でしょう」
「そうか……」
アドルフは、うなだれたまま、力なく呟いた。
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