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五
運命との出会い-2
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「エリン」
彼を呼ぶ、掠れた音が空気を震わせる。声が聞けたことに心底安堵しながら、エリンは顔を上げた。
「ここにおります」
「暗いわ、明かりを点けて」
夜明け前だった。そっと手を伸ばして、ベッドサイドのランプをつける。仄かな明かりが、生気のない主の顔を照らし出した。
美しい瞳が大きく見開かれているのを確認してエリンは嬉しそうに微笑むが、少女が発した言葉は意外なものだった。
「エリン、居ないの……?」
不安そうに瞬きをして、気だるげに起き上がる。
「ここです。アーシュラ」
慌ててその手を取ると、少女は驚いたように一瞬身を固くして、それから、握られた手にそろそろと手のひらを重ねた。
「エリン……?」
「どうなさったのです、医者を呼びましょうか」
「ここにいるのね。何か言っているのかしら?」
「アーシュラ……?」
「見えないの」
「え……」
「それに……聞こえない」
少女の声は震えていた。恐れと怯えに溺れそうな響きに、ぎゅうっと首を絞められたような気がして――思わず、触れ合っていた手を引き寄せて、抱きしめた。
必死に名を呼び、何か言おうとして、それを届かないことに気付いて、口をつぐんだ。どうすればいい? 隣に居て、声が届かないなんて。
「アーシュラ……」
聞こえない呼びかけに、しかし彼女は気づいたのだろう。力の入らぬ腕を少年の背に回し、幼子をあやすように、何度も撫でた。
「驚かせてしまったのね、ごめんなさい」
上辺だけの気丈な台詞。きっと、自分の声が震えていることに、彼女は気づいていないのだろう。
「わたくし、とうとう壊れてしまったのかしら」
少しだけ体を離し、青ざめた顔を覗きこむと、ふたつの紫は、目の間に居るエリンを通り越して、どこか、遠い虚空を見つめていた。
今、戸惑いと絶望に打ちのめされているのはアーシュラのはずだ。従者らしく、主人を助け、励まし、それから医者を呼んで……そういうことにはちゃんと思い至っていたのだけれど、雷に打たれたように、体が動かなかった。
たぶん、恐ろしかったのだ。彼にとっては世界の全てであるところの、主君アーシュラの目に、自分の姿が映っていないのだ、という事実が。
「エリン、何か、言っている? お顔はどこ?」
「アーシュラ、少し、待っていてください。今、医者を……」
怖じ気づく心をねじ伏せるようにし、エリンがベッドから離れ立ち上がろうとすると、
「エリン!!」
何かがはじけたように、少女が叫んだ。
「どこへも行かないで頂戴!」
恐怖に満ちた、悲鳴のような声だった。
「ねぇ、エリン、どこ? どこなの? 聞こえて――」
「アーシュラ……すぐに戻りますから……」
一刻も早く医者を呼ばなければ。届かない言葉の代わりにそう伝えようと指先に触れると、アーシュラは彼の手を必死で捕まえて、しがみつく。
「お医者ならそのうち来るわ、だから、どこにも行かないで。嫌なの、とても、とても暗くて、静かで、自分の声だって、とても遠くて……」
主が泣いていた。生まれて以来、数えきれないほどの苦しい夜を越えてきた、我慢強く、滅多なことで涙を流したりしない、あのアーシュラが。
「まだ……何もしてないわ。行ってみたい場所だってたくさんある。許せない。許せないわ! それに、怖いわ。怖いの! エリン。こんな……わたくし……ねぇ、こんなのは、死ぬよりもずっと辛い。絶対に嫌。お前に触れていないと気が変になってしまいそうなの。だから、だから……」
「――わ、かりました」
掴んだ手を頼りに、もがくようにベッドから降りようとするのをどうにか止め、嗚咽と興奮で呼吸困難になりそうな身体を改めて強く抱いた。少女の身体は強張ったまま動かなかったが、彼女は流れる涙をそのままに、口を閉ざした。
時間をかけて彼女をベッドに座らせる。サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばした。氷は半ば溶けていたが、まだ冷たい。
涙を拭って、背中をさすり、落ち着かせてから慎重にグラスを持たせ、その手を口元に導いてみる。アーシュラは、それが水であることを悟ると、オアシスを見つけた動物のように、喉を鳴らしてそれを飲んだ。
見えないのと、あと、急ぎすぎたせいだろう、まるで初めて水を飲んだかのようにぎこちなく、透明な雫が唇から溢れ、ナイトドレスを濡らした。そういえば、長い時間眠っていて、ようやく目を覚ましたのだ。喉が渇いていないはずはない。
「……おいしい」
一気に飲み干して、うっとりと言った。少し落ち着いたらしい。
「蜂蜜が欲しいわ」
水差しの隣に、飴代わりに食べるために、大好きな蜂蜜が置いてあった。求めに応じて、難儀して蜂蜜を舐めさせた。
生まれたての鳥の雛に餌をやると、こんな感じだろうかと思う。これを零すと大変だなと思っていたら、案の定蜂蜜も口からこぼれ、さらに苦労して着替えもさせることになった。人を呼べば簡単なのだが、その夜、アーシュラはエリンが手を離すことを、結局最後まで許さなかった。
そして、目が覚めても必ず手を握っていることまで何度も何度も約束してから、アーシュラは再び闇から闇へと、眠りについた。
彼を呼ぶ、掠れた音が空気を震わせる。声が聞けたことに心底安堵しながら、エリンは顔を上げた。
「ここにおります」
「暗いわ、明かりを点けて」
夜明け前だった。そっと手を伸ばして、ベッドサイドのランプをつける。仄かな明かりが、生気のない主の顔を照らし出した。
美しい瞳が大きく見開かれているのを確認してエリンは嬉しそうに微笑むが、少女が発した言葉は意外なものだった。
「エリン、居ないの……?」
不安そうに瞬きをして、気だるげに起き上がる。
「ここです。アーシュラ」
慌ててその手を取ると、少女は驚いたように一瞬身を固くして、それから、握られた手にそろそろと手のひらを重ねた。
「エリン……?」
「どうなさったのです、医者を呼びましょうか」
「ここにいるのね。何か言っているのかしら?」
「アーシュラ……?」
「見えないの」
「え……」
「それに……聞こえない」
少女の声は震えていた。恐れと怯えに溺れそうな響きに、ぎゅうっと首を絞められたような気がして――思わず、触れ合っていた手を引き寄せて、抱きしめた。
必死に名を呼び、何か言おうとして、それを届かないことに気付いて、口をつぐんだ。どうすればいい? 隣に居て、声が届かないなんて。
「アーシュラ……」
聞こえない呼びかけに、しかし彼女は気づいたのだろう。力の入らぬ腕を少年の背に回し、幼子をあやすように、何度も撫でた。
「驚かせてしまったのね、ごめんなさい」
上辺だけの気丈な台詞。きっと、自分の声が震えていることに、彼女は気づいていないのだろう。
「わたくし、とうとう壊れてしまったのかしら」
少しだけ体を離し、青ざめた顔を覗きこむと、ふたつの紫は、目の間に居るエリンを通り越して、どこか、遠い虚空を見つめていた。
今、戸惑いと絶望に打ちのめされているのはアーシュラのはずだ。従者らしく、主人を助け、励まし、それから医者を呼んで……そういうことにはちゃんと思い至っていたのだけれど、雷に打たれたように、体が動かなかった。
たぶん、恐ろしかったのだ。彼にとっては世界の全てであるところの、主君アーシュラの目に、自分の姿が映っていないのだ、という事実が。
「エリン、何か、言っている? お顔はどこ?」
「アーシュラ、少し、待っていてください。今、医者を……」
怖じ気づく心をねじ伏せるようにし、エリンがベッドから離れ立ち上がろうとすると、
「エリン!!」
何かがはじけたように、少女が叫んだ。
「どこへも行かないで頂戴!」
恐怖に満ちた、悲鳴のような声だった。
「ねぇ、エリン、どこ? どこなの? 聞こえて――」
「アーシュラ……すぐに戻りますから……」
一刻も早く医者を呼ばなければ。届かない言葉の代わりにそう伝えようと指先に触れると、アーシュラは彼の手を必死で捕まえて、しがみつく。
「お医者ならそのうち来るわ、だから、どこにも行かないで。嫌なの、とても、とても暗くて、静かで、自分の声だって、とても遠くて……」
主が泣いていた。生まれて以来、数えきれないほどの苦しい夜を越えてきた、我慢強く、滅多なことで涙を流したりしない、あのアーシュラが。
「まだ……何もしてないわ。行ってみたい場所だってたくさんある。許せない。許せないわ! それに、怖いわ。怖いの! エリン。こんな……わたくし……ねぇ、こんなのは、死ぬよりもずっと辛い。絶対に嫌。お前に触れていないと気が変になってしまいそうなの。だから、だから……」
「――わ、かりました」
掴んだ手を頼りに、もがくようにベッドから降りようとするのをどうにか止め、嗚咽と興奮で呼吸困難になりそうな身体を改めて強く抱いた。少女の身体は強張ったまま動かなかったが、彼女は流れる涙をそのままに、口を閉ざした。
時間をかけて彼女をベッドに座らせる。サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばした。氷は半ば溶けていたが、まだ冷たい。
涙を拭って、背中をさすり、落ち着かせてから慎重にグラスを持たせ、その手を口元に導いてみる。アーシュラは、それが水であることを悟ると、オアシスを見つけた動物のように、喉を鳴らしてそれを飲んだ。
見えないのと、あと、急ぎすぎたせいだろう、まるで初めて水を飲んだかのようにぎこちなく、透明な雫が唇から溢れ、ナイトドレスを濡らした。そういえば、長い時間眠っていて、ようやく目を覚ましたのだ。喉が渇いていないはずはない。
「……おいしい」
一気に飲み干して、うっとりと言った。少し落ち着いたらしい。
「蜂蜜が欲しいわ」
水差しの隣に、飴代わりに食べるために、大好きな蜂蜜が置いてあった。求めに応じて、難儀して蜂蜜を舐めさせた。
生まれたての鳥の雛に餌をやると、こんな感じだろうかと思う。これを零すと大変だなと思っていたら、案の定蜂蜜も口からこぼれ、さらに苦労して着替えもさせることになった。人を呼べば簡単なのだが、その夜、アーシュラはエリンが手を離すことを、結局最後まで許さなかった。
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